優しい音色
こんこん、こんこん。
さぁ、扉を開けて、本当のキミの音を、聞かせて。
ぷぉーんと、柔らかな音色が放課後の教室を満たす。
ユーフォニウムの奏でる音色はとても繊細で優しく、聞くだけで心穏やかになる。
ユーフォニウムに限らず、管楽器というのはとても運命的なものだ、と先輩は言った。
人の唇の大きさ・形が人それぞれであるように、管楽器のマウスピース―管楽器において、口をあてて息を吹き込む部分の部品―も大きさが違う。マウスピースの大きさによって奏でられる楽器というのは変わってくるのだ。
『マウスピースとの、楽器との接吻をして一番相性のいい子をパートナーにするんだ。管楽器は、とても運命的なものなんだよ』
君が、ユーフォニウムに選ばれたようにね。
私はそんな先輩の言葉に惹かれて、吹奏楽部への入部を決意した。
軽やかな木の音色を感じさせるクラリネット、ふんわりと軽く妖精が飛び跳ねているような音のフルート、澄んだ高い音を長く響かせるオーボエ、金色に輝く木管の花形サックス、華やかな音色を持つトランペット、音も見た目も丸いホルン、腕を使って音を変えていくトロンボーン、重く低い音で曲のベースを支えるチューバ。
どの楽器も、個性的で魅力的であれこれ目移りする中、私はこの子と出会った。
透明な音で柔らかくいろんな楽器の音とまじりあうユーフォニウム。
私の唇はなんでも、ユーフォニウムのマウスピースにピッタリなんだという。
ユーフォニウムとトロンボーンのマウスピースは形が一緒で、だからその時、私にはユーフォもトロンボーンもどっちも選択肢があった。
誰をパートナーにするか。
正直、吹奏楽部を見学に来るまで私はユーフォニウムの存在を知らなかった。あんなにも、優しく透明な音色を響かせる楽器があるなんて知らなかった。
何よりも、ユーフォニウムは抱きしめるようにして奏でる楽器だ。
なんて素敵な楽器だろう。
そうして私は、この子をパートナーに決めた。
「だいぶきれいな音を奏でられるようになってきたね」
「見浪先輩…!本当ですか…!!」
入部してから、同じパートの先輩が指導に入ってくれるようになったけど、同じユーフォ吹きの見浪灯先輩はとても優しくて、その優しさが音に反映されてるんじゃないかと思う位優しく澄んだ音色を奏でる人だった。
そんな人が私の音をほめてくれたとなれば、喜ぶという選択肢以外ないだろう。
「やっぱり、ちいちゃんとユーフォは相性がいいんだね。僕もなんだか嬉しいよ」
ふんわりとした笑顔で笑う先輩は、銀色に輝く先輩のユーフォ―名前は山田さんというらしい―をぎゅっと抱きしめてマウスピースに口を当てた。
耳に心地よい音がユーフォから流れていく。課題曲の、メインパートではない部分のはずなのに聞いているだけで楽しくなるようなリズムで、思わず聞き惚れてしまう。
私が入部して、ユーフォという楽器を知らなかった時、見浪先輩が教えてくれたのだ。
管楽器は、とても運命的な楽器だと。私は、ユーフォに選ばれたんだと。
楽器との接吻、なんて気障なセリフも見浪先輩の口からきくととても素敵な言葉に思えて、私はこの人が先輩で良かったと、心の底から思う。
そう、あいつよりも。
「よし、私ももっと練習して、ユーフォに見合うパートナーにならなきゃ」
「その通りだちいはらj」
「!?」
声がして振り向くと、そこにはほそっこい体つきをした高慢そうな顔をしたやつが立っていた。
「…大原ですが、なにか」
「ちいはらの腕じゃ、そのユーフォをまだまだ活かしきれない。精進することだな」
「大原です、ひがしの先輩」
「と、う、の、先輩だちいはら」
同じBASSパートで、チューバ担当の東野先輩は私のことをいつも“ちいはら”と呼ぶ。私の本名は大原だが、身長が小さいからと“ちいはら”などと屈辱的な呼び方をされている。見浪先輩も私のことをそこから“ちいちゃん”と呼ぶが、それはなんか可愛いから良しとしてる。なんてったって見浪先輩だし!
「というかな、ちいはら」
「大原です」
「お前、肺活量がぜんっぜん足りてない。いいか、お前は、あの甘々な灯の元で指導されてるから、運命だの楽器とのキスだのと言われてるかもしれないが大間違いだ」
「…じゃあなんだっていうんです」
「接吻なんて甘いんだよ。あれは人工呼吸だ」
「…は?」
何言ってるんだこの人は。
「は、じゃない。マウスピースから俺たちの息を吹き込んで初めて楽器は生きる。生きて音を奏でる。俺たちの人工呼吸がいかに優れているかで音色が変わるんだ。それを接吻などと生ぬるい表現をされては困る」
「何言ってるの東野」
「…見浪」
「見浪先輩…!」
呆れたような声で見浪先輩が私と東野先輩の間にするりと入った。
見浪先輩の責める様な目に、東野先輩はうっとたじろぐ。
東野先輩は何かと見浪先輩に弱いし甘い。生ぬるいことを!とか言いながら窘められると何も言えなくなってしまうのだ。
「な、なんだよ。俺はそう思ってチューバと向き合ってるんだ。…文句あるか」
「文句はないけど、後輩に自分の意見を押し付けるのはよくないよ。ちいちゃんだって困ってるじゃないか」
「お前だってちいはらに自分の意見を押し付けてるだろう…!」
「ちいちゃんは僕の考えに賛同してくれただけだから。押し付けじゃない」
「じゃあ俺だって後輩に自分の考えを話すくらいいいだろう」
「さっきのは押し付けだった」
「違う」
「違くない」
弱いはずの東野先輩が、何故か今日は頑張っている。どれだけこの人は人工呼吸にこだわっているんだ。
確かに、息を吹き込んで初めて管楽器が音を出すっていうのは間違いじゃないし、吹奏楽というのは文字通り吹いて奏でる音楽だ。けれど、楽器に人工呼吸と考えて吹くよりもキスをしながら音を奏でると考えた方がよっぽどいい音が出そうだ。
まぁ、チューバ―東野先輩はレイチェルと呼んでる―をあの細い体躯で吹くのだから、人工呼吸位の必死さがなければあれだけの音を出せないのかもしれないけど。
「ねぇちいちゃんはどう思う?」
「俺と灯、どっちが先輩としていいと思う?」
私が考え込んでいる間に、話はヒートアップしまくって論点が若干変わっていた。
「もちろん、僕だよね?」
「俺だろ」
「いや、普通に見浪先輩でしょう」
やったぁとお花を飛ばして喜んでいる見浪先輩の横で、ずーんと暗く沈んでいる東野先輩に聞きたい。その自信はどこからくるんだと。
「…練習、してくる」
「いってらっしゃい」
ふらふらと片手でレイチェルを担ぎながら個室へ移動する東野先輩に苦笑しつつ、私も金色に光るユーフォの背を撫でる。
私も、楽器に名前をつけてみようかな。
「ちょっとおしゃべりしすぎちゃったし、僕たちも練習しようか」
「ですね!」
新しい譜面を開くと、ユーフォを膝に乗せる。
パントマイム、というこの曲は、ユーフォニウムのための曲と言っても過言ではないユーフォメインの楽曲。
見浪先輩が練習用としてはちょっと難しいけど、吹けるとすごく気持ちいいから練習してみて、と譜面をくれたのだ。
広音域でかつ、色んな動きがあるこの曲の良さを引き出せるよう目を瞑ってイメージする。
「ちいちゃん」
「…?」
ふいに見浪先輩の声が聞こえて目を開けると、見浪先輩もユーフォを膝に乗せながら言う。
「僕も東野も、楽器に対しての考え方は違うけどね、それぞれに自分の楽器が大好きなんだよ。だから、パートナーに最高の音色を奏でてほしい。接吻も、人工呼吸も、その音色を引き出すためのとっかかりになる考え方なだけ。大切なのはどんな音を楽器に奏でてほしいかなんだよ。それを考えながら吹いてごらん」
「…はい」
もう一度目を閉じて考える。
見浪先輩のユーフォはとにかく優しい。東野先輩のチューバは、深みのある。
二人とも考え方は違うけど、それぞれに楽器を愛して自分の音色を見つけている。
私が目指すのは、ふんわりと、柔らかく、深みのある音色。
ドアをノックする様に、閉じこもっている音色を引き出す様に私はユーフォに接吻をして、息を吹き込んで、語りかける。
こんこん、こんこん。
ねぇ、君の音色を、私に聞かせて。
息をゆっくりと吹き込んで、最初の音を奏でる。
その音はまだまだ不格好だけど、今までで一番私らしい音だった。
昔、私がユーフォニウム吹きをしていた頃のことを思い浮かべながらかきました。