6話
夢を見た。
それを夢と決め付けるのもいかがなことかと思わなくもないが、しかし今回は程なくして目が覚めたのだから間違いなく夢だろう。
そこは空間があるということ以外に何も分からない。
足場があるような気もするし、無いような気もする。
色があるような気もするし、無色なようにも感じる。
匂いがするような気もするし、無いような気もする。
そんな中に突然、俺から五歩程度離れた場所に女性が現れた。その女性は確かに唐突に現れたはずなのだが、同時にずっとそこにいたような気もしてならない。そのせいかそこに人がいることへの驚きも皆無といって差し支えないだろう。
白いワンピースに身を包み、色白な肌と対照的な艶のある黒髪が背中まで伸びている。顔は影になっていて見えないが――口元は淡いピンクの唇が見える――肌艶や、雰囲気から二十代前半の女性という印象だ。
秋にワンピースというのは季節はずれにも思えるが、ここが夢の中である以上こんなちぐはぐもありだろう。
「……どこかで会ったこと、ありますか?」
口元が少し寂しそうに、苦笑いを浮かべるように歪んだ。しかしそれは一瞬だけで、すぐに微笑みを口元に作り出すと、僅かに首を縦に動かした。
「すいません、覚えて無くって。名前とか教えてもらえれば思い出すと思うんですけど」
女性は首を横に振った。
教えても思い出せないということだろうか。それとも声が出せないという意味なのか、どちらにせよ名前を教えて貰うことは叶いそうにない。
「そもそも、俺名前知ってますかね?」
悔しそうに唇を僅かにきつく結ぶと、女性は首を縦に振った。
「ヒントとかもらえませんか? ジェスチャーとかでいいんで」
俺が言うと、なぜか裸足の女性はゆっくりと歩いて俺の目の前までやってきた。近づかなければ出来ないジェスチャーとはなんだろうかと、思考を目一杯働かせるが、女性による不意打ちにより思考はおろかありとあらゆるもの、時間までもが停止したように感じるほどの衝撃が走る。
俺よりも少しばかり小さな女性は俺の肩に掴まり、背伸びをした。
「ほへ?」
柔らかくて温かなものが俺の額に押し当てられる。
数秒後、女性は背伸びを止め、一歩俺から遠ざかった。
なぜ、どうして、なにが――そんな言葉ばかりが頭の中を満たしていく。
なぜこんな事をしたんだろうか。
どうして俺はこんな事されたのか。
なにがジェスチャーに関係しているのか。
俺が混乱の中に取り残されているのを少し見ていた女性は、小さく手を振ると、俺に背を向けて歩き出した。
「ちょ、待ってくださいよ!」
一歩、足を前に出したと思ったのだが、実際はベッドから体を跳び起こしているという、分かりやすく夢オチ。
「明日、琴音の墓参りに行こう。しばらく行ってないからいい夢の途中で起こされたに違いない」
ふと、俺はそう口にして倒れるようにして睡眠へと戻ってしまう。
お日様みたいだからスキ――そんな理由で琴音はひまわりをとても気に入っていた。さすがに秋ともなるとひまわりは見つからず、今日は手ぶらでやってきてしまったが、まあ別に拗ねて祟ったりはしないだろう(昨晩祟られた気がしないでもないが)。
「十年か、早いもんだな」
思い返せば本当に昨日のことのように思い出すことが出来るが、しかし、実際の時間は十年も経過している。小学一年生が高校に入学するだけの時間があるわけだ。
十年も何かがあるたびに、ふらっとやってくるものだからこの墓地の管理人さんとも仲良くなったりしている。
秋空の下、何をするわけでもなく、何を考えるわけでもなく、しばらく俺は琴音の墓の前に座り込んでいた。
それが何になるのかと聞かれれば俺自身も返事に困るが、まあ少なくとも多少心が落ち着く気がする。もちろん気がするだけで、確実に何か変わることと言えば太陽の位置くらいなものなのだが。
「うん、もう帰るわ」
空を見れば太陽が真上に上っていた。
ここに来たのが十時ごろだから二時間近くはぼーっとしていたのだろう。我ながらなぜ座っているだけで二時間も経過するのか気にはなるが、気にしたところで一銭の得にもならないのですぐに忘れ去る。
「お昼か、何食うかな」
昼飯のついでに買い物をして帰らないと家に飲み物が残っていないことを思い出し、とりあえず近所の大型複合施設を目指した。
いや、目指そうと思い墓地を出る。
「「「あ」」」
三つの声がぴったりと重なり合った。
ゆずと遥がなぜこんなところで歩いているのだろうか。
近所に住んでいれば通りかかることに不思議は無いはずなのだが、このときの俺はなぜか不思議に思った。
「おお、冥利君。こんにちは」
「こんにちは」
「お昼食べた?」
「いや、まだだけど」
「じゃあ今から一緒にどう? もちろん、先輩のおごりだよ」
背筋が凍るような視線に、さっきから黙って俺を睨んでいる遥に視線を向けた。
この人は彼女が他の男と喋るだけでいちいちキレるのかよ、めんどくせぇな。というかゆずはよくこの人と付き合っていられるよ、超束縛強そうじゃん。
「ん、遥なら大丈夫だよ。こんな顔しか出来ないだけだから」
「ゆず、それは違う」
「うーん、どこいこっか? どこか希望ってあったりするかな?」
笑顔で遥を無視したゆずは、小首を傾げながら希望を問うてくる。
「おいゆず、無視するな」
「そうだなー、とりあえずショッピングモールに行こうよ。買い物もしたいし」
「ゆ、ゆず。そろそろボクの話を」
「よーし、決定! じゃあお昼食べて、冥利君を荷物持ちにして買い物だね。遥もそれでいいでしょ?」
「……分かった」
俺にでもいやいやというのがわかるほど、表情は不満に満ち満ちていた。普段俺に向ける冷酷な表所と視線は見る影も無い。
「よし、じゃあいっぱい買い物しちゃうからね」
満面の笑みを一人の不満たっぷりな表情と引き換えに手に入れたゆずは、鼻歌混じりに俺たちを先導していく。
「大変そうだな遥」
「気安く名前で呼ぶな」
「いや、この前は名前があるって言ってたじゃねーか」
「お前は馬鹿か? いつ名前で呼べといった」
「じゃあなんて呼べばいいんだよ」
俺の言葉に返す言葉を失ったのか、遥は僅かに硬直した。
「ボクのことは基本的に呼ぶな。どうしようもない場合だけ名前で呼べ」
あまりに横暴な要望に遥の正気を疑いそうになったが、何度も俺を殺そうという意思を見せている奴の正気を疑っても意味が無いことだろうとすぐに悟る。
「はいはい」
「はい、は一回でいい」
小さなころに厳しかった先生によく言われた言葉に、なぜか俺の反抗心が燃えてしまう。
「はーい」
「伸ばすな」
「はぁい」
「無駄だぞ」
「はい」
遥は僅かに口角を上げて頷いた。
どんなことをして、どんなタイミングで、復讐をしてやろうかと黙々と考えているうちにショッピングモールは見えてきた。平日とはいえ、それなりの車が止まっていることから混雑していることが予想される。それもそのはずと言えよう、このショッピングモールには決して大きいとは言えないこの町で過ごす上であって困らないものの大半が詰まっている。例えば、フードコート、服屋、CDショップ、書店、スーパー、雑貨店、映画館、ゲームセンターなどなど。
本当にいろいろなものがあって色々な人がいるこの場所は、正直得意ではないがとにかく便利だなーと常々思っているのだが、今日はいつも以上に驚かされていた。
「お、おい、どうしたそれ」
フードコートで各自好きなものを頼んで机に集合したのだが、いつの間にか遥に変化が訪れていた。
「買ってきた以外に何がある?」
さも当然のように遥は言った。遥が大事そうに抱いているのは、可愛らしいクマのぬいぐるみで、それなりにはお値段がしそうだ。
「なぜそんなに驚きに満ちた顔をしている」
怪訝そうな顔で俺を遥は見ているが(なぜかゆずは俺を見て机を叩きながら大爆笑していた)、むしろどうして驚かないと思っていたのだろうか。クールな、クールというか冷酷なイメージの男が、突然ぬいぐるみを大事そうに抱いて現れたことに対して驚くなということがどれだけ難易度の高いことなのかコイツは理解していないのか?
「そ、それは、あれか、あのー、俺を驚かそうとしてやったのか? だとしたら大成功だ、良かったな。ということでネタバラシをだな」
「だからさっきからお前は何を言っている。これはボクが欲しくて買ってきたものだ。ゆずもおかしいぞ、そんなに笑って周りの人に迷惑になるだろ? そろそろ、落ち着いたらどうなんだ」
不思議そうな、困ったような、そんな顔で俺とゆずを交互に見る遥という物はなかなかに新鮮だった。というか基本脅されているイメージが強すぎるせいなのだろうが、それにしたって新鮮すぎる。そしてその新鮮な姿を見て、俺は女子だったら普通に可愛く見えるのにな、などとちらりと思う。
それこそ服装を変えるだけで十分可愛く見えるに違いない。
「あははははははは、あー、お腹痛い。死んじゃう、死んじゃうよ」
まだ笑いが収まらないらしいゆずは、その後も何度も机を叩き、目に涙まで浮かべて笑っていた。
「あー、面白かった。あのね、冥利君は遥を男だと思ってたんだよ」
「そうなのか」
「いやいやいや、そうなのかって男だろうが」
「ん?」
眉を寄せて、何言ってんだコイツ、見たいな視線を俺に遥は向けているが、その言葉はそっくりそのままお返しするとしよう。
「冥利君、遥はね、遥『君』じゃなくて遥『ちゃん』なんだよ? 男物の服着てるから分かり図らいけど、ちゃんと丸みを帯びたからだつきの女の子だからね? もちろん、心も。ねぇ、遥」
「丸みを帯びてるかどうかは分からないが、ボクは女だぞ」
世界が音を立てて崩れる、という言葉の意味を今、身をもって俺は体感している。実際に体感してみると崩れるというよりも、現実が意識から遠退いていく感覚のほうが強く感じるが、まあなんにせよびっくりだ。驚いた。俺の世界が崩壊するほどの衝撃だ。
「おーい、大丈夫?」
体が強く揺さぶられ、俺の意識は無事現実世界に帰還した。
「あ、ああ、ちょっと意識が飛んでたかもしれない」
「まったく、どうしてそんなに驚くんだ?」
「そりゃ驚くだろ! そんな紛らわしい格好しやがって」
俺の一言に遥の顔がいつもの冷たさを取り戻し、そして言った。
「ボクがどんな格好をしようと勝手だろう? お前に指図される筋合いは無い」
表情が希薄になればなるほど青みを増しているようにも思える瞳は、過剰すぎるほどに俺を責めていた。
「まあまあ、遥。別に冥利君は責めてるわけじゃないよ、ね?」
「も、もちろん。責めたつもりは一切無いんだ、勘違いさせたようならすまん」
一瞬奥歯を強く噛み締めるような表情を見せてから、少しばかり乱暴に椅子に腰を落とした。
当然のように注目が俺たちに集まっているにもかかわらず、ゆずだけは気にした様子も無く、平気そうな顔で笑ってこの前あったという学校での話をしだした。突然始まり、何か落ちがあるわけでもなく唐突に終わる。そんな話を俺と遥は相槌を打ちながら二、三聞き終え次に映ろうとしていたときだった。
「でね――」
「きゃぁぁぁ!」
フードコート全体に響くような大きな女性の叫び声が上がった。ゆずは迷う様子など無く椅子を蹴り飛ばすほどの勢いで走りだす。
「ちょまっ」
ゆずが飛び出すのとほぼ同時に遥も飛び出していた。俺も一瞬遅れ二人の後を追うが、人ごみと、出だしの遅れによって俺が二人に追いつくのは数秒か遅れてしまう。
しかし、その数秒で事は全て終わっていた。
「ゆず、もういい」
厳しく言う遥。
「どうして? この人はいけないことをしたんだよ?」
とぼけるような口調でゆずは答えた。
「お、おい。何やってんだよ」
俺の遅れた僅か数秒で何が起きたのかは分からない。しかし、物の数秒でなぜこうなった? そもそも、ここまでする必要があったのか?
理解の追いつかない俺の目の前に広がっていたのは、尻餅をつく女性と、男に馬乗りになってきつく握られた拳を振り上げ遥を見つめるゆずと、悔しそうな表情で唇を噛む遥と、白目をむいて鼻から血を流す男だった。
恐らく尻餅をついている女性がさっきの声の主だろう。そしてゆずに馬乗りされて白めむいているのが、女性に何かをした男だと思われる。ちなみに男の手に女性者のバックが握られていることから、こんなところでバックを盗んで走り去るつもりだったのだろう(なぜこんな監視カメラが多そうな場所で犯行に及んだのだろうか)。
何がなんだか分からないが、とにかくゆずが男を殴って止めたであろう事だけは容易に想像が出来る。しかし、気を失うまで殴ったのか?
「ゆず、今日はもう帰るぞ」
遥は言うと、強引にゆずの腕を掴み引きずるようにしてこの場を去っていった。
誰もが唖然とした表情で二人が去るのを見守っていると、しばらくしてその視線全てが二人の関係者らしき人間、すなわち俺へと極々自然な流れで集まってくる。
「いや、あの二人はついさっき知り合った人で、詳しくは知らないんですよ」
ついさっきまで一つのテーブルを囲んで、笑ったり怒ったりしているのを見られていながらそんなことを言ったところで一体何人が信用してくれるか怪しいが、ここでの騒動の責任を逃れる可能性が一パーセントでもあるのなら、言う価値はあるだろう。
もし、信用してくれるのなら。
「ん、やー八神君じゃないか? どうしたんだい、こんなところで人に囲まれて。人気者だねぇ」
ヘラヘラと笑いながら人ごみを掻き分け現れた我孫子は、楽しそうに言いやがる。
「人気者に見えんのかよ」
「もちろんだよ、大勢に囲まれて羨ましい限りだね」
辺りの視線が若干我孫子に向かう。自分に視線が少し向いた程度のことで我孫子はその飄々とした態度のまま、笑顔を崩すことなく何かを察したのだろう。
「もしかして二人と一緒にいた?」
俺は無言のまま小さく頷いた。
「それは災難だったね、ちょっと場所を移そうか」
我孫子は言うと一人で先に人ごみから逃げると、大声を張り上げる。
「じゃあ八神君、あとは頑張りたまえ。僕は一足先に君の家に向かうとするよ」
「おい、待てこの野郎!」
言うがしかし、俺の言葉に対する返事は返ってこない。もう去ってしまったということだろう。俺の周りを囲む、人間で出来た塀をどうにか越えなければ俺は家に帰ることは出来そうにない。
我孫子は俺の家で話そうと言っていたが、果たして俺は家まで無事に帰れるのだろうか?
というわけで、6話でした。
至らぬ点が多々あるとは思いますが、少しでも楽しんでいただけていれば幸いです。