2:ひどく汚い嫌悪の中で
──この都市の唯一の階層移動エレベーターに乗る中央ターミナル。
下級階層といえど、否、下級階層だからこそというべきか、この場所はめったに踏まれることがなく、外と比べて不相応極まりない見目良さを実現していた。
その中でエレベーターを待つ青年のその顔は、つまらない仕事を引き受けた事への不満と気だるさをありありと浮かべている、見目良い顔とは言えない表情をしているのだが。
その眉間の溝がさらに深まる。
少し高台にある塔の中、エレベーターが止まるその場所から、外の様子が見える。
極めつけには、その場所であった。
下級階層。
この名誉階層都市の中で一番低く、広い場所は、建物が競い合うように建ち並んでいた。
しかしそうしてところ狭しと立ち並ぶ建物群も使い古されたように疲労感を浮かばせており、近いうちに倒壊でもするのではと危惧するほどに上へ上へと足された形跡さえある。
そうして足された建物に合わせて、道もまた上下左右、クモの巣よりも複雑に、乱雑に入り組み、さらにはその材質までもが鉄骨の重ね合わせや梯子に板を重ねたようなものまである始末。
そんな、この都市で最も低く、もっとも広く、もっとも意地汚く、もっとも懸命に生きている場所。
そして同じ高さにあるのにも関わらず、まるで世界が違う、この美麗極まるターミナル内。
長居したくない。
眉間の皺がまた物語る。
「……汚ェ」
景色に一言、声が漏れた。
心底から侮蔑したような、そんな声が。
すると、漏れ出た声に応えるように、ガラスが外の景色を隠した。
代わりに写されたのは、ドアだった。
待っていたエレベーターの到着を認識してほどなく、ドアが開く。
「早かったな」
入ろうとするなり、声をかけられた。
「思いのほかつまんねぇ仕事だったもんでな」
返す言葉は、やはり不満を帯びた。
目の前の、声をかけてきた男を見やる。
堅い印象を受けるスーツに身を包んだ男は、服装に見合わない軟弱な表情で笑った。
そのスーツの胸には、猛々しいデザインの刺繍……カースト上級階層の役員のマークが光っていた。
「すまん。手間をかけさせたな、バクス」
「犬を使って謝る飼い主は喜劇役者か変人だぜ、リー」
愛称で呼ばれ、青年──バクソート・ノーヴェルは鼻で笑って軽口をたたくと、手を振って謝罪を振り払う。
しかし言葉とは裏腹に、眉はさらに不満を帯びた。
エレベーターのガラス越しにふたたび見えた下級階層の景色に、先刻の見張り兵の少年への言葉が流れる。
しかしそんなバクスとは対照に、言葉を聞いた男……リーヴ・オウル・ヘッセンの軟弱な笑みは、少しだけ楽に変わった。
「卑下するな。お前は頼りになる"仲間"さ」
人当たりの良さそうな笑顔を向けて、バクスの肩を叩く。
……その言葉はバクスにとって、現在進行形で嫌悪していた物とあまりにも対照的な位置にある名詞を自分に当て嵌めようとする、不快極まりない物であったのだが。
さらに、神経が逆撫でされる。
「……はいはい。それで?なんで俺がこんなとこにお手伝いするはめになったんだい?ありゃどーみても中級の犬っころで充分だろーよ」
一層声を低くして、話題を変えた。
「はは、そういうなよ。今回の件は結構不特定な要素が多かったからな、お上も安全性を考えてのお達しなんだろうさ」
「は、ビビりだねえ、さすが座っておしゃべりが仕事だけあるぜ」
漸く笑って……といっても、口汚い嘲笑だが、それでも笑って返したバクスに、リーは苦笑を浮かべて返した。
「まぁ、」と、リーはその視線を、エレベーター越しの外へと向ける。
「もしも"非常事態"がおこれば、どの道正面の大門を守るために降りることになるんだ。いい練習になったんじゃないか?」
その言葉に、バクスもまた視線を外へと向けた。
正確には、外にある、この都市の「門」へ向けた。
――非常事態。
この都市の唯一無二の出入り口である、分厚く巨大な大門から、この都市へ外部からの何らかの存在が来訪したことを、そう呼んでいる。
その来訪者をこの都市から追い出してこの都市を、この都市の平和を守ることも、カーストセーバーの仕事である。
……である、といっても、もはや風化したといっても過言ではないほどに、前例のない任務ではあるのだが。
それほどまでに、この都市は長い間、頑なに閉ざされているのだ。
何世紀も。
そしてこの閉ざされた都市の外からの干渉は、人々が「非常事態」と呼ぶほどに疎遠であり、忌避されている出来事なのである。
それが最初からなのか長年の外部不干渉による考え方の変化なのかは知らないが、兎にも角にも閉鎖主義を貫くわが都市に内心辟易しながら、否、実際に嫌悪感を眉根に表しながら、「非常事態ねえ……」と、おうむ返しに口にする。
「そんなハッピーな日があるのかねぇ」
「まぁ、わかんないだろ?この都市の外がどうなってるかとか、上の階層からちょっと覗く景色くらいしか知らないし」
ただの一度も開かれたことがないとまで言われる大門を眺めながら笑うリーに溜息をついて、言外に訴えた。
この都市の誰もが、この都市の外に出たことも、下級階層の住民に至っては外の景色の切れ端さえ見たことがないというのに、そんな日が来るはずがないだろうに、と。
……同時に、そんなこの都市の思考と僅かながらも同じことを考えてしまう自分にさえ嫌悪が浮かぶのは言うまでもなく。
眉間のしわがいよいよ深刻になり、バクスはそれを隠すように、リーを通り過ぎるようにしてエレベーターへと歩を進めた。
「はいはい、無駄な妄想はやめて、さっさと戻ろうぜ」
エレベーターへとリーの襟を掴み、引きずる。
そして、
「……俺は俺の平穏さえ保てりゃ、充分だ」
たまりにたまった嫌悪を吐き捨てるように、しかし誰に聞こえることもないつぶやきを口にした。
――その言葉と重なるようにそれが起きたのは、偶然なのだろうか。
不意に、リーを引きずっていたバクスの目が、ガラス張りのエレベーターの向こうの景色に何かを捉えた。
「……あ?」
疑問の声を漏らす。
しかし、その異変が何なのかを、すぐに理解することは不可能であった。
何故か。
「……どうした?バクス。そろそろ俺のかわいい首の関節が泣きだしてきて辛いから離してくれると助かるんだけどな」
「……おい、リー」
冗談めかして、否、その中にはっきりとギブアップと苦悶のサインを滲ませながらもバクスに声をかけるリーに、バクスは質問で返すこととなった。
……何故か。
その視界に収めた「それ」は、あまりにも可能性として低いと考えられていた、平たく言ってしまえばありえないような出来事であったからである。
轟音が爆ぜる。
その音の主は。
「──大門って、あんなに隙間空いてたか?」
閉ざされていた大門。
その、巨大な扉である。
それを理解した直後。
──先ほど可能性を斬って捨てた、「非常事態」を報せるけたたましい警報が、この都市の音を支配した。