9:落下と逃亡の先で
光が、景色が流れていく。
それはおよそ風よりも早く、いっそ幻想的とも言える光の残滓を残して少女の眼に映る。
しかし、少女にそれを楽しむ余裕はなかった。
景色が流れている。
横にではない。
縦に、だ。
少女は今、落下していた。
「……っっ!!!」
声にさえならない絶叫を上げながら、頭のどこか冷静な部分が考えていた。
どうしてこうなったのか。
なぜこんな目に遭っているのか。
否、答えはわかっているのだ。
「暴れんなよ」
今、自分と落ちている青年……バクスが自分を抱えて飛び降りたからであった。
どうしようもなくはっきりと、原因がそこにいる。というか落ちている。自分と。
それでも、その経緯の、とてつもない理不尽にこう思わざるを得ない。
なぜ、自分はこんな目に遭っているのだろうか。
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数分前に遡る。
少女はその時も、途方に暮れていた。
美麗な装飾が凝らされた部屋から、外を見る。
下級階層と上級階層の間の柱の中から広がる、カーストの上級役員やカーストセーバー達兵士の住処、中級階層。
その居住区の一角にある応接用の広い部屋の中に、少女はいた。
暗く、綺麗とはいえない雑多な下級階層の夜景と、少しだけ見える都市の外の景色を眺めて、少女は何度も溜息をつく。
これから、どうなるんだろう。
昼間の一言がよみがえる。
バグ持ちは利用価値がある、と彼らは言っていた。だから逮捕をしないのだと。
事実現在も、監視は外に控えているが、部屋にいる間は手錠も何も掛けられていないし、部屋は衣食住において快適な環境が整っていた。
しかし少女は、そんな贅沢を楽しむこともできない。
この状況は同時に、少女にとってとても思わしくない現実を突き付けていたから。
こうして軟禁状態でこの場にいる。
それは、少なくともこの都市が自分を解放する気がない、ということだ。
さらに、先刻の言葉。
それはつまり、この都市に自分が取り込まれ、あわよくば彼らのようにここで生きなければならないという事に他ならない。
バグ持ちの3人が全員カーストセーバーであるという事は、そういうことなのだろう。
そんなのは嫌だと、首を振る。
少女は、ここにいたくなかった。
なぜなら。
――この場所には、"幸せ"が無い。
少女は、幸せというものが何なのか、覚えていない。
しかし、記憶がない中でも、この都市に自分が望むそれは無い事だけはわかった。
先刻の血生臭い惨状。
それをただ淡々と行ってきた、バグ持ちの彼ら。
同じことをさせられるかもしれない。
あの光景は、幸せでは無いと思うのだ。
焦燥感が沸いてくる。
私は、幸せを見つけたい。
しかし、少女にはこの状況をどうする事も出来ず、やはり最後には途方に暮れてしまっている。
どうすれば、どうすればいいんだろう……。
――と。
何やら外の通路で言葉が交わされ、ドアのロックが解除された。
ドアが開く。
開いた先にいたのは、バクスであった。
なぜか少し大きめのリュックサックに、色々な物を詰めている。
そんな彼に、少女は少しだけ身構えた。
自分についての処遇が決まったのか。そう思った。
その様子になにを思ったのか。バクスはまっすぐにこちらを見つめ、歩いてくる。
そして。
そのままバクスは少女に歩み寄り、立ち止まる……
「――え?」
……事はなかった。
気がつけば、少女は浮いていた。
否。
バクスのその背に、リュックサックと一緒に担がれていた。
「お嬢ちゃん、」
え?え?と意味のない声を発していると、バクスがこう言い放つ。
「逃げるぞ」
先ほどまで自分が物憂げに景色を眺めていた窓が開け放たれ。
今度こそ、少女は浮いた。
そして――
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現在、落下の一途をたどっている、というわけである。
暴れるな、と言われても、逃げるぞ、というたったそれだけの言葉で何を察するということができる訳もなく、少女は絶叫を出すことも出来ず風に煽られ、ひたすらにバクスにしがみついて逃げるように身体を捻った。
そのとき、捻ったその視界の先に、建物の屋上が通りすぎていった。
反射的に下を見る。
涙が吹き出すぼやけた視界で。
地面が、とても近くに映っていた。
落ちる……!!
反射的に、少女は身を縮こまらせる。
――と。
より一層の風が吹き付け、落下が、緩やかなものになった。
縮こまっていた身体に吹き付ける、安心させるかのような優しい風に、少女はゆっくりと、目を開け――驚愕して、目をそのまま見開いた。
落下が、とても緩やかな速度になっていたのだ。
そして、トンと軽い靴の音。
「ついたぜ」
バクスはなんでもなさそうに、少女を地面に降ろした。
静かで暗い路地裏に、足を下ろす。
……なにがなんだかわからないという少女の表情に、バクスは首を傾げる。
「なんだよ」
「今、どうやって……?」
つい数瞬前まで、確実に自分達はすさまじいスピードで地面に叩きつけられるはずだった。
それが、まるで見えないクッションに阻まれたように自分達の体が柔らかな静止を迎え、ゆっくりと着地したのだ。
しかし、その混乱はつまらなそうなバクスの一言で一蹴された。
「わかんだろ、"バグ"だ」
その言葉で打ち切り、そのまま前に進もうとして……未だ、キョトンとした顔の少女に舌打ちをする。
めんどくさそうに頭を掻くバクスに、少女は何となく申し訳ない気持ちになりつつも、説明してもらわなければ納得は出来なかった。
助かったのはバクスのバグのお蔭だということは解った。しかし、そのバグというもの自体が何なのか解らない少女は、一言で全てを納得することは出来ないのだ。
「あー、今はもたもたお話してる時間がねえ。余裕がありゃ教えてやる」
そう言い放ってこの場を濁すと、「ほら」とバクスは路地裏から覗く大通りを差した。
「ここからは"あれ"に紛れて大門まで行くぜ」
「……あれ?」
少女は、促されるがままにバクスが指した方向を見る。
そこには、真夜中の、明かりのついていない眠った町の大通りの光景が……と。
否と。少女は気付いた。
眠っていない。
下級階層の人々は、明かりをつけないまま、先ほど見下ろしていた点々とした街灯の光のみを頼りに、夜闇の中で今現在も働いていたのだ。
唖然とする少女をよそに、バクスは歩き出し人混みに入っていく。
下級階層の人々は、バクスを訝しそうに一瞥し……すぐに、驚いたように飛び退き、道を開けた。
今日の日中の事件は、彼を覚え、噂が広まるには充分すぎたようだった。
そうした下級階層の人々の様子も、バクスは気にとめる事はなかった。
不機嫌そうに言い放った。
「気にするな。普通に仕事しろ。お忍びで来てんだよ俺らは」
その指示は、彼らの注意を無理矢理霧散させる。
後ろ髪を引かれるように、どこかぎこちなく仕事を再開する彼らを縫うように、再び進んでいくバクスに慌てて着いていきながら、質問を投げ掛けた。
「あの」
「何」
「この人たち、眠らないの?」
「寝る。空が白み始めてから完全に上りきるまではな。あとは交代制で昼夜分けて働いてる奴等もいる」
淡々と言いながら人混みを掻き分けるバクスの後ろで、少女は驚きに目を見開いた。
そうまでして彼らは……
「なんでそんなに……」
「名誉」
呟くような疑問に、また淡々とした声が返ってきた。
「働けば働くほど、中級と上級に上納する金や物が増える。そいつが名誉に直結する唯一の手段なのさ」
また、"名誉"という言葉が出てきて、少女は顔をしかめる。
名誉、バグ持ち、カーストセーバー、カーストそのものも。
この都市は、少女が解らないことが多すぎる。
しかし少女はそこで、自分の抱えているものが「解らない」というよりは、「納得がいかない」という方が正しいと気づいた。
納得がいかないということは、自分は少なくとも、こことは違う常識の場所で生きていたのではないか。
そして、今幸せが感じられないということは、自分はきっと、幸せだったのではないだろうか。
だとすれば、かつての自分はどこで、どうやって生きていたのだろうか……。
――と。
「おい、ぼさっとすんな。行くぜ」
短く言ってさらにペースを速めたバクスに、自分の歩みが遅くなっているのを自覚した。
その後も大通りの何ともいえない緊張感を横目に、そのまま一直線に歩き続けた。
そして。
「ほら、約一日ぶりの大門だ」
大通りを抜けてたどり着いたのは、少女が入ってきた大門であった。
広場になっている向こう側にある大門に、近づく。
そして、バクスは一人の門番らしき衛兵に声をかけた。
「よう」
「ん?……お、かっ……!カーストセーバー殿!!」
あまりに自然に話しかけたバクスに、門番は一瞬呆気にとられたように幾度か瞬きをしたあと、バクスと気づくや否やすさまじい勢いで敬礼を返した。
それを手で制し、衛兵を労ってバクスは口を開く。
「お疲れさん。今、外壁の上には上れるか?」
「は、はっ!只今、大門の件で破損した部位がないかを確認するために兵を派遣した後でありますので……」
「んじゃ入れてくれ。こいつに二、三、状況確認をな」
「はっ!そちらの通路に昇降機があります!」
それらしい理由をつけて門番の前を通ると、そのまま大門脇の通路に入る。
昇降機が喧しい音をたてて上がる。
……なぜ大門から通らず、その上へ昇るのか。
揺れながら上がっていく昇降機の中で、少女は何だか嫌な予感がした。
「ここは、上級階層とその飼い犬の俺達しか昇ることはできねえ場所だ」
昇降機から降り、通路を出る。
そこには人が何人も通れる分厚い都市の外壁と、そこから見渡せる外の景色があった。
少女は一瞬、その風景に目を奪われた。
都市の外は、森と荒野に囲まれた、道ひとつない自然に囲まれていた。
都市の大門の先には溝の深い堀があり、幅は5メートルほどだろうか。下の様子はうかがい知れないが、遥か下方に主根から伸びた側根のようにパイプが、都市の下を埋め尽くすように走っている。
大門の方を見ると、巨大な橋が堀の外まで続いていた。少女はここで、バクスがなぜ外壁に上ったかを理解した。
一本道では外に
その先に森、その遥か先にはまた荒野が広がっている。
そこから先は、砂煙や岩肌でよく見えない。
それがかえって、この都市の外を果てしなく広く感じさせた。
どこか、閉ざされたこの都市の、途方もない孤独を表しているようにも見える。
「自分が来た方向はわかるか?」
不意に、バクスが少女に問いかける。
「……よく、覚えてない」
少女は、目を奪われながらも正直に答えた。
事実、都市の外の事は、実は少女はよく覚えていない。
何かに突き動かされるように、ぼんやりと彷徨い歩き、気がつけば大門の前にいた。
「……まじでここに来る直前まで記憶ねえのな。完全に事情聴取とか無駄だわな、そりゃ」
もはや苦笑をこぼしつつ、他に人影が見られないことを確認する。
その次に放った一言に、少女は嫌な予感が的中したことを悟った。
「ここからさっきの要領で落ちて、堀の外側に下ろす。幸い堀は幅が広いわけじゃねえ、この高さで俺のバグで滑空すりゃ何とかなる。そしたらお嬢ちゃんは自由だ。まっすぐそこの森を抜けていきな。その後は知らねえけどな。必需品はリュックにあるから、自力でなんとかしろ」
「……やっぱり……」
何でもなさそうに言うバクスを前にして、がっくりと項垂れる。
またあれを体験するのか……。
しかし、体験してしまえばあとは自由である、と、少女は気を取り直してバクスを見た。
そして、ふと気になることがあった。
「なんで、ここまでしてくれるの?」
少女の考えが正しければ、彼らは自分をこの都市に引き入れ、置いていた方が有益であるはずだ。
それなのになぜ、彼は逃がそうとしてくれているのだろうか。
――その問いに、バクスは即答を返した。
「お守役押しつけられてめんどかったから」
お手本のような即答であった。
「……」
「……んだよ、冗談だよ」
……軟禁から解放されて、本来喜ぶべき事態なのだが、その理由を聞いてしまったことで何とも複雑な表情を浮かべざるを得ない。そんな様子の少女を見て、少し慌てて訂正する事を余儀なくされた。
……実際は、半分は、否、大体はそうなのだが、言わぬが花というものである。
若干疑わしげな表情を浮かべる少女に、ガシガシと頭を掻く。
そして、ごまかすように都市の外に視線を逃がしながら、ぶっきらぼうに言葉を投げかけた。
「……まぁ、理由はいろいろあれどだ、お互い利害は一致してんだろ?俺は嬢ちゃんを抱えて仕事をするには色々と動きづらい。で、お嬢ちゃんにとっては、こんな都市のこんな生き方は"幸せ"じゃねえんじゃねえの?」
「……」
「だってのに、それを強要されんのは理不尽じゃねえか。そう判断したから、ここからお嬢ちゃんを出すべきだと思った。それだけだよ」
その言葉に、少女はやや驚きの表情を浮かべる。
今の言葉に、取ってつけたような雰囲気はなかった。まるで、彼自身もこの境遇に納得していないかのような、"少女の側の気持ち"さえ伝わるかのような。
――この青年も、本当は……。
意外な言葉を聞いた。そんなの少女の様子に、さらにぐしゃぐしゃ頭を掻きまわし、
「いなくなったらバグが暴走して堀から落ちて、行方不明になったことにでもしてやんよ。」
そう締めくくった。
「さて」とバクスは少女に手を差し伸べる。
「んじゃ、行くぞ」
その言葉に、少女がその手を取り、二人は外壁から都市の外へと歩を進め――
――その進路上の足元に深々と矢が刺さったのは、直後のことであった。
「バクス」
固まる二人に、静かに問いかけたのは。
「――何をしている?」
リーと、バラドラルだった。




