リリアとリリィ(父親視点)
「お父様、クリストフ、おはようございます」
「あ、ああ、リリィ、お、おはよう」
「お、おはようございます。お嬢様」
昨日の騒動の後、一睡もできずつらい体を引きずって執務室に向かっていると、後ろからいつもと変わらないのんびりとした挨拶がかかった。
寄る年波に勝てない私と違い、リリィはまだ若い。眠らずとも元気なのだろうと振り向くと、いつも通り血色のいい顔が私を覗き込んでいた。
執事のクリストフもそれには驚いたようで珍しくどもっていた。
「あれ、お父様調子悪い?ちょっと話したかったけど無理かな?」
「い、いや、大丈夫だ!!話をしよう!」
口元に手を当てて首を傾げるリリィはとてもか弱く見えるが、それは見た目だけの話だ。
今でこそやらなくなったが、ここへ来たばかりの頃は頭半分以上大きいメイドを押しのけドアから走り去ったり、二階の窓から木に跳び移り脱走したりもしていた。
約束を反故にし情緒が不安定な今、いつまたあのような蛮行に及ぶかわからない。
「あれからよく考えたんですけど、お父様」
執務室に入ると頼んだ紅茶が来るよりも早くリリィはそう切り出した。
優雅さには欠けるが熱い紅茶をかけられる心配はないだけマシだと思いながらリリィの言葉に耳を澄ます。
「結婚はするけど、私はここに住むって事は出来ないの?
どうせ最低侯爵は私の名前だけ欲しいんでしょ?体に障るからって事に出来ないかな?」
「シェレンベルク侯爵だ。それは出来ないだろうな。
侯爵家より良い医者にかかれる所は王宮以外にないだろう。婚約が成立した今、一刻も早く名医にかけたいとシェレンベルク様は考えているだろう」
実際に今日にでもリリィを引き取りに行きたいとシェレンベルク様はおっしゃっていた。
リリィはもうそれほど重い病ではないという事と、少しでも長く一緒にいたいという言い分に引いてくれたが。
リリィが重い病でなければ引き取らなくても外聞は悪くないし、どこにいようとかまわないのだろう。
昨日のリリィが言った通り、放って置くことが一番の妻であればリリィだろうとリリィじゃなかろうとどうでもいいのだ。
「えぇ?もう婚約済みだったの?!じゃあ私、すぐに最低侯爵の家に行かなきゃいけないの?」
「シェレンベルク侯爵だ。いや、リリィはもうそれほど重体じゃないということで納得してもらった。
それほど帰ってはこないだろうが、リリィだってシェレンベルク様がいる間でも庭位散歩したいだろう」
「うん。ありがとう。でもさ、それって最低侯爵の意に反してるんじゃないの?
だって庭歩き回れるんなら結婚式位できるよ」
「シェレンベルク侯爵だ。病弱をなめるな。健康なお前でもコルセットを前にしたら逃げ出すだろう。病弱なリリアがコルセットなど締めたら一度で死んでしまうわ」
「確かに」
それにはリリィも深く首肯した。
せっかく健康な若い娘がいるんだ。一度くらい正装をとコルセットを用意したら、リリィは最初の一締めでもう嫌がったらしい。
これは自分には着れるものじゃない。この世界の女性を本気で尊敬すると遠い目をして言っていた。だが子どものように腰をしめない服装でもリリィは十分華奢だし、幼い外見と相まってとても愛らしく見える。
「お父様?」
話が逸れた。突然思考を飛ばした私をリリィは訝しがるように覗き込んだ。
その顔は自然で昨日の取り乱しなどなかったように思える。今現在結婚の話をしているのだからそれはあり得ないのだが…。
「リリィ…」
「はい?」
「リリィ、お前は…その、納得できたのか?」
「うーん、…うん、納得はできたよ。だって断れないんでしょ?納得するしかないじゃん」
確かに侯爵からの結婚を子爵が断ることなど出来ない。
シェレンベルク様が王女にされたように、相手がいるという断り方がかろうじて出来るくらいだ。だがそれも打診くらいの話だから出来たことで、是非にと強く出られたら断ることなど出来ないだろう。
だが、この三年。短いようで長い間、私たち夫婦は考えていた。
死んだ娘のリリアではなく、いきなり何処から現れたリリィを一生面倒を見ることなど、私たちには出来ないだろうと。
リリアが生まれて14年、私たち夫婦の中では娘は先立ってしまうのが当然だった。少しでも長く、少しでも快適に過ごさせることばかり考えていた。
だから娘の面倒を文字通り一生見る事は当然のことだった。
だがリリィは違う。
リリィは健康な私たちと同じように、健康な一生を送るだろう。という事は突然の病気や事故に合わない限りリリィは私たちより長く生きる。
リリアを見てきた私たちはその事を失念していたのだ。
リリアが生きていた頃、リリアが15になったら結婚させ、領地とヴァイスハイトの名だけは最低守ろうと考えていた。
いつまで生きられるかわからないリリアもそこを目標にして、せめて15まではと頑張っていた。そんな最低限の選択しかなかったのだ。
そんな中、リリアの15の誕生日が来て思った。
15になったら婿養子を迎えようと思っていた。長男以外の男にとって領地と子爵というのは喉から手が出るほど欲しいものだ。
そんな次男、三男の中から真面目で賢く、気の優しい者を選ぼうと思った。リリアならばそれでいい。むしろ目標が達せたと微笑みさえしただろう。
だがリリィは?リリィはその辺の令嬢などよりも余程健康なのだ。
夏の暑い中でも暑気あたり一つせず、冬の寒い日、雪など降ろうものなら手も顔も真っ赤にしながら雪で遊んでいた。
令嬢らしい振る舞いが出来ないのは病気でそれどころじゃなかったからと言い訳できるが、そのような姿はとてもじゃないが見せる事は出来ない。
賢い者ならリリィがリリアでないと気づいてしまうかもしれない。そんな事になればリリィはただではすまないだろう。
だからと言ってこのまま後継者を作らず私たちが死ねば、妹一家のバカ息子が黙ってはいまい。
病弱だと知れ渡っているリリィはたちまち領地を奪われ、領地の民と同様苦しい毎日を過ごさなければならないだろう。
どちらの未来もリリィの幸せはない。そんな事を考えていた時、シェレンベルク様がリリィとの婚約を言い出してきたのだ。
領地で長い間顔を合わさなければいけない婿養子とは違い、シェレンベルク様は多忙な方だ。ここは離れなくてはいけないが、長い目で見ればその方が心穏やかに過ごせるだろうと考えた。そう思ってしまい、強く跳ね除ける事が出来なかった。
「……すまない」
「お父様?」
「約束を守れなくて、すまない」
「………」
リリアが14で死に、やけくそのようにその上に落ちてきた娘をリリアにした。
結婚できる歳までリリアでいてくれれば、その後は約束通り一生家に置いてやってもいいと、そう思っていた。リリィの人格などまるで考慮されていないそれは、私が苦々しく思っているシェレンベルク様の婚約と全く同じものだ。
昨日のように責められて当然なのだ。初めの時のように詰られて、物を投げられて当然なのだ。
「お父様!」
いっそのこと早く紅茶よこい。来た瞬間熱いであろうそれを頭からかぶってやると思っていると、リリィが強く私を呼んだ。
そして小さくやわらかい手が私の手を包む。
「私はリリィだよね?」
ああ、お前はリリィだ。
今でも苦しいほど愛している亡き娘リリアではなく、明るく元気で健康な愛すべき娘リリィ。
そう思い強く頷くとリリィはふふっと笑い、私を見据えた。
「私はリリィなのです。だからお父様が懸命に守ってるこの領地を守れるなら、結婚だって喜んでするのです」
「…リリィ…」
「なーんてね、へへへ。まあ決まっちゃったものはしょうがないし、だからお父様もそんな顔しないでよ、ね?」
そうやって朗らかに笑ったリリィは正真正銘私の愛すべき娘、リリア・エアデール・ヴァイスハイトだった。
リリアは亡くなった娘、リリィは主人公と父親の中では分かれています。