第14話 非常に……まずいな
「う――ん。脱水、起こしてるね」
独り言のように呟いた後、小奈戸医師が側にいた看護師にいろいろと指示を出した。脱水……。気をつけていたのに。目の前で眠る佑太の顔を見ながら、理佐は申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
あれからすぐ、雅臣が父親と連絡をとってくれた。部屋に先生本人が来るよりも、設備の整った病院で治療すると指示を受け、健の車に乗って昼間訪れた病院に連れてきたのだ。
到着時には、小奈戸医師はいなかったが、連絡をいれておいてくれたおかげで、すんなりと受け入れてもらえた。夜勤の医師によって診察や採血をされたが、気がつけば担当が小奈戸医師に替わっていた。その顔を見た途端、理佐は不安だった気持ちが一気に解けて涙が止まらなくなった。看護師に肩を抱いてもらって大丈夫と言ってもらうまで、泣き続けたのだった。
「お母さん。……これから佑太くんに点滴を受けてもらいますね。子供だから時間がすごくかかるけど、側に居てもらえますか? 」
「はい……」
針を受け取った小奈戸医師が佑太の左腕に差し込む。その後の処置をすませ、看護師からカルテを受け取った。
「渡井さん。外にいる二人、帰ってもらって。時間がかかるし、彼女とお子さんは私が送って行くって伝えてもらえばいいから」
カルテに書き込みながら、昼間見た看護師に告げた。それを聞いた渡井看護師は、「わかりました」の返事と共にカーテンの向こうへと姿を消す。
もう一人の看護師も処置を終えて、器材を持ってカーテンの向こうへと移動した。しばらくすると、小奈戸医師もいつの間にか姿を消していて、気付くと理佐は眠る佑太と二人きりになっていた。
理佐は息子の頭を撫でながら「ごめんね、佑太」と、この日何度目か分からない謝罪を口にした。
病院に行きたくないなんて言ってしまった事、理佐はとても後悔していた。もしも佑太に何かあったら……そう思うと手が震える。 あんなにも佑太が苦しんでいたのに、自分のした事が信じられなかった。これでは佑太を連れ出した意味がない。
「ごめんなさい。……ごめんなさい」
謝る事しかできない。 もう二度と同じ過ちは繰り返さないと誓う。それでもこの先佑太と一緒にいられるかどうかはわからない。病院に来た以上、父親の耳に入る可能性が高かった。とりあげられるかも知れない。……別の恐怖がジワジワと理佐を襲い始めた。
* * *
「大丈夫かい?」
理佐がベッドに顔を伏せてしばらく泣いていると、心配した小奈戸医師が声をかけてきた。いつ戻ってきたのか……気付きもしなかった。
「あ、あの、すみませんでした。 ……お休みの時に」
理佐は涙を慌てて拭きながら、小奈戸医師に向かって頭を下げた。雅臣に連絡を取ってもらわなければ、取り返しのつかない事になっていたかもしれない……そう思うとこの親子には感謝してもしきれない。 すると、小奈戸医師が理佐の真向かいの椅子に腰をかけて、優しげな笑みを浮かべた。
「医者が苦しんでいる子供を診るのは当たり前の事です。気にしないでください」
昼間とは余りにも違う印象に、理佐は改めて驚く。佑太を診てくれている間中、理佐はずっとその違いを感じていた。昼に見た小奈戸医師は、雅臣の語ったままの頑固で厳格な父親の顔だったが、今は別人のように優しい小児科医の顔だ。
「ただ、母親として貴方のとった行動は正直褒められないかな……」
小奈戸医師に言われて、理佐は改めて自分は母親失格なのだと自覚する。
「……すみません」
「まあ。完璧な親なんて、私も見たことがないけどね」
怒られるかと思ったのに、小奈戸医師はもう一度理佐に笑いかけてくれた。
「ヒトは相応にして間違いを起こすものだし、まあ、親もヒトってわけだから。……でもね、だからこそ、子育ては沢山の人の手をかりなきゃいけない……私はそう思うんだ」
医師としての意見を聞いて、理佐は切なくなった。佑太をもっといい環境で育ててあげたい。そう思ってもできない自分が情けない。
「とても大変だったでしょ? 一人で佑太くんを育てるのは……」
そのセリフに血の気が一気にひく。どうして一人で育てている事を、小奈戸医師は知っているのか? 雅臣にも言っていなかった事だ。 理佐は身を強張らせた。
「覚えてないかな? 私のこと……」
どこかで会ったような事を言われて記憶の奥をさぐる。しかし目の前の優しげな医師に見覚えなどまるでなかった。
「小菅教授の受賞パーティーでお会いしたんだけどね。ずいぶん前かな……まあ、あの頃の私はかなり太ってたからね」
自嘲するように小奈戸医師が笑う。理佐は小菅教授の名前には覚えがあった。旦那である渉の好意にしていた大学病院の教授先生だ。たしかパーティーにも無理やり駆り出されたとぼんやり思い出しはじめた。
「市井病院の倅の嫁だって紹介されてね。あんなボンクラ医者に、よくもまあこんな綺麗でしっかりした嫁が来たものだと、私には珍しい事だが、貴方の顔を覚えていました」
そうだ。あのパーティーで、いろんな人に嫁だと紹介されて疲れ果てたのを覚えている。たしかまだ妊婦だったはず。つまり小奈戸医師もその中に居たという事だ。……そんな記憶が理佐によみがえっていた。
「あ、ごめんね。元ダンナさんをボンクラなんて言って」
言われても仕方ない人だった。首を横に振って答える。
「お父さんはとってもいい医者なのにね。どうして跡継ぎはこうもボンクラになってしまうものかね……不思議で仕方ないよ」
小奈戸医師の表情を見て、理佐にはすぐ理解できた。今のセリフは市井の家だけでなく、自分の家も含んでいるという事を。それでも理佐は思う。医者には向かなくても、雅臣は決してボンクラなんかではない。そう言いたいが、今の理佐には言葉にする勇気がなかった。
「佑太くんの事、雅臣には話してなかったんだね」
指摘された理佐には、何の言い訳もできなかった。
「……すみません」
雅臣の父親としての言葉に、改めて理佐の胸が痛む。決して騙すつもりは無かった。それでも怖くて言い出せずにいた理佐が、許されるはずがない事も自覚している。
「いや、責めるつもりはないんだよ。こういう事は言い出し難いからね。……ただ、雅臣が電話でかなりシドロモドロだったんで……そうなのかなと思ったんだ」
「本当に申し訳ありません」
深々と頭を下げる。今の理佐は謝る事しかできない。
「親バカな意見で申し訳ないんだが、雅臣は頑固だけど、ああ見えて実直で優しいヤツなんだ。……だから、君に嘘をつかれると辛いんじゃないかな?」
佑太を見つめながら言う彼は、医師ではなく父親の顔だった。
「きちんと二人で話し合ってみたらどうだろう? 雅臣ならきっと大丈夫。この子の父親になるぐらいの度量を、あいつは持っていると思うよ」
その言葉に理佐の涙が止まらなくなった。自分がした事が、こんなにも罪深い事だったなんて……取り返しがつかない思いに苛まれる。
「……でき……ません」
「ん? 瀬名さん?」
「……じゃ……ないんです」
聞き取れないほどの小さな声で理佐が囁く。
「え? 今、なんて?」
繰り返して発した言葉を聞き取った時、さすがに小奈戸医師も驚きを隠せなかった。
「え……それはつまり…………」
硬い表情のまま、コクリと理佐が頷く。そのまま顔を上げられずに俯いてしまった。
小奈戸医師も、頭の中で租借した内容に頭を抱え込む。
「ああぁ。 それは……うーん。 そうかぁ……非常に……まずいな……」
どう考えてもよくない状況に、うなり声をあげてしまう。そのまま理佐とは逆に天井を仰いでしまった。
「よければ……事情を教えてもらえるかな」
天井を見て思案した結果。小奈戸医師は引きつった笑顔を見せて、理佐に尋ねた。
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