第9話 ウチにこないか?
気持ちよく晴れた日曜日の朝、初夏の日差しが午前中から容赦なく照り付けている。雅臣は上昇する外気温から逃れ、喫茶店の涼しい屋内で、ブレンド珈琲を飲みながら昨日の出来事を振り返っていた。
……理佐、まだ怒ってるかな……。
雅臣は勢い余って昨晩、理佐にキスをした。腕の中に納まった彼女を見て我慢ができなかったのだ。もちろん恋人同士なのだから許されるものだと思って行為に及んだのだが、驚く事に彼女は泣き出してしまった。……慌てて気持ちを伝えたら、言い訳めいたみたいになってしまい、仕方がないのでひたすら謝った。一応、許してもらえたけれど何となく気持ちが後ろめたい。 もう一度謝罪のメールを送っておくべきか? そう迷っているとドアベルの音が耳に入ってきた。振り向くと待ち人来るである。
「悪い。待たせたか?」
かつて同じ会社で働いていた三つ年上の先輩が笑顔を見せていた。今、雅臣がここに座って居るのは、1時間前に彼から呼び出されたからだった。
「いえ、早めに来て朝食とってたんで……」
「そっか。 ……あ、俺、アイスコーヒー」
オーダーを取りに来たウェイターに告げる。
「悪いな、せっかくの休みに呼び出したりして」
「いえ。大丈夫ですよ」
久しぶりに見た先輩の顔は、目の下にクマができているにもかかわらず、生き生きとして充実感が溢れ出していた。
「あの……新しい仕事、順調ですか?」
「うん。おかげさまでね」
聞くまでもないことのようだ。素直に笑顔がこぼれている。
ここにいると死んでしまう……酒の席で愚痴をこぼされていた頃を雅臣は懐かしく思った。彼がまだ、うちの社の制作部門で働いていた頃、何度か一緒に仕事をする内に、飲みに誘われるようになった。部外で唯一仲がいいと言える人だったので、去年会社を辞めると聞いた時には、非常に残念に思った。今は個人のデザイン事務所に籍を置いていて、顔を見たのは一年ぶりだった。
「小奈戸はどうなんだ? 仕事、順調?」
「そうですね。それなりに……」
「いいよなぁ。 制作は血ヘド吐くほど働かされたけど、営業さんは広告代理店とは思えないほど楽チンだったもんな」
「いや、だからそんな事ないですって」
これも散々言われていた嫌味だ。もちろん彼が思うほど営業も楽ではない。ただ、死んでしまうと思う程でない事も確かだ。
広告業界の営業は、体力勝負で死ぬほど辛いと聞かされていた。それ思うとウチの会社は随分マシなんだろうなと雅臣は思う。……ただ、その分給料だって比べて安いのだ。制作さんはかなり貰っていたはず。分相応というものである。
「ハハハ。 まあ、辞めたんだからどうでもいいけどな」
「そうですよ。……逃げ出しちゃって」
「って、あのな。 あのままあそこで仕事してたら、お前から香典もらってるぞ」
「笑えませんって」
「……だよな」
そう言いながらも、二人して顔を合わせて笑った。運ばれてきた珈琲を飲みながらしばし談笑が続く。会社の近況、同僚の様子など、当たり障りのない会話が途切れた頃、彼の口から今日の本題が話された。
「今、俺が行ってる事務所さ、社長がやり手で業績が伸びてんだ。まあ簡単に言えば、仕事が増えて人手が足んないわけ。先月、デザイナーが1人補充されたんだけど……」
そう言って雅臣の顔をじっと見つめてくる。
「……?」
何でしょうか? と雅臣が目で相槌をうつ。
「小奈戸さ…………ウチにこないか?」
「は? ……え? 」
唐突な誘いに、上手く返事ができない。
「社長がさ、まだ人が足りないって言うんだ。……まあ実際足りてないんだけど」
「いや、俺、デザインなんて……」
「本気のデザイナーを探してんだったら、悪いけどお前に声は掛けてないよ」
……ですよね。と雅臣も思う。即戦力なんて絶対なれない。
「社長がさ、センスのあるアシスタントが欲しいって言うんだ」
「アシスタント? って、デザイナーのですか?」
「両方」
「は? りょうほう?」
「デザインも、営業も」
「えええ?!!」
「たしかに、そんな器用なヤツいるかよ! って俺も思ったんだけど……」
ニコリと先輩が笑った。つられて雅臣も笑う。……ただしひきつり気味だ。
「やってみないか? 」
「え? いや、でも……」
「実はお前の事、社長に少し話したんだ。……そしたら、オモシロいから連れて来いって」
「オモシロいって……何か違いませんか?」
「そんなもんだよ、実際は。 俺ん時だってそんな感じだったし」
どんな事務所なんだ。大丈夫なのか? 不安がさらに募る。
「お前、デザインをやってみたいって、酒の席で言ってただろ。……始めてみるにはいい足がかりになると思うんだよ」
言った事は覚えている。それでもドがつく素人だ。おいそれと乗っかるには無理がある。
「俺、お前の持ってるセンスが好きだ。 最初はデザインに口だす嫌な営業かと思ったんだけど違った。小奈戸がポロッと口に出す一言がすごく刺激になったし、本気で面白いヤツだって思ったんだ。だから一緒に仕事してて楽しかったよ。しかもお前、人柄がいいのにずる賢いから営業も向いてるしな」
褒められているのか、貶されているのかよくわからない。そんな感想を先輩が述べている。
「ただ、言っても個人事務所だ。今みたいな安定はなくなる。給料もアシ扱いの間は、正直今程出せないんじゃないかな……」
厳しい条件だ。それでも、もしこの話が一年前に聞いた話だったなら、雅臣はこの申し出にすぐ飛びついただろう。……やってみたい。心が騒ぐ。しかし、今の雅臣には二の足を踏むしかない条件だ。仕事に不安を抱えて理佐にプロポーズなどできない。彼女には安心を与えてあげたいのだ。
返事に窮していると、先輩の方から助け舟を出してきた。
「返事は今すぐでなくていい。今月いっぱい待つよ」
そう言いながら、二枚の伝票を持って立ち上がる。
「あ……」
悪いと思って雅臣が手を上げると、ここは払うよといった感じで先輩が右手で遮った。
「決まったら連絡くれよ。……できればいい答えを待ってる」
清算を済ませた先輩が、もう一度右手を上げて店を出て行った。店内に視線を戻した雅臣は、今交わされた話の内容をもう一度振り返る。
どうして即答で答えられなかったのか……。仕事と理佐と天秤に掛けたようで嫌な気持ちになった。ため息を吐きながら残った珈琲を飲み干す。さっきより苦いのは時間が経ったせいか、気持ちの問題なのか判断がつかない。
そんな風に落ち込んでいたからか、雅臣は携帯が震えている事に気付くのが遅れた。慌てて確認すると、理佐からのメールだった。素直に仰天する。あまりのタイミングにメールを開くのを躊躇った。……昨日の事も含め、雅臣は非常に気まずかったのだ。
……怒っているならどうしよう。
悩んでいても仕方が無い。勇気を出してメールを開くと (会いたい) と書いてある。慌てて雅臣は目をこすった。付き合う前も付き合ってからも、誘うのはいつも自分の方だ。会いたいなんて書かれたメールを受け取った事がない。もう一度携帯を掲げて確認するが間違いない。(会いたい)と確かに書いてある。
……え? マジで? まじで!!
慌てて理佐の番号を呼び出し通話ボタンを押す。何度かのコールの後に愛しい声が聞こえてきた。メールの内容が間違いないのか確認する。
(雅臣くんに会いたいの)
間違いではなかった。しかも理佐の声で懇願されている。
……昨日のキスは失敗じゃなかった!!
テーブルの下、右手で拳を握って引く。いつもの駅で待ってると言う彼女に、超特急で行く旨を伝え通話を終える。
雅臣は、落ち着きを完全に失ったその足で駅へと急いだ。
読んで下さってありがとうございます。
次回、お母さん幽霊頑張りました! ……な話。




