9、混沌
怖い。
ただ、それだけだった。
それを目にした瞬間、叫び声はおろか何の音も発する事が出来ずに、ぎゅっと胃を鷲掴みにされるような恐怖に襲われた。
痛いほどに心臓が大きく鳴り、春菜はただそれを凝視していた。
いや、それと言うには物の怪はあまりに不確かな姿をしていた。
黒い靄の塊。
はっきりとした形は成さず、ふわふわと漂い、それが気体である事は分かるが、触ればどろりと纏わりつきそうにも見える。
それが意思を持つかのようにこちらを伺っていた。
正確には、目はないのだから、伺っているのかどうかわからないのだが、春菜には、狙われていると言う確信めいたものがあった。
物の怪の様子は、喩えるならダンプカーの濃い排気ガスをさらに濃くし、雪雲のように垂れ混ませ、気体でありながら、ヘドロのようなどろりとしたもの。
姿も異様ではあり、恐怖を誘うものではあったが、それ以上の何かが物の怪にはあった。
得体の知れないものへの恐怖とは全く違う、あれは良くないものだと言う確信。
同時に、命すらあれの前では簡単に失ってしまうと分かる程の圧倒的な力の差が肌にぴりぴりと突き刺さるように感じられる。
身の内に宿す禍々しさが迸り視覚化したかのような物の怪の姿。
魂の奥深くから来る恐怖と嫌悪。
本能が危険だと訴え、魂が恐怖に慄く。
物の怪の存在感、威圧感その存在自体が発する独特の気配。
ただあるだけで、凪いだ水面に波を立てるように、周囲の生気の流れを乱す気配。
存在そのものを常に世界から拒絶されているものの気配。
初めて感じるはずの感覚。
それでいて、かつてどこかで感じた事のあるような、良く知っているような感覚だった。
まるで遺伝子に刷り込まれているかのように、春菜は初めてのはずのこの感覚に戸惑いながらも、かつて自分は幾度もこの感覚を体験していたと言う妙な確信を抱いていた。
確かに知っているのだ。
今体験するまで忘れ去っていた、魂の奥底に眠っていた記憶。
「ちょっとじっとしてろ。すぐ片付ける」
低い声がどこか遠くから聞こえた。
言葉を意味として理解できたわけではなかったが、春菜は体を動かすことが出来ずに、その場に立ち尽くしていた。
それから後のことは、あっと言う間の出来事だった。
時彦は、腰に差していた日本刀を引き抜くと、大地と平行に構え、低く口早に、歌うように何かを呟いた。
春菜には彼がなんと言っているのかは分からなかったが、それでもその歌うような独特な響きが、何か特別な事であるのは分かった。
時彦の言葉が紡がれると同時に、今まで春菜を包み込んでいた、生気が力を増し、周囲に漲るのが感じられる。
時彦は、生気が漲るのを待っていたかのように、物の怪へと刀を向けた。
刀が、一瞬光を放ったようにも見えたが、春菜がそれを確認する前に、時彦が物の怪に向かって動いたかと思うと、文字通り目にも留まらぬ速さで切りつけた。
最後の数秒を、しっかりと認識することは出来なかったが、気がつくと物の怪の姿は消え、時彦は刀をしまい、また何事かを呟いていた。
物の怪から発せられていた、あの独特な空気も跡形もなく消え失せていた。
あっけないほど簡単に事は終わり、春菜は重苦しい恐怖と緊張の鎖から解き放たれ、力が抜けたように、その場に座り込んだ。
まだ、頭の隅がしびれたような感覚が残り、春菜はしっかりと考える事が出来ないでいた。
今更ながら、体が震えだすのを止める事が出来ずに、春菜は膝を付いたまま、自分の体を抱くようにして、小さくなった。
今まで抑えていた涙が零れ落ちるのを止める事が出来ずに、春菜は俯いたままじっと恐慌が収まるのを待った。
死の恐怖を体験して、ようやく思い知った。
今まで、現実味のない体験に、頭のどこかで無意識に、これは夢だと言い聞かせ、この状況を受け入れているかのように自分を偽りながら、平生を保っていた。
どこかで、死ぬ訳がないと思い、元の場所に戻れると言い聞かせ、これは夢で、目が覚めれば全て元通りだと思っていたのだ。
それが、死の恐怖を目の前にして、ようやく自分が死ぬかもしれないという事に思い当たった。
今まで夢の中の世界のようだったこの世界が急速に現実味を帯びて春菜に迫り、春菜が考えないようにしていた事を囁きかけてきたのだ。
これは現実で、春菜は死ぬ事もあれば、一生ここに居なければならないのかもしれないのだ、と言う事実に、春菜はようやく思考を巡らせた。
漠然と思っていた事が、他人事のようだった事が、ようやく我が身に迫って考えられるようになったのだ。
しかし、春菜にはまだそれを受け入れるだけの準備があるはずもなく、ただその場に座り込むしかできなかった。
物の怪の存在感、威圧感は春菜を完全に怯えさせていた。
それが余計に気を挫いてしまっていたのだ。




