8、異形のもの
足が痛いという感覚すらもう春菜にはなかった。
時彦と行動をともにするようになって、二日目ももう終わろうとしていた。
足の筋と言う筋が強張り、引き攣ったようにして限界を訴えていたが、それでも春菜は時彦に泣き言は言わなかった。
時彦自身は、彼なりに春菜を気遣って歩く早さを緩めてくれているのがわかる。
それでも、これ程の距離を普段歩く事のない現代人にとっては、丸一日山道を歩き通しを言うのは、相当の苦痛を伴うものだった。
まったく疲れた様子を見せない時彦を恨めしく思いながら、春菜は無言で足元だけを見ながら歩く。
日も傾き始めた。
そろそろ時彦も休もうと言うだろう。
淡い期待に支えられて、何とか彼についていく。
ただ、一足づつ一歩づつ足を運ぶ。
足を動かす事のみに集中し、前を行く時彦の踵を見ながらひたすら歩く。
そんな行為に没頭していた春菜だったが、不意に感じた感覚に一瞬全ての動きを止めた。
立ち止った僅かの間に離れてしまった時彦を慌てて追いかけて、春菜は時彦の着物の端を掴む。
それにつられて時彦は足を止めた
不安げに周囲を見回すと、春菜は時彦の着物を更に強く握った。
全身が粟立つような感覚が走り、どこから来るのか分からない恐怖に、ぎゅっと胃をつかまれたような不快感に襲われた。
「…何か変…」
自身に、いや周囲に訪れた変化をどう言い表せば良いのか分からずに、小さく春菜は呟いた。
こちらに来てから春菜がずっと感じていた、周囲に満ちる生気―春菜は、そう認識していた―が、変わったのだ。
周囲の木々や自然から滲み出し、溢れ出したような生命の力とも思えるような、何か不思議なエネルギーのようなもの。
命の瑞々しい輝き。
例えるならそのように理解していた、はっきりと言葉にする事は出来ないが、それでも確かにあると感じられる何か。
それは、今まで静かに周囲に満ち、水が高いところから低いところへと流れるように、静かに定められた流れにそって動き、春菜を柔らかく包んでいた。
この二日で、いつの間にかあって当たり前のように、意識すらしなくなっていたその生気が、突然変化したのだ。
超然としてただそこに存在していたはずのその力が、突然ざわめいたような気がした。
それは、生気とは相反する何かを拒むかのような。
凪いだ水面に、小石を落としたときの水面のゆれのような、不確かな何か。
しかし、それは春菜を不安にさせるには十分な何かだった。
初めて味わうはずの感覚だったが、それは春菜に明確に危険を訴え、不安を掻き立てさせた。
その生気のざわめきが、春菜に危険を訴えかけるのだ。
「どうした?」
着物の裾を掴んだまま、周囲に視線を走らせ、動こうとしない春菜に首をかしげながら、時彦はそう尋ねた。
「わかんない…何か変…。怖い」
自分でも顔から血の気が引いているのが分かる。
寒さではなく、背筋に悪寒が走った。
腹の底から湧き上がって来るような恐怖。
春菜の様子に、さすがに心配になった時彦が顔を覗き込もうとして、途中でその動きを止めた。
ゆっくりと背筋を伸ばし、時彦は春菜の後方に視線を据えると、春菜を後ろに回した。
何かがいる、とそう思い、ゆっくりと時彦の視線の先に目を向ける。
声にならない悲鳴を上げて、春菜は一歩後退った。
物の怪だ、と頭のどこかで声がした。
木々の間に見えるそれの姿は、春菜の想像とは全く違うものだった。




