36、宮中
有間は少し大げさではないか、と思うほど春菜のことを心配していた。
何か言ってきたり、そう言う行動は起こさないものの、共に新しい春菜の住まいへと向かう道中でもずっと心配そうな表情で何やら考え込んでいたようだった。
大王と有間が会った時にでも、何かあったのだろうか、と春菜も案じていたが、有間が口に出そうとしないことを追及するのも悪いような気がして、結局なにも聞かないままにしていた。
春菜に用意された宮は、有間の離れよりも大きく豪華なものだった。
移動と言っても、実際に春菜は体をただ移動させただけで、身の回りの物や調度品はすでに用意されていたり、有間が用意してくれたものを、童達が運んだりしてくれているため、疲れることもなくゆっくりと出来た。
有間は、作業の様子を見て来ると言ったきり戻ってこない。
何も働かないことに、罪悪感もあるが、何かしようとすれば、恐縮されて逆に相手を困らせることになることは、すでに理解していた。
それにしても、と春菜は一つ溜息を落とした。
宮中に入ってしまったと言うことは、今までよりも行動を制限されると言うことになる。
それはつまり、この時代の女性の習わしにある程度従わなければならないことを示しているのだろう。
これでは、帰るための方法を探すこともままならない。
方法を探すと言っても、春菜には検討もつかないため、何をどうすれば良いのかさっぱり分からないのだが、宮中に居ると言うだけで、何やら囲われてしまったように感じて少し不安になっていた。
「春菜様」
八菜女は相も変わらずたおやかな仕草で春菜の前に座る。
自分などより、よっぽど良家のお姫様然としていると感じながら、その所作を眺めていたせいだろうか。
どうかいたしましたか、と不思議そうに問われて春菜は首を横に振った。
「有間皇子と離れてしまうのは、寂しいですか?」
からかうような笑みを浮かべて、八菜女は春菜の目を覗き込んでくる。
この時代においても、この年頃の少女がこう言った話題を好むのは、共通のことかもしれない、などと春菜は人ごとのように考えて、苦笑を洩らした。
「きっと、こちらへも通って来てくださいますよ」
春菜の苦笑をどうとったのか、八菜女は慰めるような口調でそう告げる。
「ええっと…」
どう言おうかと思って、春菜は続く言葉を見失った。
実際に、春菜と有間は八菜女が思っているような恋仲ではないのだが、そこを否定してしまって良いものかと疑問に思ったのだ。
実際問題、春菜が有間に会うとすれば、有間が春菜の元へ通って来る、と言うこの通い婚制度はとても魅力的なのだ。
そう言った目的ではないにしろ、春菜の詳しい事情を知っていて、なおかつ朝廷で力を使える者と言う同じ立場から有間と協力すべきことも多いだろう。
何より、春菜にとってここで頼れる者として思い浮かぶのは有間の他にはいない。
「なんて言うかさ、私と有間は、そんなんじゃないんだよね」
しばしの逡巡の後に、春菜は口を開いた。
「違う、と申しますと?」
小首を傾げる八菜女にちらりと視線をやって、春菜はどう説明しようか、と思いながら言葉を選びながらゆっくりと話した。
「有間は、私を助けてくれただけで。私の立場を考えて、有間は否定しないでいてくれたんだけど、実際には私一度も有間とそう言う関係になったことはないんだ」
「え?ですが、寝所を共にされていたのでは…?」
「うん。それは、そうなんだけどね。別にしてくれ、って有間が言ったら、私の立場がなくなる、と思ったみたいで、一緒の部屋で寝てはいたけど、手は出されなかったと言うか…」
八菜女は目を丸くして、春菜の言葉を聞いている。
「それはまぁ…殿方として、どうなのでしょうか…。すぐ隣でこんなにお美しい方が寝ていらっしゃると言うのに、見向きもされないなんて…」
真剣な表情で、八菜女はそう呟く。
「え?八菜女?」
何やら雲行きの怪しいことに、春菜は慌てて八菜女の名を呼ぶが、八菜女はそれに気付く様子もない。
「昔から有間皇子は、特に姫方と噂されることもありませんでしたが、女子がお嫌いなのでしょうか?尊い血筋の方ですし、血を残すことも大事なお勤めでしょうに…」
嘆かわしい、とでも言いたげに八菜女は一人で呟く。
「春菜様も、それではあまりに不憫ではありませんか。なぜそのような態度を取られるのでしょうね」
「え?私?」
突然、自分の名前が飛び出したことに驚いて聞き返す。
不憫と言われるような出来事があっただろうか、と首を傾げる。無理強いをされたでもなし、特に何も不憫と言われなければならないようなことはなかった、と春菜は記憶している。
「不憫、って何が?」
本当に分からずに首を傾げる。
「え?春菜様は、有間皇子をお慕いしていらっしゃるのでしょう?」
まるで当然のことのようにそう言う八菜女に、春菜は目を丸くした。
「私が?有間を?」
驚いて聞き返すと、八菜女はこくりと頷いて、違うのですか?と逆に聞き返された。
「有間のことは人としては好き、だけど…」
人としては確かに好きだ、と春菜は一人頷いた。
ただ、それ以上の感情を持っているか、と聞かれると、違うような気がする。
「八菜女、あまり春菜を困らせるな」
柔らかい声に驚いて顔を上げると、几帳の陰から有間が苦笑を浮かべながら姿を現した。
まぁ、と声を上げて八菜女は慌てたようにして頭を下げた。
顔が熱くなるのを感じて、春菜は有間の顔をちらりと見上げた。
「…ずっと、聞いてたの?」
「そうではないよ、今来た所だ。何やら春菜が返答に窮しているようだったからね」
違ったかい、と柔らかな笑みを向けられれば、それ以上言うのは墓穴を掘ることになりそうな気がして、春菜は黙り込んだ。
「皇子、ずっと居たよー」
だから、もうこの会話は終わりにしよう、と思った時だった。
すぐ隣から、呑気な声が聞こえてきた。
「ねー。ずっと几帳の陰にいたよねー?」
そうなの、と視線で尋ねると、二人は揃ってこくりと頷いた。
さらに顔が熱くなった気がして、春菜はそっと頬を手で押さえた。
特に、誤解されるようなことは言わなかったはずだ、と自分の発言を思い出して確認する。
よし、ない、と自分に言いきかせて、じろりと有間に視線を向けた。
「有間。ずっといたでしょ」
疑問系ではなく、あえて断定系で言った。
「誤魔化さないでね。知ってるから」
憮然とした表情でそう言うと、諦めたように有間は苦笑を浮かべた。
「気付いてたのかい?声をかける機会を見失ってね。自分の噂話をされている時に声をかけるのは、どうにも気まずい」
肩を竦めるようにして、有間は春菜の目の前に腰を下ろした。
「八菜女、あまりおかしな話しを春菜に吹き込まないでくれるかい?」
「そうよ。ただ有間は女の人に興味がないだけよね?」
澄ましてそう言うと、八菜女の動きが停止した。
びっくりしたように、春菜を見つめる彼女を横目に見ながら、同じく驚いたように目を見開いた有間に、ね、と微笑みかけた。
「私は良いと思うよ?男同士でもね。そういうのも一つの個性じゃない?それに、有間は綺麗な顔してるから、男同士でも絵になるし。大丈夫、誰にも言わないから安心して」
内緒ね、と八菜女に目配せすると、八菜女は心得たとばかりに神妙な表情で頷いた。
「春菜、それでは八菜女が誤解をしてしまう」
困ったような笑みを浮かべて有間は溜息を吐いた。
「え?春菜様?それでは…」
「八菜女、誤解だよ。私に、男色の趣味はない」
有間に直接声をかけられて、八菜女は頬を朱に染めた。
「春菜も、適当なことばかり言わないでくれ。これでも注目を集める立場だからね」
苦笑とともに言う有間は、特に怒った様子もない。
「じゃあ、盗み聞きのような真似は止めてよね」
そっぽを向いてそう言うと、分かったと宥めるように頭の上に手を置かれ、幾度かそれが上下する。
「でも、確かに春菜の元に通うのは悪くない」
笑みを納めて真剣な表情でぽつりと有間はそう呟いた。
それに、八菜女は袖で口を多いさらに顔を赤らめた。
「ね、私も思った。ちょうど良いよね」
八菜女のそんな様子も目に入らず、有間も同じことを考えていたのか、と嬉しくなって、春菜はにこりと微笑んだ。
「人目もあるから、昼間にあまり頻繁に私がここを訪れると、良くないだろうからね。夜ならば上手くすれば衆目も集めないだろう。噂になると逆に目立つことになるかもしれないが…」
考え込む有間に、春菜もまた黙り込んだ。
あまり、宮中の機微は分からない。
有間の判断に任せるべきだろうと思ったのだ。だが、そこですぐ隣で二人で遊んでいるこなたとかなたを目に止めて、春菜ははたと思いついた。
「ねえ、手紙でも良い?」
「手紙?だが、他の者の手に渡った時のことを考えると…。書簡の頻繁なやり取りはいらぬ憶測を呼びそうだ。恋人同士の歌のやり取りは良く行われているが、大王の目は誤魔化せないだろうし…」
「こなたとかなたに頼んだら、確実だと思うよ」
自分達の名前が会話に出てきたことに気づいて、二人は何やら楽しそうに春菜の回りに纏わりつく。
「ね、出来るよね?誰にも見つからないように、手紙を運んで欲しいの」
そう聞くと、二人はこくりと頷いた。
「出来るよー」
「絶対に見つからない!」
嬉しそうに二人は宣言すると、くすくすと笑い合う。
なんとなく、幼い見た目が不安感を煽らないこともない。
けれど、まがりなりにも神様だ。
人間に見つかるようなヘマはしないだろう。
「出来るって」
二人の言葉を伝える。
「どうかした?」
奇妙な表情を浮かべる有間に首を傾げた。
「いや…神に、そのようなことをさせるのは、どうにも…」
渋る有間の周りを、かなたとこなたがくるりと舞った。
「かなたとこなたは、姫様を助けるの」
「姫様が望むなら、かなたとこなたは、何でもするの」
有間には聞こえていないのだろうが、二人は有間の周囲で言いながらくすくすと笑った。
「大丈夫、やってくれるって」
二人の笑顔に、春菜もつられて微笑んだ。
「…分かった、ではそうしよう」
渋々、と言った様子で有間はようやく同意した。
それにしても、と八菜女が言ったのは、有間が帰ってしばらくした頃だった。
「本当に驚きです」
呆けたような表情で、八菜女はどこともない空中をぼんやり見つめている。
「ここに風の神がおわすなんて…」
本当に、この時代の人々は信心深い。
そんなことをぼんやりと思いながら、春菜はすぐ横でじゃれあうこなたとかなたに目をやった。
玉依姫、という神話上の神の血筋に連なる。
ただそれだけの理由で、大王や有間を神の血に連なる人々として、尊敬と畏怖の念を向けていたこの少女に、身近に本物の神がいると言う事実がどれほどの衝撃を与えたのか、春菜には想像もつかない。
ほう、と深い息を吐くと、八菜女は頭を軽く振った。
「でも、驚いてばかりもいられませんね。しっかりしないと、勤めが果たせませんものね」
にこりと笑った八菜女は、まだ少し表情は固いものの、いつもの彼女だった。
遅くなりました。
35話です。
有間過去編なんて、嘘っぱちもいいとこです。
辿り着けませんでした。
おかしいなぁ…。
ところで、この宮、板葺の宮って呼ばれてるらしいです。
珍しい板葺きだったから。
安直な感じの名称ですよね。笑




