3、色褪せた世界
暫く黙ったまま寝転んでいた春菜は、ふいに勢いをつけて飛び起きた。
「おい、それだけ元気があるなら、行くぞ」
飛び起きた春菜を見て、男が顔を顰めて言った。
「あれ?あたしついて行って良いの?」
「…嫌ならついてこなくて良い」
不機嫌そうなまま言うと歩き出した男に、慌てて春菜はついて行く。
勝手の知らない世界に、一人放り出されてはたまったものではない。
「ねえ、おじさん」
声をかけた途端に、男が振り向いた。
驚いて一歩下がる春菜に苦笑してから、男は少し表情を和らげた。
「お前、さっきから俺をおじさん呼ばわりしてるが、年はたいして変わらないと思うぞ」
言われてみれば、確かに男は若かった。
雰囲気と、言動から、どこか年の離れた印象を受けていたのだが、よくよく見てみれば、十代の後半、おそらく春菜よりいくつか年上位の差しかないだろう。
「うっそ、本当だ」
驚く春菜に、初めて笑顔らしい表情を男は浮かべた。
その笑顔に、春菜はようやく今までの悪い印象がわずかに薄らぐのを感じた。
もしかしたら、悪い人ではないのかもしれない。
「あたし、春菜って言うの。為末春菜……どうしたの?」
名乗った途端に、ぽかんと呆けたようにただ春菜を見る男に、首を傾げる。
「お前、貴族なのか?」
「え?」
言われた意味を理解できずに、春菜は再び首を傾げた。
「氏を持ってるのか?」
もう一度言葉をかえて尋ねられ、ようやく春菜は男の言わんとする所を理解した。
「あ、そう言う事。あたしは、貴族なんかじゃないよ。あたしの居た所では、皆苗字を持ってるの。持ってない人は誰もいないし、貴族も平民も農民も何も、身分なんかないよ」
建前上は皆平等のはずだ。
春菜の説明に、男は更に目を丸くする。
「お前、異なる世から来たのか?」
「わかんない。あたしは、多分過去に来ちゃったんだと思ってるけど…」
「後の世から来たのか?」
心底驚いたように言う男に、春菜は頷く。
「うん、多分ね」
「ならばこれから先、身分がなくなるのか?これから何が起こるかわかるのか?」
「うーん、ここが、本当に私のいた所の過去の世界なら、いつか身分制度はなくなるよ。ずっとずっと遠い未来の話しだけど。何が起こるかはわからないと思う。今がいつの時代か分からないし、本当に大事件じゃないと、歴史には残らないから。それに、過去だと思ってるけど、ここは過去じゃないかもしれないし…。それより、あなた名前は何て言うの?」
足元に転がっていた石を蹴飛ばして、春菜はそう尋ねた。
ころころと転がって、止まった石に追いつくと、もう一度それを蹴飛ばす。
「俺は、時彦だ」
時彦。
名前だけは、いかにも昔の人って感じなのね、と心の内で呟きながら、春菜はもう一度石を蹴った。
ふと視線を上げると、胸を空くような青空に視線が行き当たった。
辺りは、見渡す限りの自然。
こんなに人工物のない場所に立った事が春菜は今まで一度もなかった。
さやさやと風にゆられる草の音は耳に心地よく、足の裏に感じるアスファルトよりも軟らかい、幾分ひんやりと湿った土の感触も新鮮で、気持ちの悪いものではなかった。
空気も心なしか軽く、全てがコンクリートに囲われた東京より生き生きとして見えた。
肌に命の躍動が、ぴりぴりと感じられるような気さえする。
思い返して見ると、たった一時間前に春菜がいたはずの世界が色あせて感じられ、春菜は溜息をついた。
灰色の霞がかかったように、命の輝きの薄い世界だった。
そう感じられてしまうのが、無性にやる瀬なかった。
今まで春菜は、何と狭く色あせた世界に生きていたのだろう。
「やけに静かだな。どうかしたのか?」
時彦の声に、急に現実に引き戻され、春菜は顔を上げた。
何、と目で問いかけると、時彦は同じ言葉をもう一度繰り返した。
「別に…」
胸に迫る思いを言葉にすると、どこかに消え去ってしまいそうな気がして、春菜は何も言わずに首を横に振った。
それに怪訝そうな顔をしてから、時彦は前に向き直ると、もう目の前に迫っていた集落を指差した。
「俺の荷物が、あそこの村においてあるから、取ってくる。ここで、ちょっと待ってろよ。すぐ戻ってくる」
「何で?あたしも行っちゃ駄目なの?」
待ってろと言う言葉に、置いていかれるのではないか、とかすかに不安になり、春菜はそう問い返した。
すると、呆れたような視線が時彦からは返って来た。
「お前な、そんな格好で人のいるとこに何かいけねえだろ」
「そんな格好?」
更に分からず、首を傾げると、時彦は溜息をつく。
「お前の着てる物は奇妙すぎる。そんな格好で人前に出てみろ。笑いもんだぞ。だいたい、良い年した娘が足を出すな。慎みのない。目の毒だ。お前だからないだろうけどな、良くない気を起こす奴だって中にはいるぞ」
時彦の言っている意味を理解して、春菜は、頬が熱くなるのを感じた。
黙り込んだ春菜を見て、かすかに笑うと、時彦は春菜の頭に手を置いた。
「心配すんな。置いてきやしねえから。お前の着るもんもってすぐ戻ってくるから、人に会わねえようにここらへんで待ってろ。良いな?」
心の内を見透かされたようで、余計に気恥ずかしくなりながら、春菜は黙って頷いた。




