23、軋轢
家の裏手にある井戸で水を汲む時彦の隣で、春菜は水を受け取る。
二人で一杯づつの水を家へと運びこむと、雑巾を浸し、固く絞ってから床を拭く。
二人で半分づつ雑巾をかけながら、梓彦が食べ物を持って帰ってくるまでに、綺麗にしてしまおうと、積もった塵を拭き取っていった。
時彦は長く家に帰っていなかったようで、舞い込んだ砂埃や塵が積もって、一拭きする度に雑巾が真っ黒になった。
「ねえ、時彦、何でここでは力を使えたの?」
黒くなった雑巾を桶で洗い、固く絞りながら、春菜はそう切り出した。
「何で、と言われると、俺も良くは知らん。本来、退魔師は神々の許可なく力を使えないのは知っているな?」
それに頷いて、春菜は床を拭く。
「だが、物の怪が出た時にしか力を使えないのでは、どうやって力を使う術を身につけると思う?」
「あ…いきなり実戦…な訳ないか」
言われてようやく思い当った。
物の怪が出なければ使えない力。
それは力を扱う技を受け継ぐにはあまりに困難だ。
「ああ。この村には、一か所物の怪が出なくても、力を扱う許可を与えられた土地がある。村の子供はみな、そこで力を扱う事を学ぶ」
「そこだけ?」
「ああ、村の中心にある、そこだけが、物の怪が出ずとも力を扱える唯一の場所だ。だから、退魔師にとって、この村は特別なものなんだ。退魔師達は、そこが唯一の場所だと信じている。いろいろな場所を巡ったが、俺もそんな特殊な場所は見た事がない。そして、唯一の例外はここだけだ。この家の周辺だけは、そのたった一つの例外だ。理屈は知らんぞ。ただ、ここでは力が扱える。その事実だけだ、詳しい事は分らん。神の気まぐれか、温情か、何にしろありがたい事だがな」
「そんな場所があるんだ。考えてみたら、そうだよね。練習出来る場所がなきゃ、退魔師も途絶えちゃうよね。でも、不思議だね、何で使えるんだろう」
真っ黒になった桶の水で雑巾をすすぐ。
最後にもう一度絞って、残りの床を拭く。
「さあな。伝承では、神々も物の怪に苦慮して、退魔師の為にわざわざそういう場所を作ってくださったって話しだが、玉依姫のいらっしゃった時代にまで遡る古い話しだからな。真偽の程はわからんな」
「神様と話せるの…?」
根本的な疑問を口にすると、時彦は少し難しい顔をして考え込んだ。
神々の話しは良く出てくる。
許可が必要であったり、と頻繁に出て来るが、それほど神が近い存在で、実際にいる事が、春菜にはどうにも不思議だった。
「実際に話したという人間に会った事はないが…。だが、実際に退魔師は、力を扱う時には、神に伺いを立てている。そして、許可されるこそ使えるようになるからな。存在は近くに感じるが…」
「許可されなかった人っているの?」
「物の怪が現れてれば、そう滅多に断られないな。物の怪がいなければ、許可されないが。ああ、たまに人間嫌いの神もいて、その神の土地では許可が得られない事もあるらしい」
「え!許可が得られなかったらどうするの?」
物の怪に生身で対抗できるとは春菜には思えなかった。
生身でなくとも、武器は意味を持たない存在に、力なしで対抗できるとは思えない。
「そうなったら、逃げるしかないよなー。逃げ切れるとは思えないが」
時彦の返答に春菜は顔を顰める。
「怖いね。退魔師だからって、物の怪に対抗する手段を必ず得られる訳じゃないんだね」
「ああ。だから、退魔師は信心深いぞ。神々に嫌われたら終わりだからな」
言いながら、一通り雑巾をかけ終わった室内を見渡してから、時彦は桶を持って立ち上がった。
「そっちも終わったか?桶の水、換えに行くぞ」
それに春菜も、自分の桶を持って立ち上がる。
黒くなった水を空けて、新しく水を汲んでもらいながら、ふと村の方を見ると、暗闇に明かりが見えた。
「誰か来る。梓彦かな?」
不規則に小刻みに揺れるそれは、木立の陰に時々隠れながら近づいて来るようだった。
「ああ、そろそろ往復する時間だろ。ほら、春菜の分。もう一回雑巾かければ、掃除は終わりだ」
言われて、桶を抱えると家に向かう。
簡単に、先ほどしっかりと塵を拭った床を拭く。
時彦もそれに続いて家に入る。
後から来る梓彦を思ってか、家の戸口を開け放したまま、雑巾をかけ始めた。
「あれ?時彦、そう言えば何で術は物の怪がいなくても使えるの?私を呼んだ術も力使うんだよね?」
不意にその事に思い至って、隣で雑巾をかける時彦に尋ねる。
「ああ。本当は少しは使えるんだ。ただ、物の怪に対抗できる程の力を許可なしに扱えないだけで、少しは許可がなくても力は使える。あれもそうだ、春菜が見つけた刀。あれに憑いた物の怪の気を払った時にも力を使っただろ?」
言われて春菜はそれを思い出す。
「そう言えば…」
あの頃は、力の事も退魔師の事も何も知らなかった為、疑問にも思わなかったが、確かに時彦は力を使っていた。
「あれは、自分の内側に宿る力を使ったんだ。自分の力だから、限界はあるし、大した事が出来る程あるわけでもないから、術や、物の怪の気を払う程度の事しか出来ないが…」
へえ、と呟いて春菜は首を傾げた。
「自分に宿る力って、使って良いの?ちゃんと使った分は補われるの?」
なんとなく、自分のうちに力がある事は感じられるが、増減はあまりないように感じられた。
「使った分は戻るらしいぞ。ただ、限界まで使うと、死ぬ事もあるらしいがな。命の源がなくなるまで使ってはこの世に存在できなくなるんだろう」
事も無げに言われ、春菜は小さく身震いした。
滅多になくなるまで力は使い切る事はないのだろうが、なんとなく恐ろしかった。
「ねえ、時彦はなんで退魔師になったの?」
思わず尋ねたのと、ほぼ同時だった。
屋外で何か物音が響いてきた。
足音のような物と、何か鈍い音、草のざわめくような音。
「梓彦…かな?」
思わず時彦の方を向いて言うと、時彦はわずかに険しい顔で戸を窺っていた。
「さあ、動物か何かかもな。ちょっと見てくる。ここで待ってろ」
言って腰を上げる時彦を目で追う。
「梓彦か?」
言いながら外に出て行く時彦の姿は、すぐに春菜の位置からは見えなくなった。
「お前っ!帰ってたのか?」
驚いたような男の声が響き、春菜は首を傾げた。
どうやら梓彦ではなかったらしい。
時彦の低い押し殺したような声が聞こえたが、何と言っているかまでは分からなかった。
それに対し、相手の男の声は興奮しているのか、やけに大きく聞こえてきた。
「お前には関係ないだろ」
「死んでなかったんだな。てっきり死んだとばかり思ってたぞ」
どうやら、二人いるらしい男の声に春菜は眉を顰める。
あまり良い雰囲気ではなかった。
どこか声に嫌なものを感じる。
「中に梓彦もいるのか?」
軽そうな男の声が家へと近づいてきた。
「いや、今はいない」
時彦もまたそれに続いたのかようやく声を聞き取れた。
へえ、と言う声と同時に、男の影がわずかに戸口から覗いた。
馬鹿にしたような色を浮かべた瞳と一瞬視線が交わった。
「おい」
感情を押し殺したようなどこか怒りを感じる時彦の声と同時に、どこか驚いたような表情を浮かべた男の影が見えなくなった。
どうやら、時彦に家から引き離されたようだった。
「お前、女なんか連れ込んでたのか?」
軽薄そうな声が響き、もう一人の男も興味を示したように、声を上げた。
「へえ、そりゃまた奇特な女もいたもんだな。ちょっと会わせろよ」
嘲笑、とも取れるような声が響く。
更に表情を険しくして、春菜は立ち上がった。
「時彦?」
戸口から顔を覗かせると、家と男達の間に立つ時彦の背中が見えた。
その向こうに、少し離れて男が二人立っている。
「春菜、出てくるな」
険しい表情のままに時彦が振り返る。
「だって…」
何と答えて良いか分からず、口ごもるが、穏やかでない雰囲気に、自分だけ家の中にいるのに耐えられなくなったのだ。
「ほんとに連れ込んでるよ、女」
背が高く、適当に髪を一つにまとめ、陽気そうな口元を曲げて、嫌な笑いを貼り付けて男は言った。
「どこで引っ掛けて来たんだ。お前なんかにはもったいないな」
もう一人のどこか不機嫌そうな目をした男もそう返す。
「たまたま途中で拾っただけだ。用がないなら、さっさと帰れ」
時彦は相変わらず無表情な声音で答える。
冷たい声音に驚いて、時彦を見上げると、時彦は春菜には見向きもせずにただ二人を見据えていた。
「なんだよ、久し振りなのに冷たい奴だな」
背の高い男は言って、時彦に近づく。
微動だにしない時彦に詰め寄るようにする男に、相変わらず冷たい声で時彦は答えた。
「お前らと慣れ合う気はない」
切り捨てるような声音に、男は尚も笑う。
「ねえ、君」
時彦の肩越しに、男は春菜に笑いかけた。
それまでの人を馬鹿にしたような冷たい笑みではなく、女好きのしそうな笑みが浮かぶ。
「何かあったら、村まで来ると良い」
言われた意味を一瞬理解できずに、春菜は首を傾げる。
それに、男は一見優しげな笑みを深める。
「例えば、こいつが意に沿わない事をした時、とかね」
男が囁くように言うと同時に時彦が殴りかかった。一歩下がって、軽々とそれを避け、男は笑う。
時彦も本気で殴る気はないらしく、それ以上は追わない。
「ね?乱暴な男だろ?」
笑いかける男に、春菜は顔をしかめる。
仲が良いからの軽口とは思えない雰囲気を男は纏い、それでも春菜には優し気な笑みを向ける。
「そんな言い方止めて」
思わず春菜が言い返すと、男はわずかに驚いたように春菜を見た。
「へー、懐かれてるんだな、お前」
時彦を見ると、男は笑顔を潜め、でも、と言葉を続けた。
「でも、あんまり近付かない方が良い。神に見放されたくなかったらね」
表情を消した男の視線に射竦められ、春菜はわずかにたじろいだ。
「何、それ」
時彦は、何も言わず、身動きもしない。
ただ、強い視線で男を見ていた。
「禁忌を犯した血、領域を犯した血だ。こいつの祖先は神を冒涜した。だから、神様に、疎まれるかもしれないよ」
無表情にそう言うと、最後に男は口の端を持ち上げた。
「…何それ」
怒りに声が震えた。
無表情のまま、かすかに瞳を揺らして、時彦は春菜から視線を逸らした。
時彦が呼び寄せを使わない、と言った理由を理解して春菜は男を睨み付けた。
「時彦の御先祖様が何したかなんて知らないけどね、大事なのは本人でしょ?親とか先祖とか関係ない」
そこで、大きく息をつく。
無性に腹が立っていた。
時彦が、目を見開いて春菜を見ているのに気付いたが、止まらなかった。
「本人にはどうしようもない生まれで差別するような神様なら、私はいらない。こっちから願い下げよ」
言い切って、男を見る。
呆れたような、呆気に取られた表情を浮かべて男は春菜を見ていた。
「お前ら、何やってるんだ」
怒りを含んだ大きな声に、男を睨み合つけていた春菜と、呆然としたような表情で春菜を見ていた男は、はっとして村へと続く暗闇へと視線を向けた。
暗いので、はっきりとは見えないが、大きな梓彦らしき人影に、ほっと春菜は肩の力を抜いた。
「梓彦…」
名を呟いたのは、先程から黙っていたもう一人の男だった。
どこか慌てたような声音に、背の高い男も動きを取り戻した。
「何をしてる」
重ねて問う梓彦の声は、表情同様厳しいものだった。
「何でもない。旧友に挨拶に来て何が悪い。たまたま通り掛かったら珍しい顔を見かけて、久しぶりの再会を喜んでただけだ」
対する男は、反対に柔らかい声音で言うと、取り囲むように立つ三人を見た。
「じゃあ、俺達は村に戻るよ」
片手を上げて言うと、男は立ち塞がるように立つ梓彦の脇をすりぬけた。
そのまま立ち去る二人を睨むようにして見送ると、梓彦は溜め息をついて春菜に向き直った。
「無茶苦茶な奴だな」
面白がっているような、呆れたような微妙な声音で梓彦は呟いた。
「だって、感じ悪いんだもん。何あれ」
怒りがまた沸き上がってきて、春菜は口を曲げる。
「なぜお前が怒る。あまり罰当たりな事を言うな」
時彦の呆れた口調に、春菜は顔をしかめる。
「まあでも、実際ちょっとはすかっとしたけどな」
にやりと笑って言った梓彦に、春菜は目を見開いた。
「梓彦!今、初めて通じあえた気がする!」
思わずそう言うと、梓彦は途端にいつもの仏頂面に戻った。
「だが、本当にあまり罰当たりな事は言うなよ」
ぼそりと呟かれたそれに、春菜は、はーい、と返事を返した。
あまり罰当たりだと言う意識はなかったが、とりあえず頷く。
「それで、お前晩飯はどうした?」
時彦が家に入りながら尋ねると、梓彦は両手に持った荷物を軽く持ち上げた。
「家に行ったら、煮物とか、明日の分の野菜や米持たされた」
言いながら、梓彦もまた戸をくぐった。
その背中と、村の方を見比べ、春菜は最後に崖に視線を移した。
いつも通りの時彦と梓彦の姿が、あれが時彦にとって普通なんだと春菜に告げていた。
何となく、時彦が村から離れ、一人で崖の下に住んでいる理由が分かってしまった。
家の背後の崖が、昼間以上に黒々と覆いかぶさって見え、春菜は慌てて二人の後を追って家へと入った。




