20、来訪
翌日の昼頃には、目的地に着くと聞き、春菜は一つ頷いた。
春菜にとっては、目的地に着くと聞かされたところで、結局は一時的な宿である事には変わりなく、日々の生活になれていない点では、落ち着かない事には変わりが無かった。
むしろ、ようやく勝手が分かってきた旅の様子がまた様変わりする方が不安な様な気すらしていたのである。
牟婁の湯と言う場所が、今回の逗留先であると春菜は聞いていた。
八菜女によると、都から南に下った海に程近い場所だ、とだけ聞いていたため、和歌山か三重か、その当たりの海岸付近になるのだろう、と春菜は勝手に解釈していた。
村を出てから少したった頃、急に雨に降られ、しとしとと雨音が響いてくるのを聞きながら、春菜はため息を落とした。
少し肌寒く湿気のこもる空気のせいか、気分まで重くなるのを自覚しながら、もう一度春菜はため息をついた。
八菜女は、少し前に、他の采女に呼び出されてどこかに行ったきり戻ってきていない。
―ねぇ、変なのがいるよー。
突然響いた声に驚いて顔を上げるが、牛車の中は当然ながら春菜一人。
聞き間違いか、と思い始めた頃に、きゃはは、と高い笑い声が響いた。
幼い子供の声のようだった。
―なんでこんなとこにいるのー?
耳に残る、高い声だった。
どこから響いてくるかも分からない声に、春菜は息を潜める。
―ほんとだー。なんでいるのー?
―ねー。死んじゃったんじゃなかったっけー。
―えー、死んでないよー、消えちゃったんだよー。
―消えちゃったのは、死んじゃったって事じゃないのー?
会話らしき問答が聞こえるが、声は全く同じで春菜には聞き分ける声が出来ない。
不自然に語尾を伸ばし、時折高い笑い声を響かせる。
「誰か、いるの…?」
小さく声を出すと、二つの声はぴたりと静まった。
―声、聞こえてるよー?どうしよう、怒られちゃうー。
全く困っているようには聞こえない声音でそんな言葉が響いてきた。
―えー、でも見えてないよー?偽物じゃないー?主様何にもおっしゃってなかったもん。
―じゃあ、だぁれ?
―さぁ。姫様の子孫じゃないのー?
―かなぁ?
―うん、ちょっと変だけど、きっとそうだよー。
―じゃあ、いっかー。
笑いながら交わされる会話に取り残され、春菜は周囲に視線を走らせた。
が、何かに納得したかのように、声は笑い声を響かせると、徐々に遠ざかっていった。
しばらく春菜は凍り付いたように動けずにいたが、そろりと上半身を動かしてみた。
いかなる変事も起こらない事に安堵して、全身の力を抜く。
安心させるように、ふわりと風が頬を撫でるのを感じて、小さく春菜は笑みを浮かべた。
今朝、力を扱う術を知ってからと言うもの、周囲の力は更に春菜に優しくなった。
意思を持っているのではないか、と首を傾げたくなるが有間は力に意思はないと言う。
「ねえ、意思がない訳じゃない、よね?」
小さく呟くと、さらに柔らかい風が頬をくすぐった。
力の暖かさに少し安心した。
「今のは、何だったんだろう」
無意識に独り言を呟くと、春菜は一人首を傾げた。
「春菜様?失礼致します」
外からかけられた八菜女の声にはっとして、居住まいを正すと同時に牛車に八菜女が乗り込んできた。
「遅かったね?どうしたの?」
「いえ、たいした事では。少し雑用を頼まれましただけです」
笑顔で答える八菜女を深く追求せずに、春菜は黙ってうなずいた。
先ほどの出来事を話そうか、と一瞬考えたが、有間に聞くのが一番正確だろう、と思い直して隣に腰を下ろした八菜女に視線を向けた。
「雨、まだ降りそう?」
途切れた会話を繋ごうと、何気なく問いかけると、八菜女は小首を傾げた。
「どうでしょうね。山の天気は移ろいやすいものですから、すぐ止むやもしれませんが、秋雨の時期ですしね。ああ、そういえば」
言って、意味深な笑顔を八菜女は浮かべた。
「知っておられました?有間皇子は、雨になると、決まって一人で列を抜け出されるのですよ。春菜様を連れてこられた二日前も雨で、ふらりといなくなられて。数日たって、帰ってこられたと思ったら、春菜様を連れておられて。雨が降ったからこそ、もしかしたらお二人は出会われたのかもしれませんね」
雨が降ったその日には、まだこちらには来ていなかったのだ、と不思議な思いでぼんやりと思いながら、春菜は外から響く雨音に耳を傾けた。
「有間、今日も出かけてるの?」
「ええ。そのようです。雨ですし、お気を使われたのか、春菜様にはお声をかけられなかったようですが」
付け加えられた言葉に苦笑して、春菜は八菜女を見る。
「気にしている訳じゃないのに」
「あら、よろしいではありませんか。慕う殿方が側におらぬのは、女ならば誰しも寂しいものですし」
目にいたずらっぽい光を浮かべる八菜女に肩を竦めて、春菜は視線を逸らした。
八菜女が牛車に戻って、しばらく経った頃だった。
「少し、牛車が揺れますね」
強くなった雨音にかき消されまい、と少しばかり声を大きくして発せられた声に、春菜は同じく困惑しながら頷いた。
心なしか速度も上がったように感じられた。
「どうかしたのかな?」
「何かあったら、誰かが一声かけると思うのですが…」
八菜女も困惑したように、春菜を見た。
浮かんだ不安の色を読み取って、春菜は締め切られた簾に視線を向けた。
「ちょっと聞いてみようか?」
言って、簾の方へと移動する。
外を覗こうと、手を伸ばすと同時だった。
外側から、簾が剥ぎ取られ、空に浮いた腕を見知らぬ腕に取られた。
半ば捻り上げるようにして捕まれた腕に引きずられるようにして、春菜は外へと引きずられた。
「春菜様!」
八菜女の高い声が響く。
「お前が春菜か?」
低くうなるように問われて、顔を上げた先には、黒い髭に覆われた男の顔があった。
服装からして、有間の一行の者ではなかった。
着古した、けれどみすぼらしくはない、機能的な着物と、腰に帯びた長い太刀。
屈強な身体つきに、長身の男が車の入口に立つとそれだけで威圧感があった。
「誰?」
搾り出すように発した春菜の問いには答えずに、男は車の中を見回した。
「女二人か。おい、行くぞ」
腕を掴んだ状態のまま、男は春菜にそう声をかけた。
「ど、どこに?」
男の巨大さと見かけの恐ろしさに尻込みしながら、それでも春菜はそう尋ねた。
「行けば分かる」
短い返答とともに、腕を引かれ、春菜は牛車の外に出た。
まだ降りしきる雨に打たれ、周囲を見ると、有間の随従は誰一人としていなかった。
道とは思えない道に、打ち捨てられたように車が止められ、男が乗って来たらしい一頭の馬が木に繋がれていた。
「春菜様」
車の中から八菜女の縋るような声が追って来たが、視線すら送らずに男は春菜の腕を掴んだまま、馬へと向かう。
「おい、女」
馬の手綱を取って、ようやく男は振り返った。
「自分が大事ならそこにいる事だな。時期に轍の後を辿って仲間が来るだろう」
八菜女は、びくりと身を震わせたがそれだけだった。
「行くぞ」
腕を引かれ、たたらを踏んで、春菜は男を見上げた。
「どこに?どうして?」
巌のような体躯の男は、見上げるだけでも恐ろしかったが、春菜は何とかそう尋ねた。
このまま抗いもせず言われたままについて行く事だけは何としてもできなかった。
しばしの間男は春菜を見下ろしていたが、唐突に笑い出した。
「気の強い女だな。そんな女は、嫌いではないぞ」
にやり、と笑った男の顔を睨み付ける。
「俺は、退魔師だ」
春菜にだけ聞こえる声量で発せられた言葉に、春菜はぴたりと動きを止めた。
驚きで怯んだ春菜のわずかな隙を男は見逃さなかった。
ついと腕を引き、そのまま馬上に抱き上げるようにして乗せると、すぐに男は馬を駆った。
冷たい雨の中繋がれていた馬は、待っていたかのように勢い良く駆け出した。
「下ろして!」
我に返った春菜がそう叫んだ時には、すでに牛車は木立に隠れ見えなくなっていた。
「もう遅い」
それなりの速度で走る馬の上で、あまり下手な動きは出来ずにいる春菜に視線を向け、男はにやりと笑った。
「馬から落ちれば、怪我では済まないぞ。大人しくしている事だな。すぐに時彦にも会える」
男の言葉に、春菜はぴたりと動きを止めた。
胸中に渦巻く複雑な思いに気を取られたからだ。
「時彦の怪我は?」
しばらく迷った揚句、結局春菜はその問いを口にした。
「退魔師は怪我にはなれている。問題ない」
「…そう」
命に別状はなさそうな事に安堵する。
が、すぐに溜め息をついた。
頬を打つ雨粒に紛れるようにして、落とした溜め息を振り切るように小刻みに首を横に振った。




