2、始まり
ぽん、と泡が弾けるような小気味良い音がしたかと思うと、次の瞬間、体が浮き上がるような引、っ張られるような奇妙な感覚に襲われた。
下校途中、学校から塾までの僅かな距離を歩いていた春菜は、感じた事もない奇妙な感覚に、ただただ驚くしかなかった。
浮遊感の次には、周囲の景色が霞んでいく。
徐々に白くなり、煙のようなものばかりが周囲に漂っている。
そして、これ以上濃くならないほど真っ白になると、今度は段々と靄が晴れるように、少しづつ世界は色を取り戻し始めた。
けれど、やっと再び見えてきた景色に、春名は唖然として周囲を見回した。
目に映る風景は、見慣れたコンクリートの道や、無機質な町並みなどではなく、見た事もないような、自然溢れる景色だった。
本当にここは現代日本の東京?と、疑いたくなるほど人工物が何もない。
春菜が立っているのは森の中に少しだけ開けた野原のようで、周囲はぐるりと木々に囲まれている。
「おい、お前」
失礼極まりない呼びかけが響いたかと思うと、突然春菜は肩をつかまれた。
「ちょっと!何!」
思わず口をついてでた言葉に、驚いてその先に続く言葉を見失ってしまった。
春菜は、見ず知らずの人間に少し理不尽な態度をとられた位で、声を荒げるような少女ではなかった。
特に大人しい方ではなかったが、それでも、それなりに礼節はわきまえているつもりだった。
「何だ、やけに扱いづらそうなのが出て来たもんだな」
呆れたような口調で答えたのは、奇妙な身なりをした男だった。
いや、奇妙ではない。
ただ、場違いなだけだ。
今のご時世に、時代劇にでも出てきそうな着物を、それも見事に着こなして違和感なく、野原に堂々と立っている輩がどこにいると言うのだろうか。
春菜とて、自分の目で見ていながら信じられないとしか言いようがなかった。
普段春菜が、着物として認識しているそれよりは、どちらかと言えば、中国風な印象を受けるが、少しばかり作りが簡素であり、格式ばった感じがない。
上衣は着物のようだが、袖元にはゆるりとしたゆとりはなく、筒状だった。
その下に、ゆったりとしたズボンのような物を穿いている。
袴と言うには少し違和感のあるものだった。
髪は、普通より長い。
肩の下あたりまであるだろうか。
それを適当に一つに緩く纏めた姿は、粗野な印象を与えるが、それでも妙にその男には似合っていて、その上ご丁寧に脇差まで刺している。
十二単などで良く教科書で目にする平安時代以降の国風文化が起こる前、飛鳥時代の服装に似ているように思えた。
「何だ。お前主に挨拶もなしか?」
黙りこくって、じろじろと男を観察してばかりいる春菜に痺れを切らしたのか、平然と男は仰天するような事を言ってのけた。
「……主?誰が?」
こんな暴挙に出られれば、この際礼儀だなんだなどと言ってはいられない。
「俺に決まってるだろ。お前、俺に呼び出された式の癖にやけに反抗的だな」
「式?……式神?あたしが?」
一瞬数学の数式が頭を過ぎったが、どこかで聞いた陰陽師の操るという式神の存在を思い出し、春菜は素っ頓狂な声をあげた。
「お前、出来損ないか?」
呆れたような声音で言われ、春菜は更に表情を険しくした。
「何よ、いきなり出来損ないって。あなた誰?あたし塾に行く途中だったんだけど。まさか誘拐犯?身代金要求でもする気なの?残念でした!あたしの家貧乏だし、お父さんただのサラリーマンだから、大してお給料だって良くないし、お金なんてちょっとしかないんだから。それにね、あたしだって、中学3年生で、受験直前なの。早く帰らないと困るの。ここどこ?もう、どこでも良いから、車かバスか電車が通ってるとこまで連れてって!そしたらあたし一人で帰れるから」
急に、どうしようもない怒りが込み上げてきて、春菜は一息に捲くし立てた。
本当にこの男が誘拐犯なら、こんなにはっきりと感情のままに怒りをぶつけたりなど出来ないのだろうが、この男はそれを許してしまうような、どこか不思議な雰囲気の持ち主だった。
突然怒り出した春菜に、今度は男が呆気にとられたような顔で、春菜を見つめている。
「女の癖に恥知らずな奴だな、お前」
やっと口を開いたと思ったら、更に春菜を怒らせるような一言を吐く。
いや、特に悪気はなかったのだろう。
その証拠に、男は面白がっているような調子で、からかうような笑みすら浮かべていたのだが、そんな事を気にしている余裕など、今の春菜にはなかった。
「何それ!男女差別?あなたこそ、男だからって何様のつもり?だいたい良い年したおじさんの癖に、そっちこそ変な格好して恥知らずじゃない!」
最後に春菜は男を一睨みすると、すぐに踵を返すと適当な方向に見当をつけて歩き出した。
ここがどこかは知らないが、春菜はつい先ほどまで東京にいたのだ。
陽の高さはほぼ変わりない。
それ程時間は立っていないのだから、すぐに人のいる所にたどり着くだろう、と簡単に考えていたのだ。
冷静に考えれば、踏みとどまったのだろうが、頭に血が昇った状態では、正常な判断力すら奪われていく。
「おーい。そっちは止めとけ。お前一人じゃ人里になんか着けねえぞー」
いらいらとする程余裕の態度で、男は春菜の後を悠然と着いてくる。
「何よ!勝手な事ばっかり…」
怒りが少し引き、冷静になると、今度は不安ばかりが膨らみ始めた。
ここはどこなのか、本当に歩いてもどこにも着けないんじゃないか、そもそも後ろにこんなに怪しげな男を連れて、誰も人の目のない場所を歩くのは危険じゃないのか、考えれば考える程、思考は混乱するばかりだ。
その不安が、春菜の言葉から勢いを削ぎ、勢い良く出て来た声はじょじょに尻すぼみに小さくなっていった。
考えてみれば、普通でない事は分かりきっていた。
急に、見た事も来た事もない場所に一瞬で人が移動するはずがない。
ただ塾に行こうと道を歩いていたはずの女の子が瞬間移動なんて、冗談じゃない。
得体の知れない不安がだんだんと広がって行く。
「おい、良いから止まれ。そっちに行ってもどうしようもないぞ」
広がった不安によって、逆に冷静になった春菜は仕方なく、足を止めた。
「よし。始めから、そうやっておとなしくしてれば良かったんだ」
満足そうに言う男を睨み付けてから、春菜は口を開いた。
「あのね、あたしはちゃんと自分の置かれた状況を知る必要があるから止まったの。おじさんの言いなりになった訳じゃないから勘違いしないでよね」
はいはい、と大袈裟に頷く男をもう一睨みすると、春菜はその場に腰を下ろした。
「ここどこ?何であたしがここにいるか、あなた知ってるの?それと、さっき、式がどうとか言ってたけど、あたし、あなたと同じでちゃんと今まで人間として生きてきたんだから、変な勘違いしないでよね」
「人間?そんなはずは…俺はちゃんと式を呼び出したはずだ。現に術を行った結果お前が現われた。なら、お前は式のはずだ」
「術がどうとかは知らないけど、それが本当なら、その迷惑を被って私はここにいるの。あたしはあなたが何と言おうと人間だし、状況が全く分かってないの。だからつべこべ言わずにさっさと説明して」
春菜の剣幕に気圧されるように、男が渋々と言った表情で頷いた。
「ここは吉野だ」
「吉野?吉野の里…奈良県?」
確か国語の授業か何かで古典に出て来た。
そんな事を思ながら、春菜は奈良県の南に確か位置するその場所を思い浮かべた。
しかし、不安は更に膨らむばかりだ。
春菜はついさっきまで東京に居たはずなのだ。
どうして、奈良に移動する事が出来るのだ。
「ならけん?何だ、それは」
とぼけないで、と言いかけるが、男の表情に春菜はその言葉を飲み込んだ。
とりあえず、今は状況を知るのが先だ、と自分を落ち着かせ、質問に専念しようと一度息を整える。
「地名よ。で、何であたしはここにいるの?あなたの話し聞いてると、式神を呼び出す術のせい?」
「さあな。俺は式を呼び出すための術を施しただけだ。そしたら、お前が出てきたんだ。それ以上は知らない」
結局答えになっていないと溜息をつく。
「じゃあ、何であなたそんな格好してるの?陰陽師だから、とか言わないでよね」
「そんな格好?何故と聞かれても、裸でいる訳にはいかんだろ。それと、陰陽師とは何だ?」
先ほどから、思考の隅に引っかかっていた思いが、急速に現実味を帯びてきたような気がして、春菜は小さく身震いした。
現実のはずがない。
そう、起こり得るはずがない。
自分自身を落ち着かせるが、どうしても変な方向にばかり思考は向かう。
「……今、西暦何年?」
「は?せいれきなんねん?」
その返答に、春菜は頭を抱える。
「じゃあ、あなた車って知ってる?」
「おう、当たり前だろ」
「……牛車?」
春菜の言葉に、当たり前だと言うように、男は大きく頷いた。
「さっきから、お前は何が言いたいんだ」
男の呆れたような声には答えず、春菜は、その場に大の字に寝転んだ。
「これは夢だ、って言いたいの!何であたし吉野何かにいるの?意味わかんないんだけど。だいたい、ここ何時代よ!平安?奈良?鎌倉?江戸?室町?戦国時代?車って聞いて牛車を答える現代人がどこにいるって言うのよ!あなた、あたしをからかってるの?ここはほんとに21世紀じゃないの?」
空に向かって、思い切り胸の内を吐き出す。
恐ろしい程に青く澄んだ空だった。
季節は同じ秋なのかもしれない。
秋特有の高い抜けるような青空に、春菜はぼんやりとそんな事を思った。
「お前、大丈夫か?」
「だいたい、あんたもあんたよ。何で昔の人なのに、現代の喋り方なの?余計混乱するじゃん!古代人なら古代人らしく、『我、式呼び出したらんとし、術をなさんとす』とかなんとか古典らしい喋り方しなさいよ!」
半ば八つ当たりのような春菜の言い分に、男は黙り込む。
反論しようにも、おそらく春菜の言っている事の半分も理解していなかったのだろう。
「……ねえ、あたしどうしたら良いの?これ、夢だよね?本当にこんな事起こるはずないもん。ねえ、夢でしょ?」
言いたい事を全て吐き出して落ち着いてから、春菜はようやくそう呟いた。
癇癪のような怒りが収まり、自分の状況をある程度認識したは良いが、それは春菜を更に不安にさせた。
「あたし、昔の時代に来ちゃったんでしょ?信じらんない。やっぱり夢よね?じゃなきゃ有りえないもん。あたし、ちゃんと帰れるの?…夢から覚めれば、ちゃんと家のベッドに寝てるんだよね?」
うわ言のように繰り返す。
そう、夢でなければいけないのだ。
現実のはずはないのだから。




