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千草の花  作者: 小夜
10/37

10、力

「物の怪って、ただ見た目が恐ろしいんじゃないんだね。…もっと、魂に直接恐怖が響いてくる。まだ、恐怖が残ってる…」

ちらちらと揺れる炎を見つめながら、春菜はぽつりと呟いた。

あの後、その場にうずくまって動けないでいた春菜が落ち着くのを待って、少し場所を移動してから時彦が起こした炎だった。

炎から染み出す光と暖かさが、物の怪から滲み出る“何か”によって冷え切っていた心と体に染み渡る。

時彦が言うには、物の怪が現れた場所には良くない気が残るため、あまり長く留まらない方が良いらしい。

「物の怪は俺らとは正反対の存在だからな。根本的に相容れない。だからこそ怖いんだろうな…。それより、お前なんで分かったんだ?」

幾分固い表情で言う時彦に春菜は首を傾げた。

「物の怪が現れる少し前から様子がおかしかっただろ。気付いてたのか?」

言われて春菜は返答に困って時彦を見る。

「普通、俺達退魔師は、物の怪の気配に敏感だ。だから、物の怪が現れれば、少し離れた所でも気付く。けど、お前は物の怪が現れる前に何かを感じ取った。どうしてわかった?」

「どうしてって…。あたしは物の怪がどんなものかも知らなくて、今日初めて見て…ただ、怖くて…」

言いながら、春菜はまだ自分が動揺していることに気付いて、ゆっくりと気持ちを落ち着けるように息を吸った。

ただ目の前で踊る炎に視線を合わせて、落ち着けと言い聞かせた。

ふわり、と何かが肩にかかる感覚に、はっとして視線を上げると、いつの間に移動していたのか、隣で苦笑する時彦に視線が行き当たった。

「もう、大丈夫だ。物の怪はいないし、もし出ても俺がいるんだ。危ない事になんかならねーさ」

困ったように笑んで言う時彦に視線を向け、春菜は小さく頷いた。

不意に時彦の手が春菜に向かって上げられ、思わず驚いて目を閉じると、大きな手が頭に乗せられる感覚がした。

それにもう一度驚いてから春菜はゆっくりと目を開けた。

「そんな怖がる事ないだろ」

やはり苦笑する時彦に、今度は春菜も小さく笑った。

「だって、時彦ってなんか怖いんだもん」

笑いながら言う春菜に、今度ははっきりと時彦は声を上げて笑った。

「何だよ。こんなに優しくて、寛大で、思いやりにあふれた良い男、そうはいないぞ?」

「あはは、自分で言っちゃ良い男も台無しだよ。…物の怪が、現れた時、だよね」

笑いながら言って、春菜はゆっくりとその笑みを収めた。

物の怪が現れた時のことを思い出し、感じたものを時彦に伝えようと言葉を捜した。

「ここに来た時、何か目に見えない力に満ちている、って私は感じた」

心地良く体を包み込み、力を与えてくれる何か。

生命そのもののような、優しくて、穏やかで、それでいて激しくもあり、底知れない力を感じる何か。

「それはただ、泰然と周囲に満ちていて…時彦も感じる?」

ただ、感じるままの印象を言葉に紡ぎ、春菜は時彦を見た。

春菜の視線の先で、時彦は難しい顔をしていた。

渋面をそのままに、時彦はゆっくりと口を開いた。

「…それは、多分女神の力だ。天地開闢の話しは知っているか?」

「うん。イザナギとイザナミが創ったってやつでしょ?」

「イザナギとイザナミ?なんだ、それは?」

聞き返す時彦に、春菜は面食らって、首を傾げた。

「え?違うの?日本神話でしょ?」

「いや、イザナギとイザナミは知らんぞ」

時彦もまた、首を傾げたが、一つ頷くと、話しはまずはそこからだ、とこの世の天地開闢を語り出した。

暗闇の中に、炎の不安定な影だけがちらつき、春菜は時彦の声に耳を傾けながら、静かに目を閉じた。

それは、春菜の知る神話と、似て非なるものだった。




昔、まだ島も海もなく、水に油が浮くようにどろどろとした大地が浮かんでいた頃の事。

一人の女神がお生まれになった。

女神は、生まれ落ちるとすぐに、国生みをなさった。

天の浮橋から地上を見下ろされ、天の瓊矛で地上を掻き回された。

水から天の瓊矛を上げると、矛の先から滴り落ちた雫が固い土地となった。

こうして、女神は固い大地を創られた。

次々と島をお創りになられると、女神は中津国に降りられ、神々をお生みになった。

神々は、それぞれ様々な事象を司り、中津国を緑豊かな国とし、八百万の神は中津国の各地を護られた。




これが、時彦の語った、大まかな天地開闢の流れだった。

春菜の知る神話とは、似ているようで異なる内容。

天の孥矛や、天の浮橋、さらには島の創り方など、共通点は多いが、国生みを行ったのがたった一人の女神だったと言う大きな相違点がある。

「…不思議。似てるのに、全然違う…。天照大御神はいないの?」

おそらく、最も高名であろう神の名を尋ねると、時彦は大きく頷いた。

「ああ、いるぞ。天照大御神は、女神が高天原に昇られる際に共に行かれ、高天原を統べる神となられた。天岩戸など、逸話も多く残っている」

その答えに春菜は更に首を傾げた。

「日本神話の元になった話しの一つって事?」

呟いて、春菜は眉をひそめた。

ならば、ここは古事記が世に出るより前の時代だと言う事になる。

春菜はあまり日本神話には詳しくないが、それでも読書好きがこうじて、一通り読んだ事はあった。

朧げな記憶を探りながら、春菜は更に困惑を深めた。

しばらくそうしてから、春菜は考えるのを諦めた。

情報量が少なすぎるため、考えても仕方ない、と言う結論に達したからだった。

「それで、その話しと、さっきの周囲にある何かと、どういう関係があるの?」

天地開闢の内容と先程の話しの内容がいまいち繋がらず、春菜は時彦に説明を求めた。

「なぜ神は神たるのか。そこが問題だ」

言って、時彦は空を見上げた。

「仮に俺たちが矛で泥水を掻き回したところで、島にはならん。ではなぜ神はそれが出来る?」

視線を向けられ、春菜は困惑して、首を傾げた。

「なぜって…神様だから…?」

答えになっていない事は自覚していたが、神話は神話であり、実際に起こった事と認識して考えた事などなかった春菜は、思ったままを口にした。

神話の中の神は全能とまではいかずとも、何かしら人知を越えた力を有しているものであり、そこに理由は求められない。

「…まあ、当たり前の回答だな」

軽く苦笑して時彦は説明を続けた。

「神が神であるのは、力を持っているからだ。名前はない。ただ、力と俺たちは呼んでいる。それは、無から有をつくる力だ。生命の源でもあり、世界を形作る力。それは女神の国産みの力でもある」

言われた事を反芻しながら、春菜はゆっくりとうなずいた。

「神はもともと一人だった。たった一人。女神様だけだ」

「名前は?」

「名前はない。いや、誰も知らないだけであるのだろうが、女神は女神だ。世界の母であり、もっとも最初に生まれた高貴な方。女神とはただ一人であって、他の誰でもない。この葦原で暮らす限り、女神といえばただ一人。名はとても人にとって重要なものだ。それはもちろん神においてもそうだ。女神は最初にお生まれになられたが故に、また、最高位に位置するお方故に、誰も名は知らない。名を知られる事は、本質をつかまれるという事。女神はこの世の本質をつかんでおられるが、女神の本質は誰もつかんではいない。そういうものだ」

わかったようなわからないような、首を傾げたくなるような返答だった。

要するに、昔中国で、本名を呼ぶのが憚られ、(あざな)で呼ばれたようなものだろう。

名とは人にとって特別なものであり、呪をかける際などにも用いられる。

それだけに名そのものが本人にとって特別な意味や拘束力を持つとして、字が使われた、と何かの小説で呼んだあやふやな知識で補って、ようやく春菜は納得してうなずいた。

「そして、その力を持っているか否か。それが神と人との分かれ目だ。力とはすべてを生み出す。それを操り、無から有を生み出す力を持つ者、それが神だ。そして、おそらくお前が感じるその不思議な感覚、それは力が周囲に満ちているのを肌で感じてのことだろう」

神、その存在が急に現実味を帯びてきた事に困惑しながらも、春菜はどこかでああ、と納得した。

なぜか、否定の言葉は浮かばなかった。

すんなりと心に染み入ってきて、春菜は自然にそれを受け入れていた。

忘れていたものを思い出したような、不思議な感覚だった。

「それと物の怪がどう関係するの?」

始めの論点からずれていたのを戻そうと、春菜が発した言葉に、急に時彦は言葉に詰まったようにして、顔をしかめた。

「…わからん」

「え?」

「物の怪がどこから来て、何のために存在するのか。それは誰も知らない。ただ、人に仇をなし、神々と敵対している。それだけだ。物の怪は、力とは正反対の位置に存在する。それがために、人の作った武器では傷つけられない。物の怪を滅する事ができるのは、力のみだ」

「正反対…」

世界が存在を拒絶している。

確かにそのように感じたはずだ。

春菜はそれにふと納得した。

「正反対だから、存在する事自体が、力から拒絶されるんだね。物の怪が現れた時、それまでずっと周囲に静かに満ちていた力が急にざわめいた。不純物を取り除こうとするみたいに」

考え込むように時彦は黙り込んだが、すぐに大きく息をつくと、頭をふった。

「お前は、よくわからんな」

「え?」

唐突に言われた言葉に軽く面食らいながら、春菜は首をかしげた。

「突然現れて、未来からきたと言い出して、まったく常識を知らないかと思えば、退魔師ですら知らんような事まで知っている。俺は式を呼び出す術を誤ったのではなく、もしかすると、お前は葦原に必要な存在なのかもしれない」

言われた内容がさらにわからず問い返すが、さあな、俺もわからん、と時彦はそれ以上取り合ってはくれなかった。

その夜は、眠れずにいた春菜に時彦が付き合う形で、ただ二人で炎を見つめながら夜を明かした。

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