知りたい
BAR AI
プロローグ
新宿・ゴールデン街。
無数の小さな酒場がひしめき合う路地裏に、その店はある。
店の名前は、
「BAR AI」
看板はない。
住所もない。
常連客もいない。
なのに、人生に疲れた人間だけが、なぜかその店の扉を見つける。
仕事に疲れた人。
恋に傷ついた人。
夫婦関係に悩む人。
誰にも言えない秘密を抱えた人。
自分の性に戸惑う人。
愛しているのに、愛し方が分からなくなった人。
そんな人間たちが、夜になるとこの店へやってくる。
ただし、誰でも入れるわけではない。
店の扉が見えるのは、自分の本当の願いから目を背けられなくなった者だけだ。
そして、この店にはいくつかの不思議な決まりがある。
客が男性なら、
ママ
が接客する。
客が女性なら、
マスター
が接客する。
ただし、ママとマスターが同じ夜に店内へ現れることはない。
客が扉を開けた瞬間、その人が最も心を開ける姿が選ばれるのだという。
店員の姿を、客が自分で選ぶことはできない。
また、店の中で語られたことは、決して外へ持ち出せない。
客が誰かに話そうとしても、言葉は喉で止まり、記憶は夢のように曖昧になる。
それでも、店で交わした言葉だけは消えない。
酒の味。
相手の声。
自分が最後に口にした本音。
それらは、客の中に残り続ける。
そして時には、
客自身が求める姿に合わせて、
その人が最も心を開ける「誰か」が現れる。
恋人。
夫や妻。
昔の恋人。
上司。
部下。
教師。
同級生。
あるいは、自分自身ですら気づいていなかった「理想の相手」。
ただし、そこに現れるのは本物の人間ではない。
その人の記憶と願望が形を得たものだ。
だから、相手は客の知らない事実を語ることはできない。
未来を教えることもできない。
できるのは、客がすでに心の奥で知っていることを、本人の代わりに言葉にすることだけだ。
客は酒を飲みながら、その相手と話をする。
笑う。
泣く。
怒る。
時には抱きしめてもらう。
そして朝になる頃には、自分が本当に何を求めていたのかに気づいている。
この店では、酒代を金で支払うことはできない。
客が帰る時に置いていくのは、
その夜まで手放せなかったもの。
意地。
嘘。
執着。
後悔。
あるいは、誰かに向けていた愛情そのもの。
そして、もう一つ。
客が本当の答えを選んだ瞬間、店はその人を二度と受け入れない。
悩みが完全に解決したからではない。
傷が消えたからでもない。
自分の人生を、自分の足で引き受ける覚悟を決めたからだ。
その後、その客は二度とこの店へ来ることができない。
店を探しても見つからない。
地図にも載っていない。
ゴールデン街の誰に聞いても、
「そんな店、知らない」
と言われる。
ただし、店を出た客の中には、時折、見覚えのない古いコースターを持っている者がいる。
そこには、店名と同じ5文字が刻まれている。
BAR AI
第1話
「知りたい」
午前0時17分。
一人の男が、ゴールデン街の細い路地を歩いていた。
年齢は42歳。
スーツ姿だった。
ネクタイは緩み、髪は乱れている。
何度もスマートフォンを取り出しては、画面を見る。
そこには一通のメッセージ。
> 「もう帰ってこないで」
妻からだった。
男の名前は、
佐伯達也。
結婚して16年。
子供は二人。
外から見れば、どこにでもいる普通の家庭だった。
しかし、ここ数年、夫婦の会話はほとんどなくなっていた。
妻とは喧嘩ばかり。
家に帰っても、妻はスマートフォンを見ている。
食事をしても会話はない。
寝室も別。
それでも達也は離婚を切り出せなかった。
愛しているからなのか。
それとも、
一人になるのが怖いだけなのか。
自分でも分からなかった。
その夜、妻と大喧嘩をした。
そして家を飛び出した。
「……俺は、何がしたいんだよ」
誰もいない路地で呟いた。
その時だった。
古びた木製の扉が目に入った。
小さなプレートが掛かっている。
そこには、
BAR AI
とだけ書かれていた。
達也はしばらく扉を見つめた。
「こんな店……あったか?」
プレートの端には、細い傷があった。
まるで、何度も付け替えられてきたような傷だった。
達也が指で触れると、なぜか胸の奥が痛んだ。
しかし、理由を考える前に、手が扉へ伸びた。
「いらっしゃい」
扉を開けると、薄暗い店内だった。
カウンターが七席。
客は一人もいない。
壁には時計が掛かっているが、針は午前0時17分で止まっていた。
そしてカウンターの中には、50代くらいの女性が立っていた。
白いシャツ。
黒いベスト。
長い髪。
穏やかな笑顔。
「いらっしゃい」
「……一人なんですけど」
「知ってるわ」
「え?」
女性は笑った。
「あなた、一人で来たんでしょう?」
「……まあ」
「座りなさい」
達也はカウンター席に座った。
「何を飲む?」
「ビール」
「今日は何本飲んでもいいわよ」
「……金、大丈夫かな」
「この店、お金は最後でいいの」
「最後?」
「あなたが帰る時に、あなた自身が決めればいい」
ママはカウンターの下から、古びたコースターを一枚取り出した。
そこには、店名と同じ二文字が刻まれていた。
AI
「これ、何ですか?」
「帰る時に分かるわ」
「今、教えてくれてもいいでしょう」
「今のあなたは、答えを聞いても信じないもの」
意味が分からなかった。
しかし達也は何も聞かず、ビールを口にした。
「……うまい」
女性はグラスを磨きながら言った。
「奥さんと喧嘩したのね」
達也の手が止まった。
「なんで……」
「顔に書いてあるもの」
「そんなに分かります?」
「16年」
「え?」
「結婚して16年でしょう?」
達也は女性を見つめた。
「……何者なんですか、あなた」
女性は一瞬だけ、笑顔を消した。
その目に、達也の知らない疲労が浮かんだ。
「この店では、みんな私をママと呼ぶわ」
「そうじゃなくて」
「じゃあ、質問を変えましょう」
ママは達也の目を見る。
「あなたは奥さんと、別れたいの?」
「……分からない」
「愛してる?」
「……分からない」
「じゃあ、今でも奥さんに触れてほしい?」
触れて欲しかった。愛し合いたかった。
でも達也は答えられなかった。
ママは静かに言った。
「その顔は、まだ答えが残ってる顔ね」
「俺……妻に拒絶されるのが怖いんです」
「うん」
「だから何も言えなくなった」
「うん」
「でも、妻も同じなのかもしれない」
「どうして?」
「俺が何も言わないから」
ママはグラスを置いた。
その動作を見て、達也はふと違和感を覚えた。
彼女の左手の薬指には、指輪の跡が残っていた。
指輪そのものはない。
けれど、長い間そこに何かがあったことだけは分かった。
「ママも、結婚してたんですか」
ママは答えなかった。
代わりに、店の奥にある古い写真立てへ視線を向けた。
写真は裏返しになっている。
「昔の話よ」
「……別れたんですか」
「別れられなかったの」
その言葉だけが、妙に重く響いた。
しばらく沈黙が続いた。
その時。
店の奥から声がした。
「達也さん」
達也が振り返る。
そこには、
一人の女性が立っていた。
年齢は40歳くらい。
髪型も、服装も、
妻と同じだった。
達也の顔から血の気が引いた。
「……美紀?」
女性は答えない。
ただ、椅子に座った。
ママは彼女を見ても驚かなかった。
まるで、現れることを知っていたように。
「あなたが欲しかったのは、奥さんじゃない」
女性が言った。
「奥さんの気持ちを知ることだったんじゃない?」
達也は俯いた。
「俺は……妻が何を考えてるのか知りたい」
「じゃあ聞いて」
「何を?」
「私にじゃない」
女性は達也の胸を指差した。
「本物の奥さんに聞きたいことを」
達也はスマートフォンを取り出した。
妻の名前を表示する。
指が震える。
電話ボタンを押そうとして、
止まった。
「怖い」
女性が言った。
「何が?」
「答えを聞くのが怖い」
「でも、答えを聞かない限り、あなたはずっとここにいる」
「ここ?」
「この場所」
女性は微笑んだ。
「夫婦でもなく、他人でもない場所」
達也の目から涙が落ちた。
「……俺、妻に謝りたい」
「何を?」
「16年間、妻が我慢してたことに気づかなかった
「うん」
「子供のことも、家のことも、全部任せて」
「うん」
「仕事を理由に逃げてた」
女性は立ち上がった。
「じゃあ、帰りなさい」
「え?」
「今ならまだ間に合う」
達也は立ち上がった。
カウンターを見ると、さっきまで置かれていたコースターが消えていた。
代わりに、彼のスマートフォンの横に、古い鍵が一つ置かれている。
「これは?」
ママが答えた。
「あなたが閉めていた扉の鍵よ」
「俺の家の鍵じゃない」
「分かってるわ」
達也は鍵を手に取った。
冷たいはずなのに、掌の中で妙に温かかった。
「ママ……いくらです?」
ママは笑った。
「今日は無料」
「そんなわけには」
「じゃあ、一つだけ置いていって」
「何を?」
「あなたの意地」
達也は黙った。
「それを置いていったら、俺は何になるんですか」
「やっと、夫になるのよ」
達也は長い間、鍵を見つめていた。
そしてカウンターの上に置いた。
深く頭を下げる。
「……ありがとうございました」
扉を開ける。
振り返る。
そこには誰もいなかった。
カウンターもない。
酒棚もない。
壁の時計もない。
ただ、ゴールデン街の暗い路地があるだけだった。
達也は手の中を見た。
古い鍵は消えていた。
代わりに、妻からのメッセージ画面が表示されている。
> 「どこにいるの?」
達也は、初めて逃げずに返信した。
> 「今から帰る。話をしたい」
妻の美紀は、玄関のチャイムで目を覚ました。
ドアを開ける。
達也が立っていた。
「ただいま」
美紀は何も言わない。
「昨日は、ごめん」
「……」
「俺、離婚したくない」
美紀の目に涙が浮かんだ。
「でも、今までと同じじゃ嫌だ」
「……私も」
「だから、もう一度話そう」
そしてさまざまな事を話した。
子供のこと 日常のこと 今までの事
相手に望むこと そして結婚前のこと
そしてふと思った。
結婚前は美紀の事をあれほど知りたいと
思っていたのに!
彼女の好み、髪の匂い、唇の柔らかさ
肌の温もり、、、
結婚して子供が産まれ、そうこうするうちに
美紀の全てをわかったつもりになっていた。
本当は全くわかっていなかったのに!
もう一度やり直そう、
もう一度美紀を知る事からやり直そう!
お互いをよく知る事から
つまらない意地を張るより、
間違えたら許しをこい
与えて欲しいものがあれば
素直に願えば良いのだ!
知りたいことがあれば
素直に聞けば良いのだ!
その時、ポケットの中で何かが触れた。
取り出してみると、見覚えのない
古いコースターだった。
表には、
BAR AI
裏には、見知らぬ筆跡で一行だけ書かれている。
> 「一人目、帰還」
達也は意味が分からず、コースターを握りしめた。
美紀が尋ねる。
「どうしたの?」
「いや……何でもない」
達也はコースターを捨てようとした。
しかし、なぜか手が止まった。
その瞬間、コースターの裏にあった文字が消えた。
残ったのは、店名だけだった。
何処の店だか思い出せなかった。




