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戦国に転生した五十一歳、兵糧係から成り上がる 〜刀は振れないが、腹を満たせば兵は立つ〜

作者: あちゅ和尚
掲載日:2026/05/12

 目を覚ますと、久住宗介は泥の匂いと煙の中にいた。


 槍が転がり、冷えた粥が土にこぼれ、痩せた足軽が死人のような顔で座り込んでいる。


 誰かが、かすれた声で呟いた。


「明日はもう、動けぬ」


 宗介は、しばらく息をすることも忘れた。


 何だ、ここは。


 ついさっきまで、自分は高速道路のサービスエリアにいたはずだった。


 五十一歳。


 大型貨物を転がして三十年近く。


 夜明け前の配送、雨の日の納品、倉庫の積み込み、伝票の確認、事故渋滞、眠気覚ましの苦い缶コーヒー。


 そんなものに囲まれて生きてきた。


 それがなぜ、泥の上に倒れている。


 なぜ、目の前に鎧を着た男たちがいる。


 なぜ、遠くで鬨の声のようなものが聞こえる。


「……夢か」


 そう呟いた瞬間、頬に泥水が跳ねた。


 冷たい。


 臭い。


 夢ではない。


 宗介は身を起こそうとして、腰に鈍い痛みを覚えた。手を見る。皺のある、見慣れた手だった。若返ってはいない。強くもなっていない。


 爪の間に泥が詰まり、手のひらには昔からの硬い皮がある。


 五十一歳の身体のままだ。


 ただ、着ているものだけが違った。


 粗末な小袖。


 縄で締めた腰。


 足には草鞋。


 腰に刀はない。


 そばを、若い足軽がふらつきながら通った。


 顔は青白い。


 唇が乾いている。


 手には槍を持っているが、握る力がない。


「おい、大丈夫か」


 宗介が思わず声をかけると、若者は濁った目を向けた。


「水……」


「水か」


 宗介は周囲を見た。


 そこは小さな野営地らしかった。


 雨に濡れた土。


 崩れかけた簡単な竈。


 黒く焦げた鍋。


 積み方の悪い米俵。


 蓋の開いた味噌樽。


 踏まれて泥のついた干物。


 湿った薪。


 そして、使われぬまま横に転がる竹筒。


 宗介の喉が、ひくりと鳴った。


 怖い。


 何もわからない。


 ここがいつで、どこで、なぜ自分がいるのかもわからない。


 だが、目の前の光景だけはわかった。


 ひどい。


 あまりにも、ひどい。


 米がある。


 味噌がある。


 塩がある。


 干物もある。


 薪も、水場もある。


 なのに、兵は腹を空かせて倒れかけている。


 荷があるのに、荷になっていない。


 食い物があるのに、食い物になっていない。


 宗介の胸の奥で、長年染みついた何かが動いた。


 配送センターの朝。


 乱雑に置かれた荷。


 宛先の違う箱。


 濡らしてはいけない荷を雨ざらしにする新人。


 冷凍品を常温の横に積もうとする危なっかしい手。


 あの時と同じだ。


 放っておけば、全部駄目になる。


「これでは、戦う前に倒れる」


 宗介の声に、近くの男がぎろりと振り向いた。


 無精髭を生やした兵糧方らしい男だった。


「何を抜かす。誰だ、貴様」


「俺は……」


 宗介は言葉に詰まった。


 自分でも誰なのかわからない。


 久住宗介。


 五十一歳。


 大型貨物の運転手。


 そんなことを言って通じるはずがない。


「……荷を運んでいた男だ」


「荷だと?」


「そうだ。荷の置き方が悪い。水の扱いも悪い。火も死んでる。米も味噌も、このままなら半分は捨てることになる」


「よそ者が偉そうに」


 男が歩み寄ってくる。


 殴られる。


 宗介は身を固くした。


 だが、その前に別の声が飛んだ。


「待て」


 若い武者がいた。


 兜は泥で汚れ、袖の端が破れている。


 年は二十歳前後か。


 顔には疲労が浮かんでいるが、目だけは死んでいない。


「そなた、名は」


「宗介です」


「姓は」


「……久住」


 言ってから、しまったと思った。


 この時代の名乗りとしておかしいかもしれない。


 だが若武者は深く追及しなかった。


「俺は片瀬弥四郎。笠森城主、片瀬家の者だ」


 知らない名だった。


 少なくとも、宗介の乏しい歴史知識にはない。


 架空なのか。


 それとも、自分が知らないだけの小勢力なのか。


 そんなことを考える余裕はなかった。


 弥四郎は低い声で続けた。


「昨日、黒瀬川の渡しで負けた。城へ戻る途中だが、兵が動かぬ。敵の追手は明朝には来る」


 周囲の足軽たちが、暗い顔で俯いた。


 敗走。


 その二文字が、宗介の背筋を冷たくした。


 逃げている途中なのだ。


 ここで動けなければ、追いつかれて終わる。


 弥四郎が宗介を見た。


「そなた、兵を立たせられるか」


 兵を立たせる。


 そんな大それたことは言えない。


 宗介は剣も知らない。


 槍も振れない。


 戦のことなど、何もわからない。


 だが、腹を空かせた人間が動けないことは知っている。


 水を飲まずに働く者が倒れることも知っている。


 段取りの悪い現場が、どれほど早く崩れるかも知っている。


「約束はできません」


 宗介は正直に言った。


「けど、このままよりはましにします」


 弥四郎は少しだけ目を細めた。


「よし。兵糧方、こやつにやらせろ」


「若殿!」


「このままでは、どのみち動けぬ。ならば試す」


 兵糧方の男は不満げだったが、弥四郎の命に逆らえなかった。


 宗介は立ち上がった。


 膝が震えている。


 怖い。


 今にも逃げ出したい。


 けれど、足元に転がる米俵を見た瞬間、口が勝手に動いた。


「まず俵を全部動かす。濡れた地べたに直置きするな。下に枝を敷け。空気を通すんだ」


「枝?」


「何でもいい。折れた槍の柄でも、板でも、太い薪でもいい。とにかく地面から上げろ」


 足軽たちはぽかんとしている。


 宗介は手を叩いた。


「動ける者はこっちだ。俵を開ける。上だけ腐っているものと、中まで駄目なものを分ける。臭いを嗅げ。酸っぱいのは駄目だ。黒い黴は捨てろ。白く少し粉を吹いた程度なら、よく洗って粥に回す」


「米を捨てるのか!」


 兵糧方が怒鳴った。


「全部食って腹を壊すよりましだ」


「米は命だぞ」


「だから分けるんだ。命にする米と、毒になる米を一緒にするな」


 宗介は自分でも驚くほど強い声を出していた。


 男が怯んだ。


 宗介は次に味噌樽へ向かった。


 蓋が開きっぱなしで、雨水が縁に溜まっている。


 表面には汚れが浮いていた。


「表の汚れは削れ。中はまだ使える。味噌は濃いめにする。塩も足す」


「濃くしたら、喉が渇く」


「だから水を飲ませる。だが生水をがぶ飲みさせるな。腹を壊す。鍋で沸かせ。冷めるのを待てないなら、少しずつ飲ませろ」


 水場を聞くと、野営地の脇を流れる細い沢だという。


 宗介は眉をひそめた。


 上流を見ていない水は危ない。


 だが、今は贅沢を言っていられない。


「水汲みは上流からだ。泥を踏んだ下で汲むな。水を汲む者、火を見る者、米を見る者、握る者に分ける。全員が同じことをするな」


「握る?」


「味噌握りだ」


 足軽の一人が顔を上げた。


「握り飯か」


「違う。飯だけじゃない。味噌を芯にして、塩を少し混ぜて、干物をほぐして入れる。冷めても食える。歩きながらでも食える。口に入れたら水が欲しくなるから、竹筒も一緒に持たせる」


 宗介は言いながら、自分の中にある知識を引きずり出していた。


 サービスエリアで食った塩むすび。


 夏場の作業で倒れかけた同僚に飲ませた経口補水の薄い味。


 長距離の途中で腹に入れた味噌汁。


 雪道で立ち往生した時、温かい汁物がどれほど人を戻すか。


 この時代の正解かどうかはわからない。


 だが、人間の身体は、戦国でも現代でも大きくは変わらないはずだ。


 腹が減れば動けない。


 塩が足りなければ力が抜ける。


 水が足りなければ頭が鈍る。


 冷えれば心が折れる。


「薪は湿ってるな」


 宗介は薪の山を見た。


 火がつかないはずだ。


 濡れた薪が地面に積まれ、上に布もかけられていない。


「乾いた芯を割り出せるか」


 兵糧方の男が渋々うなずく。


「太い薪の中なら、少しは」


「割れ。外が濡れてても中は使える。細く割って火口にする。濡れた薪は火のそばに立てて乾かせ。全部突っ込むな、火が死ぬ」


 宗介は石を動かして竈を作り直した。


 風向きを見る。


 煙が兵の方へ流れている。


 これでは目が痛いし、咳も出る。


「竈はこっちだ。風下に煙を逃がす。鍋は三つ。ひとつは粥、ひとつは湯、ひとつは味噌汁。飯を炊く余裕はない。粥でいい。早く腹に入れろ」


「粥など力がつかぬ」


 誰かが言った。


 宗介は振り返る。


「今の連中に固い飯を詰め込んだら、吐く。まず温かいものを入れる。立てるようになったら味噌握りだ」


 言ってから、少し言い方が強すぎたかと思った。


 だが足軽たちは動き始めていた。


 理由は簡単だ。


 宗介の言葉が立派だったからではない。


 やることが見えたからだ。


 混乱した現場では、人は動けない。


 何をすればいいかわからないからだ。


 荷を右へ。


 濡れた米はこっち。


 使える米はあっち。


 水汲みは二人一組。


 薪割りは腕のある者。


 握るのは女手がいれば早いが、今はいない。なら若い足軽を座らせてやらせる。


 宗介は声を出し続けた。


「列を作れ。押すな。最初は倒れそうな者からだ」


「俺はまだいける」


「そう言うやつから倒れる。座れ」


「先に若殿へ」


「若殿は最後だ。動ける人間は後回し。倒れたら運ぶ手が余計に要る」


 その言葉に、弥四郎がわずかに笑った。


「俺は最後でよい。言う通りにしろ」


 若武者の一言で、兵たちは従った。


 最初の鍋が煮えた。


 薄い粥に、濃いめの味噌を溶く。


 干物を炙り、ほぐして入れる。


 美しい料理ではない。


 器も欠けている。


 だが湯気が立った瞬間、足軽たちの目が変わった。


「熱いぞ。ゆっくり飲め」


 宗介は椀を渡した。


 若い足軽が震える手で受け取り、口をつける。


 一口。


 また一口。


 その喉が、ごくりと鳴った。


「……うまい」


 誰かが泣きそうな声で言った。


 その声が、野営地に広がった。


 うまい。


 温かい。


 腹に入る。


 足軽たちが椀を抱え、黙って粥をすすり始めた。


 さっきまで死人のようだった顔に、ほんの少し赤みが戻る。


 槍を手放していた男が、膝の上に置き直す。


 座り込んでいた男が、背を伸ばす。


 泣いている者もいた。


 宗介はその光景を見て、胸の奥が詰まった。


 戦など知らない。


 勝ち方も知らない。


 だが、食わせることはできる。


 それだけは、自分にもできる。


「次、味噌握りを作る」


 宗介は手を洗うよう命じた。


 沢の水をそのままではなく、湯で洗わせる。


 完璧な衛生など無理だ。


 それでも、やらないよりはいい。


 米は固めに炊ける分だけ炊いた。


 残りは粥と干し飯に回す。


 味噌にほぐした干物、塩少し。


 手のひらに飯を広げ、味噌を包み、ぎゅっと握る。


 大きくしすぎない。


 歩きながら食べるなら、小さめがいい。


「一人に二つ。欲張るな。全員に回してからだ」


「二つで足りるか」


「足りない。だから粥も飲ませた。足りない分は歩きながら食う」


 宗介は竹筒に湯冷ましを詰めさせた。


 水を持たせる順番も決めた。


 先頭、中央、最後尾。


 重い荷は小分けにする。


 俵のまま担がせるな。


 弱った兵に大荷を背負わせれば、途中で捨てるだけだ。


 米は袋に分け、背負える者へ配る。


 味噌は小桶に分ける。


 塩は濡らすな。


 薪は持ちすぎるな。


 城へ戻るまでに必要な分だけでいい。


 宗介はまるで倉庫の積み替えをしているように、荷を組み直した。


 ただし、ここではミスがそのまま死につながる。


 肩に嫌な汗が流れる。


 遠くで馬のいななきが聞こえた。


 弥四郎が顔を上げる。


「物見か」


 すぐに小者が走ってきた。


「若殿! 敵の先触れらしき影、東の尾根に!」


 空気が凍った。


 足軽たちの手が止まる。


 宗介の心臓が跳ねた。


 追手。


 もう来たのか。


 弥四郎は即座に立ち上がった。


「どれほどだ」


「騎馬が数騎。後ろに徒歩武者もいるやもしれませぬ」


 夜明け前。


 こちらは疲れきった敗残兵。


 正面から戦えば、崩れる。


 宗介は周囲を見た。


 竈。


 湯気。


 煙。


 まだ全部は片づいていない。


 残った濡れ薪。


 使えない米。


 破れた筵。


 足跡だらけの泥。


 宗介の頭の中で、道路地図を見る時のように線がつながった。


 敵は東の尾根。


 こちらの城は西。


 沢は北へ曲がっている。


 煙は南へ流れている。


「若殿」


 宗介は声を出した。


「何だ」


「ここに、まだ兵がいるように見せられませんか」


 弥四郎の目が細くなる。


「囮か」


「はい。火は全部消さずに、濡れ薪をくべて煙を出す。鍋も一つ残す。破れた筵を立てて、人影に見せる。使えない米俵を積んで、荷が残っているようにする」


「その間に本隊を逃がすか」


「逃げるというより、動けるうちに退くんです。沢沿いなら足跡が消えやすい。水音で音も紛れる。腹に入れた今なら、まだ動ける」


 兵糧方の男が目を剥いた。


「食ったばかりで動かすのか」


「座らせたままだと、体が冷えてまた動けなくなる。粥を入れた。味噌握りも持たせた。今しかない」


 弥四郎は一瞬だけ考えた。


 若いのに、判断は早かった。


「やる」


 命が下ると、野営地が再び動き出した。


 ただし今度は、先ほどより速い。


 腹に温かいものが入ったからだ。


 立ち上がった足軽の目に、さっきまでの濁りは少ない。


 宗介は味噌握りを配りながら叫んだ。


「先頭は足の残ってる者。弱った者は真ん中。水を持つ者は散らばれ。最後尾に槍を持てる者を置く。荷を落としたら拾うな。人を落とすな」


「人を落とすな、か」


 弥四郎が呟いた。


「荷はまた集められます。人は戻りません」


 宗介はそう言ってから、少し息を呑んだ。


 なぜそんな言葉が出たのか、自分でもわからなかった。


 昔、高速道路で事故を見たことがある。


 荷は散らばった。


 商品は駄目になった。


 だが、助かった運転手が泣いていた。


 会社に損をさせたと。


 その時、先輩が言ったのだ。


 荷はまた積める。人は替えが利かん。


 その言葉を、今、自分が戦国の泥の中で口にしている。


 不思議だった。


 だが、間違いではないと思った。


 撤収は静かに始まった。


 残した竈には濡れ薪をくべた。


 煙が太く上がる。


 破れた筵を槍にかけ、揺れる人影のように並べる。


 鍋には湯だけを残し、遠目には煮炊きが続いているように見せた。


 使えない米俵をわざと見える場所に積む。


 敵は、まだ兵がいると思うだろう。


 少なくとも、すぐには本隊が抜けたと気づかないはずだ。


 宗介は最後に野営地を振り返った。


 そこには、さっきまで自分たちがいた場所があった。


 泥と煙と、冷えた恐怖の場所。


 だが今、兵たちはそこから歩き出している。


「宗介」


 弥四郎が呼んだ。


「はい」


「そなたも真ん中へ入れ。戦えぬ者は守る」


「俺は荷を見ます」


「戦えぬ者が後ろに残るな。荷を見るなら、歩きながら見ろ」


 正論だった。


 宗介は頷き、隊列の中央に入った。


 沢沿いの道は悪かった。


 足元はぬかるみ、草鞋は水を吸う。


 槍を杖のようにつく者もいる。


 それでも、兵たちは歩いた。


 味噌握りをかじり、水を少し飲み、また歩く。


 誰かが倒れそうになると、隣の者が支えた。


 先ほどまで互いに口を利く気力もなかった兵たちが、今は小さく声をかけ合っている。


「もう少しだ」


「握り、半分残せ」


「水を一気に飲むなとよ」


「宗介殿が怒るぞ」


 宗介殿。


 そう呼ばれて、宗介は妙な気持ちになった。


 ただの運転手だった。


 会社では「久住さん」。


 若い者からは「久住のおっちゃん」と呼ばれることもあった。


 この世界では、まだ自分が何者なのかわからない。


 だが少なくとも今、彼らにとって自分は、味噌握りを作らせた男らしい。


 沢が曲がるあたりで、後方から叫び声が聞こえた。


 敵だ。


 遠い。


 まだ遠い。


 だが、野営地に入ったらしい騒ぎだった。


 こちらには来ていない。


 煙の囮に引っかかったのだ。


 弥四郎が低く言った。


「急がせるな。走れば崩れる。歩幅を合わせろ」


 宗介はその判断に感心した。


 若武者は若いが、兵を見ている。


 焦って走らせれば、弱った者から倒れる。


 倒れた者を助ければ列が乱れる。


 列が乱れれば、追いつかれる。


 歩く。


 ただし止まらない。


 それが一番早いこともある。


 山の端が白み始めた頃、隊は古い木橋へたどり着いた。


 橋の向こうには、笠森城へ続く道があるという。


 しかし橋は細く、傷んでいた。


 一度に多くは渡れない。


 後方の敵も、そろそろ囮に気づく頃だ。


 宗介は橋と荷を見た。


 湿った米。


 味噌桶。


 水。


 槍。


 怪我人。


 何を先に渡すかで、また詰まる。


「一列にするな」


 宗介は思わず言った。


 弥四郎が振り向く。


「どうする」


「渡る順番を決めます。まず怪我人と支える者。次に槍を持てる者。荷は小分けにして手渡し。橋の上で止まるな。向こう側に二人置いて受け取らせる。こっち側に二人置いて送り出す」


「荷を手渡す?」


「俵を背負って橋で転ぶより早いです」


 配送センターのバケツリレー。


 重い荷を無理に一人で持つより、人を置いて流した方が早い時がある。


 宗介はそれを橋でやった。


 怪我人を渡す。


 槍を渡す。


 小袋に分けた米を渡す。


 味噌桶は二人で抱える。


 竹筒の水は最後にまとめるな。散らして渡す。


 足軽たちは疲れていたが、指示が短ければ動けた。


 橋の上で止まる者はいない。


 詰まりが減る。


 列が流れる。


 最後尾に近づいた時、後方の木々の間から敵影が見えた。


 弥四郎が槍を取る。


「宗介、先に渡れ」


「若殿は」


「俺は最後だ」


 宗介は言い返しかけて、やめた。


 この時代、この立場で、若武者が最後に残る意味は大きい。


 宗介が口を出すことではない。


 だが、ただ見ていることもできなかった。


「橋を渡ったら、縄を切れますか」


 弥四郎が目を向ける。


「切れば敵もすぐには渡れぬな」


「はい。ただ、こちらの荷も戻れません」


「戻る気はない」


 弥四郎は短く笑った。


 宗介は渡った。


 最後に弥四郎と数人の槍持ちが橋を越える。


 敵の先頭が叫んだ。


 矢が一本、橋の板に刺さる。


「縄を切れ!」


 弥四郎の声。


 足軽が鉈を振るう。


 一度。


 二度。


 三度。


 古い縄が切れ、橋が大きく傾いた。


 敵兵が足を止める。


 こちらの兵たちが、思わず歓声を上げそうになった。


「声を出すな!」


 宗介が叫んだ。


「まだ逃げてる途中だ!」


 足軽たちははっと口を閉じた。


 だが、その顔には先ほどまでなかったものが浮かんでいた。


 生きられるかもしれない。


 城へ戻れるかもしれない。


 その気配だった。


 昼前。


 笠森城の外郭が見えた。


 小さな山城だった。


 立派とは言えない。


 だが、門の前に立つ兵たちが、戻ってきた一隊を見て声を上げた。


「若殿だ!」


「戻られたぞ!」


 城内へ入ると、足軽たちはその場に座り込んだ。


 倒れたのではない。


 座ることができたのだ。


 城の者たちが水と湯を運んでくる。


 宗介はそれを見て、また口を出しそうになった。


 水を一気に飲ませるな。


 怪我人からだ。


 火を絶やすな。


 だが、その前に膝の力が抜けた。


 自分も限界だったらしい。


 座り込むと、腰が悲鳴を上げた。


「五十一の身体で山道はきついな……」


 思わず現代の感覚で呟いた。


 誰にも聞こえなかったようで、ほっとする。


 その時、影が差した。


 見上げると、弥四郎が立っていた。


 泥まみれの顔。


 疲れ切った目。


 それでも背筋は伸びている。


「宗介」


「はい」


「そなた、何者だ」


 来た。


 宗介は困った。


 まさか、未来から来た大型貨物の運転手です、とは言えない。


 言ったところで、狂人だと思われるだけだ。


 だから、あの時と同じ答えを返した。


「ただの、荷を運んでいた男です」


 弥四郎は黙って宗介を見た。


 それから、周囲へ目を向けた。


 味噌握りをかじりながら笑う足軽。


 湯をすすって息をつく若者。


 濡れた米を広げて乾かす兵糧方。


 運び込まれた味噌桶を守る小者。


 皆、まだ疲れている。


 だが、死んだ目ではない。


 弥四郎が静かに言った。


「荷を運ぶ男が、兵を立たせたか」


 宗介は返す言葉がなかった。


 弥四郎はさらに続けた。


「刀を振る者は多い。槍を構える者も多い。だが、腹の減った兵に飯を食わせ、濡れた薪から火を起こし、敗れた兵を歩かせる者は少ない」


「俺は、戦のことは何もわかりません」


「なら、飯のことをわかれ」


 弥四郎は少しだけ笑った。


「今日より、そなたを兵糧方に置く。嫌とは言わせぬ」


「俺が、ですか」


「不服か」


「いえ。ただ……本当に、それでいいのかと」


「よい。そなたがいなければ、俺たちは沢の手前で死んでいた」


 その言葉は、宗介の胸に重く落ちた。


 恐怖が消えたわけではない。


 ここがどこかも、なぜ来たのかもわからない。


 明日には戦があるかもしれない。


 自分は刀を振れない。


 馬にも乗れない。


 武士の作法も知らない。


 けれど。


 米を濡らさぬ置き方は知っている。


 人を倒さぬ休ませ方は知っている。


 荷を流す段取りは知っている。


 腹が満ちた時、人の目が変わることも知っている。


 それだけで、生きる場所になるのだろうか。


 城の庭では、さっそく兵糧方の男が怒鳴っていた。


「おい、俵を地べたに置くな! 枝を敷け、枝を!」


 宗介は思わず笑った。


 さっきまで自分に噛みついていた男が、同じことを言っている。


 その声を聞いた足軽が、手早く枝を集め始めた。


 流れができる。


 人が動く。


 荷が活きる。


 それを見るだけで、宗介の身体はまた勝手に立ち上がった。


「水場はどこですか」


 宗介が聞くと、弥四郎は目を丸くした。


「休まぬのか」


「休みます。その前に、水の場所だけ見ます」


「変わった男だ」


「よく言われました」


 誰に、とは言わなかった。


 もう戻れないかもしれない場所のことを思うと、胸が少し痛んだ。


 だが、目の前には城がある。


 兵がいる。


 米がある。


 味噌がある。


 水と火と、腹を空かせた人間がいる。


 宗介は空を見上げた。


 戦国の空は、現代と変わらず青かった。


 泥と煙と味噌の匂いの中で、五十一歳の流れ者は小さく息を吐く。


 剣豪にはなれない。


 軍師にもなれない。


 だが、荷を運んできた男には、荷を活かすことができる。


 腹を満たせば、兵は立つ。


 兵が立てば、城はまだ落ちない。


 宗介の戦国での居場所は、その日、ひとつの味噌握りから始まった。


短編─了




反応を見て連載を検討します。


追記:


反応をいただけたため、本作をもとにした連載版を開始します。


連載版はこちらです。

https://ncode.syosetu.com/n7551me/

※公開前の場合、5月16日7時以降に閲覧できます。


連載版では、久住宗介と笠森城、片瀬弥四郎を軸に、兵糧・水・薪・米・味噌・荷駄・人足・段取りで戦国を生き抜く物語として広げていく予定です。


初回は5月16日7時、第2話は同日19時に投稿予定です。

しばらくは7時・19時の1日2話更新で進めます。


よろしければ、連載版も読んでいただけると嬉しいです。


追記:


新しい戦国転生短編を投稿しました。


『呂布の武と郭嘉の知を授かって戦国に転生した俺、信長の負け戦をひっくり返す』


https://ncode.syosetu.com/n4580mf/


本作とは少し違う、武と知で戦場をひっくり返す派手めの戦国転生ものです。

よろしければ、こちらも読んでいただけると嬉しいです。

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