戦国に転生した五十一歳、兵糧係から成り上がる 〜刀は振れないが、腹を満たせば兵は立つ〜
目を覚ますと、久住宗介は泥の匂いと煙の中にいた。
槍が転がり、冷えた粥が土にこぼれ、痩せた足軽が死人のような顔で座り込んでいる。
誰かが、かすれた声で呟いた。
「明日はもう、動けぬ」
宗介は、しばらく息をすることも忘れた。
何だ、ここは。
ついさっきまで、自分は高速道路のサービスエリアにいたはずだった。
五十一歳。
大型貨物を転がして三十年近く。
夜明け前の配送、雨の日の納品、倉庫の積み込み、伝票の確認、事故渋滞、眠気覚ましの苦い缶コーヒー。
そんなものに囲まれて生きてきた。
それがなぜ、泥の上に倒れている。
なぜ、目の前に鎧を着た男たちがいる。
なぜ、遠くで鬨の声のようなものが聞こえる。
「……夢か」
そう呟いた瞬間、頬に泥水が跳ねた。
冷たい。
臭い。
夢ではない。
宗介は身を起こそうとして、腰に鈍い痛みを覚えた。手を見る。皺のある、見慣れた手だった。若返ってはいない。強くもなっていない。
爪の間に泥が詰まり、手のひらには昔からの硬い皮がある。
五十一歳の身体のままだ。
ただ、着ているものだけが違った。
粗末な小袖。
縄で締めた腰。
足には草鞋。
腰に刀はない。
そばを、若い足軽がふらつきながら通った。
顔は青白い。
唇が乾いている。
手には槍を持っているが、握る力がない。
「おい、大丈夫か」
宗介が思わず声をかけると、若者は濁った目を向けた。
「水……」
「水か」
宗介は周囲を見た。
そこは小さな野営地らしかった。
雨に濡れた土。
崩れかけた簡単な竈。
黒く焦げた鍋。
積み方の悪い米俵。
蓋の開いた味噌樽。
踏まれて泥のついた干物。
湿った薪。
そして、使われぬまま横に転がる竹筒。
宗介の喉が、ひくりと鳴った。
怖い。
何もわからない。
ここがいつで、どこで、なぜ自分がいるのかもわからない。
だが、目の前の光景だけはわかった。
ひどい。
あまりにも、ひどい。
米がある。
味噌がある。
塩がある。
干物もある。
薪も、水場もある。
なのに、兵は腹を空かせて倒れかけている。
荷があるのに、荷になっていない。
食い物があるのに、食い物になっていない。
宗介の胸の奥で、長年染みついた何かが動いた。
配送センターの朝。
乱雑に置かれた荷。
宛先の違う箱。
濡らしてはいけない荷を雨ざらしにする新人。
冷凍品を常温の横に積もうとする危なっかしい手。
あの時と同じだ。
放っておけば、全部駄目になる。
「これでは、戦う前に倒れる」
宗介の声に、近くの男がぎろりと振り向いた。
無精髭を生やした兵糧方らしい男だった。
「何を抜かす。誰だ、貴様」
「俺は……」
宗介は言葉に詰まった。
自分でも誰なのかわからない。
久住宗介。
五十一歳。
大型貨物の運転手。
そんなことを言って通じるはずがない。
「……荷を運んでいた男だ」
「荷だと?」
「そうだ。荷の置き方が悪い。水の扱いも悪い。火も死んでる。米も味噌も、このままなら半分は捨てることになる」
「よそ者が偉そうに」
男が歩み寄ってくる。
殴られる。
宗介は身を固くした。
だが、その前に別の声が飛んだ。
「待て」
若い武者がいた。
兜は泥で汚れ、袖の端が破れている。
年は二十歳前後か。
顔には疲労が浮かんでいるが、目だけは死んでいない。
「そなた、名は」
「宗介です」
「姓は」
「……久住」
言ってから、しまったと思った。
この時代の名乗りとしておかしいかもしれない。
だが若武者は深く追及しなかった。
「俺は片瀬弥四郎。笠森城主、片瀬家の者だ」
知らない名だった。
少なくとも、宗介の乏しい歴史知識にはない。
架空なのか。
それとも、自分が知らないだけの小勢力なのか。
そんなことを考える余裕はなかった。
弥四郎は低い声で続けた。
「昨日、黒瀬川の渡しで負けた。城へ戻る途中だが、兵が動かぬ。敵の追手は明朝には来る」
周囲の足軽たちが、暗い顔で俯いた。
敗走。
その二文字が、宗介の背筋を冷たくした。
逃げている途中なのだ。
ここで動けなければ、追いつかれて終わる。
弥四郎が宗介を見た。
「そなた、兵を立たせられるか」
兵を立たせる。
そんな大それたことは言えない。
宗介は剣も知らない。
槍も振れない。
戦のことなど、何もわからない。
だが、腹を空かせた人間が動けないことは知っている。
水を飲まずに働く者が倒れることも知っている。
段取りの悪い現場が、どれほど早く崩れるかも知っている。
「約束はできません」
宗介は正直に言った。
「けど、このままよりはましにします」
弥四郎は少しだけ目を細めた。
「よし。兵糧方、こやつにやらせろ」
「若殿!」
「このままでは、どのみち動けぬ。ならば試す」
兵糧方の男は不満げだったが、弥四郎の命に逆らえなかった。
宗介は立ち上がった。
膝が震えている。
怖い。
今にも逃げ出したい。
けれど、足元に転がる米俵を見た瞬間、口が勝手に動いた。
「まず俵を全部動かす。濡れた地べたに直置きするな。下に枝を敷け。空気を通すんだ」
「枝?」
「何でもいい。折れた槍の柄でも、板でも、太い薪でもいい。とにかく地面から上げろ」
足軽たちはぽかんとしている。
宗介は手を叩いた。
「動ける者はこっちだ。俵を開ける。上だけ腐っているものと、中まで駄目なものを分ける。臭いを嗅げ。酸っぱいのは駄目だ。黒い黴は捨てろ。白く少し粉を吹いた程度なら、よく洗って粥に回す」
「米を捨てるのか!」
兵糧方が怒鳴った。
「全部食って腹を壊すよりましだ」
「米は命だぞ」
「だから分けるんだ。命にする米と、毒になる米を一緒にするな」
宗介は自分でも驚くほど強い声を出していた。
男が怯んだ。
宗介は次に味噌樽へ向かった。
蓋が開きっぱなしで、雨水が縁に溜まっている。
表面には汚れが浮いていた。
「表の汚れは削れ。中はまだ使える。味噌は濃いめにする。塩も足す」
「濃くしたら、喉が渇く」
「だから水を飲ませる。だが生水をがぶ飲みさせるな。腹を壊す。鍋で沸かせ。冷めるのを待てないなら、少しずつ飲ませろ」
水場を聞くと、野営地の脇を流れる細い沢だという。
宗介は眉をひそめた。
上流を見ていない水は危ない。
だが、今は贅沢を言っていられない。
「水汲みは上流からだ。泥を踏んだ下で汲むな。水を汲む者、火を見る者、米を見る者、握る者に分ける。全員が同じことをするな」
「握る?」
「味噌握りだ」
足軽の一人が顔を上げた。
「握り飯か」
「違う。飯だけじゃない。味噌を芯にして、塩を少し混ぜて、干物をほぐして入れる。冷めても食える。歩きながらでも食える。口に入れたら水が欲しくなるから、竹筒も一緒に持たせる」
宗介は言いながら、自分の中にある知識を引きずり出していた。
サービスエリアで食った塩むすび。
夏場の作業で倒れかけた同僚に飲ませた経口補水の薄い味。
長距離の途中で腹に入れた味噌汁。
雪道で立ち往生した時、温かい汁物がどれほど人を戻すか。
この時代の正解かどうかはわからない。
だが、人間の身体は、戦国でも現代でも大きくは変わらないはずだ。
腹が減れば動けない。
塩が足りなければ力が抜ける。
水が足りなければ頭が鈍る。
冷えれば心が折れる。
「薪は湿ってるな」
宗介は薪の山を見た。
火がつかないはずだ。
濡れた薪が地面に積まれ、上に布もかけられていない。
「乾いた芯を割り出せるか」
兵糧方の男が渋々うなずく。
「太い薪の中なら、少しは」
「割れ。外が濡れてても中は使える。細く割って火口にする。濡れた薪は火のそばに立てて乾かせ。全部突っ込むな、火が死ぬ」
宗介は石を動かして竈を作り直した。
風向きを見る。
煙が兵の方へ流れている。
これでは目が痛いし、咳も出る。
「竈はこっちだ。風下に煙を逃がす。鍋は三つ。ひとつは粥、ひとつは湯、ひとつは味噌汁。飯を炊く余裕はない。粥でいい。早く腹に入れろ」
「粥など力がつかぬ」
誰かが言った。
宗介は振り返る。
「今の連中に固い飯を詰め込んだら、吐く。まず温かいものを入れる。立てるようになったら味噌握りだ」
言ってから、少し言い方が強すぎたかと思った。
だが足軽たちは動き始めていた。
理由は簡単だ。
宗介の言葉が立派だったからではない。
やることが見えたからだ。
混乱した現場では、人は動けない。
何をすればいいかわからないからだ。
荷を右へ。
濡れた米はこっち。
使える米はあっち。
水汲みは二人一組。
薪割りは腕のある者。
握るのは女手がいれば早いが、今はいない。なら若い足軽を座らせてやらせる。
宗介は声を出し続けた。
「列を作れ。押すな。最初は倒れそうな者からだ」
「俺はまだいける」
「そう言うやつから倒れる。座れ」
「先に若殿へ」
「若殿は最後だ。動ける人間は後回し。倒れたら運ぶ手が余計に要る」
その言葉に、弥四郎がわずかに笑った。
「俺は最後でよい。言う通りにしろ」
若武者の一言で、兵たちは従った。
最初の鍋が煮えた。
薄い粥に、濃いめの味噌を溶く。
干物を炙り、ほぐして入れる。
美しい料理ではない。
器も欠けている。
だが湯気が立った瞬間、足軽たちの目が変わった。
「熱いぞ。ゆっくり飲め」
宗介は椀を渡した。
若い足軽が震える手で受け取り、口をつける。
一口。
また一口。
その喉が、ごくりと鳴った。
「……うまい」
誰かが泣きそうな声で言った。
その声が、野営地に広がった。
うまい。
温かい。
腹に入る。
足軽たちが椀を抱え、黙って粥をすすり始めた。
さっきまで死人のようだった顔に、ほんの少し赤みが戻る。
槍を手放していた男が、膝の上に置き直す。
座り込んでいた男が、背を伸ばす。
泣いている者もいた。
宗介はその光景を見て、胸の奥が詰まった。
戦など知らない。
勝ち方も知らない。
だが、食わせることはできる。
それだけは、自分にもできる。
「次、味噌握りを作る」
宗介は手を洗うよう命じた。
沢の水をそのままではなく、湯で洗わせる。
完璧な衛生など無理だ。
それでも、やらないよりはいい。
米は固めに炊ける分だけ炊いた。
残りは粥と干し飯に回す。
味噌にほぐした干物、塩少し。
手のひらに飯を広げ、味噌を包み、ぎゅっと握る。
大きくしすぎない。
歩きながら食べるなら、小さめがいい。
「一人に二つ。欲張るな。全員に回してからだ」
「二つで足りるか」
「足りない。だから粥も飲ませた。足りない分は歩きながら食う」
宗介は竹筒に湯冷ましを詰めさせた。
水を持たせる順番も決めた。
先頭、中央、最後尾。
重い荷は小分けにする。
俵のまま担がせるな。
弱った兵に大荷を背負わせれば、途中で捨てるだけだ。
米は袋に分け、背負える者へ配る。
味噌は小桶に分ける。
塩は濡らすな。
薪は持ちすぎるな。
城へ戻るまでに必要な分だけでいい。
宗介はまるで倉庫の積み替えをしているように、荷を組み直した。
ただし、ここではミスがそのまま死につながる。
肩に嫌な汗が流れる。
遠くで馬のいななきが聞こえた。
弥四郎が顔を上げる。
「物見か」
すぐに小者が走ってきた。
「若殿! 敵の先触れらしき影、東の尾根に!」
空気が凍った。
足軽たちの手が止まる。
宗介の心臓が跳ねた。
追手。
もう来たのか。
弥四郎は即座に立ち上がった。
「どれほどだ」
「騎馬が数騎。後ろに徒歩武者もいるやもしれませぬ」
夜明け前。
こちらは疲れきった敗残兵。
正面から戦えば、崩れる。
宗介は周囲を見た。
竈。
湯気。
煙。
まだ全部は片づいていない。
残った濡れ薪。
使えない米。
破れた筵。
足跡だらけの泥。
宗介の頭の中で、道路地図を見る時のように線がつながった。
敵は東の尾根。
こちらの城は西。
沢は北へ曲がっている。
煙は南へ流れている。
「若殿」
宗介は声を出した。
「何だ」
「ここに、まだ兵がいるように見せられませんか」
弥四郎の目が細くなる。
「囮か」
「はい。火は全部消さずに、濡れ薪をくべて煙を出す。鍋も一つ残す。破れた筵を立てて、人影に見せる。使えない米俵を積んで、荷が残っているようにする」
「その間に本隊を逃がすか」
「逃げるというより、動けるうちに退くんです。沢沿いなら足跡が消えやすい。水音で音も紛れる。腹に入れた今なら、まだ動ける」
兵糧方の男が目を剥いた。
「食ったばかりで動かすのか」
「座らせたままだと、体が冷えてまた動けなくなる。粥を入れた。味噌握りも持たせた。今しかない」
弥四郎は一瞬だけ考えた。
若いのに、判断は早かった。
「やる」
命が下ると、野営地が再び動き出した。
ただし今度は、先ほどより速い。
腹に温かいものが入ったからだ。
立ち上がった足軽の目に、さっきまでの濁りは少ない。
宗介は味噌握りを配りながら叫んだ。
「先頭は足の残ってる者。弱った者は真ん中。水を持つ者は散らばれ。最後尾に槍を持てる者を置く。荷を落としたら拾うな。人を落とすな」
「人を落とすな、か」
弥四郎が呟いた。
「荷はまた集められます。人は戻りません」
宗介はそう言ってから、少し息を呑んだ。
なぜそんな言葉が出たのか、自分でもわからなかった。
昔、高速道路で事故を見たことがある。
荷は散らばった。
商品は駄目になった。
だが、助かった運転手が泣いていた。
会社に損をさせたと。
その時、先輩が言ったのだ。
荷はまた積める。人は替えが利かん。
その言葉を、今、自分が戦国の泥の中で口にしている。
不思議だった。
だが、間違いではないと思った。
撤収は静かに始まった。
残した竈には濡れ薪をくべた。
煙が太く上がる。
破れた筵を槍にかけ、揺れる人影のように並べる。
鍋には湯だけを残し、遠目には煮炊きが続いているように見せた。
使えない米俵をわざと見える場所に積む。
敵は、まだ兵がいると思うだろう。
少なくとも、すぐには本隊が抜けたと気づかないはずだ。
宗介は最後に野営地を振り返った。
そこには、さっきまで自分たちがいた場所があった。
泥と煙と、冷えた恐怖の場所。
だが今、兵たちはそこから歩き出している。
「宗介」
弥四郎が呼んだ。
「はい」
「そなたも真ん中へ入れ。戦えぬ者は守る」
「俺は荷を見ます」
「戦えぬ者が後ろに残るな。荷を見るなら、歩きながら見ろ」
正論だった。
宗介は頷き、隊列の中央に入った。
沢沿いの道は悪かった。
足元はぬかるみ、草鞋は水を吸う。
槍を杖のようにつく者もいる。
それでも、兵たちは歩いた。
味噌握りをかじり、水を少し飲み、また歩く。
誰かが倒れそうになると、隣の者が支えた。
先ほどまで互いに口を利く気力もなかった兵たちが、今は小さく声をかけ合っている。
「もう少しだ」
「握り、半分残せ」
「水を一気に飲むなとよ」
「宗介殿が怒るぞ」
宗介殿。
そう呼ばれて、宗介は妙な気持ちになった。
ただの運転手だった。
会社では「久住さん」。
若い者からは「久住のおっちゃん」と呼ばれることもあった。
この世界では、まだ自分が何者なのかわからない。
だが少なくとも今、彼らにとって自分は、味噌握りを作らせた男らしい。
沢が曲がるあたりで、後方から叫び声が聞こえた。
敵だ。
遠い。
まだ遠い。
だが、野営地に入ったらしい騒ぎだった。
こちらには来ていない。
煙の囮に引っかかったのだ。
弥四郎が低く言った。
「急がせるな。走れば崩れる。歩幅を合わせろ」
宗介はその判断に感心した。
若武者は若いが、兵を見ている。
焦って走らせれば、弱った者から倒れる。
倒れた者を助ければ列が乱れる。
列が乱れれば、追いつかれる。
歩く。
ただし止まらない。
それが一番早いこともある。
山の端が白み始めた頃、隊は古い木橋へたどり着いた。
橋の向こうには、笠森城へ続く道があるという。
しかし橋は細く、傷んでいた。
一度に多くは渡れない。
後方の敵も、そろそろ囮に気づく頃だ。
宗介は橋と荷を見た。
湿った米。
味噌桶。
水。
槍。
怪我人。
何を先に渡すかで、また詰まる。
「一列にするな」
宗介は思わず言った。
弥四郎が振り向く。
「どうする」
「渡る順番を決めます。まず怪我人と支える者。次に槍を持てる者。荷は小分けにして手渡し。橋の上で止まるな。向こう側に二人置いて受け取らせる。こっち側に二人置いて送り出す」
「荷を手渡す?」
「俵を背負って橋で転ぶより早いです」
配送センターのバケツリレー。
重い荷を無理に一人で持つより、人を置いて流した方が早い時がある。
宗介はそれを橋でやった。
怪我人を渡す。
槍を渡す。
小袋に分けた米を渡す。
味噌桶は二人で抱える。
竹筒の水は最後にまとめるな。散らして渡す。
足軽たちは疲れていたが、指示が短ければ動けた。
橋の上で止まる者はいない。
詰まりが減る。
列が流れる。
最後尾に近づいた時、後方の木々の間から敵影が見えた。
弥四郎が槍を取る。
「宗介、先に渡れ」
「若殿は」
「俺は最後だ」
宗介は言い返しかけて、やめた。
この時代、この立場で、若武者が最後に残る意味は大きい。
宗介が口を出すことではない。
だが、ただ見ていることもできなかった。
「橋を渡ったら、縄を切れますか」
弥四郎が目を向ける。
「切れば敵もすぐには渡れぬな」
「はい。ただ、こちらの荷も戻れません」
「戻る気はない」
弥四郎は短く笑った。
宗介は渡った。
最後に弥四郎と数人の槍持ちが橋を越える。
敵の先頭が叫んだ。
矢が一本、橋の板に刺さる。
「縄を切れ!」
弥四郎の声。
足軽が鉈を振るう。
一度。
二度。
三度。
古い縄が切れ、橋が大きく傾いた。
敵兵が足を止める。
こちらの兵たちが、思わず歓声を上げそうになった。
「声を出すな!」
宗介が叫んだ。
「まだ逃げてる途中だ!」
足軽たちははっと口を閉じた。
だが、その顔には先ほどまでなかったものが浮かんでいた。
生きられるかもしれない。
城へ戻れるかもしれない。
その気配だった。
昼前。
笠森城の外郭が見えた。
小さな山城だった。
立派とは言えない。
だが、門の前に立つ兵たちが、戻ってきた一隊を見て声を上げた。
「若殿だ!」
「戻られたぞ!」
城内へ入ると、足軽たちはその場に座り込んだ。
倒れたのではない。
座ることができたのだ。
城の者たちが水と湯を運んでくる。
宗介はそれを見て、また口を出しそうになった。
水を一気に飲ませるな。
怪我人からだ。
火を絶やすな。
だが、その前に膝の力が抜けた。
自分も限界だったらしい。
座り込むと、腰が悲鳴を上げた。
「五十一の身体で山道はきついな……」
思わず現代の感覚で呟いた。
誰にも聞こえなかったようで、ほっとする。
その時、影が差した。
見上げると、弥四郎が立っていた。
泥まみれの顔。
疲れ切った目。
それでも背筋は伸びている。
「宗介」
「はい」
「そなた、何者だ」
来た。
宗介は困った。
まさか、未来から来た大型貨物の運転手です、とは言えない。
言ったところで、狂人だと思われるだけだ。
だから、あの時と同じ答えを返した。
「ただの、荷を運んでいた男です」
弥四郎は黙って宗介を見た。
それから、周囲へ目を向けた。
味噌握りをかじりながら笑う足軽。
湯をすすって息をつく若者。
濡れた米を広げて乾かす兵糧方。
運び込まれた味噌桶を守る小者。
皆、まだ疲れている。
だが、死んだ目ではない。
弥四郎が静かに言った。
「荷を運ぶ男が、兵を立たせたか」
宗介は返す言葉がなかった。
弥四郎はさらに続けた。
「刀を振る者は多い。槍を構える者も多い。だが、腹の減った兵に飯を食わせ、濡れた薪から火を起こし、敗れた兵を歩かせる者は少ない」
「俺は、戦のことは何もわかりません」
「なら、飯のことをわかれ」
弥四郎は少しだけ笑った。
「今日より、そなたを兵糧方に置く。嫌とは言わせぬ」
「俺が、ですか」
「不服か」
「いえ。ただ……本当に、それでいいのかと」
「よい。そなたがいなければ、俺たちは沢の手前で死んでいた」
その言葉は、宗介の胸に重く落ちた。
恐怖が消えたわけではない。
ここがどこかも、なぜ来たのかもわからない。
明日には戦があるかもしれない。
自分は刀を振れない。
馬にも乗れない。
武士の作法も知らない。
けれど。
米を濡らさぬ置き方は知っている。
人を倒さぬ休ませ方は知っている。
荷を流す段取りは知っている。
腹が満ちた時、人の目が変わることも知っている。
それだけで、生きる場所になるのだろうか。
城の庭では、さっそく兵糧方の男が怒鳴っていた。
「おい、俵を地べたに置くな! 枝を敷け、枝を!」
宗介は思わず笑った。
さっきまで自分に噛みついていた男が、同じことを言っている。
その声を聞いた足軽が、手早く枝を集め始めた。
流れができる。
人が動く。
荷が活きる。
それを見るだけで、宗介の身体はまた勝手に立ち上がった。
「水場はどこですか」
宗介が聞くと、弥四郎は目を丸くした。
「休まぬのか」
「休みます。その前に、水の場所だけ見ます」
「変わった男だ」
「よく言われました」
誰に、とは言わなかった。
もう戻れないかもしれない場所のことを思うと、胸が少し痛んだ。
だが、目の前には城がある。
兵がいる。
米がある。
味噌がある。
水と火と、腹を空かせた人間がいる。
宗介は空を見上げた。
戦国の空は、現代と変わらず青かった。
泥と煙と味噌の匂いの中で、五十一歳の流れ者は小さく息を吐く。
剣豪にはなれない。
軍師にもなれない。
だが、荷を運んできた男には、荷を活かすことができる。
腹を満たせば、兵は立つ。
兵が立てば、城はまだ落ちない。
宗介の戦国での居場所は、その日、ひとつの味噌握りから始まった。
短編─了
反応を見て連載を検討します。
追記:
反応をいただけたため、本作をもとにした連載版を開始します。
連載版はこちらです。
https://ncode.syosetu.com/n7551me/
※公開前の場合、5月16日7時以降に閲覧できます。
連載版では、久住宗介と笠森城、片瀬弥四郎を軸に、兵糧・水・薪・米・味噌・荷駄・人足・段取りで戦国を生き抜く物語として広げていく予定です。
初回は5月16日7時、第2話は同日19時に投稿予定です。
しばらくは7時・19時の1日2話更新で進めます。
よろしければ、連載版も読んでいただけると嬉しいです。
追記:
新しい戦国転生短編を投稿しました。
『呂布の武と郭嘉の知を授かって戦国に転生した俺、信長の負け戦をひっくり返す』
https://ncode.syosetu.com/n4580mf/
本作とは少し違う、武と知で戦場をひっくり返す派手めの戦国転生ものです。
よろしければ、こちらも読んでいただけると嬉しいです。




