第1話 腐敗する宝物庫と、香木の匂い
王宮の裏門が重々しい音を立てて閉ざされたのは、つい先ほどのこくだった。
乾いた晩秋の風が、私の足元を吹き抜けていく。石畳の上をカサカサと転がる枯れ葉の音だけが、やけに耳についた。
手元にあるのは、使い込まれた革の鞄ひとつと、腰に巻いた道具帯だけ。
この国の物流を一手に担う「王宮魔導具管理室」の筆頭管理官。それが、つい十分前までの私の肩書きだった。
けれど今は、ただのマリー・ローエンだ。
横領の濡れ衣を着せられ、婚約破棄され、着の身着のままで放り出された、無一文の元令嬢。
「……まずは、宿を探さないと」
独り言が、白い息となって消える。
不思議と涙は出なかった。むしろ、肩の荷が下りたような軽やかささえある。
あの職場は酷かった。国宝級の魔導具を「ただの古道具」と蔑む王子や、メンテナンスもせずに使い潰す騎士たち。彼らが散らかした後始末に追われる日々より、この冷たい風の方がずっと清々しい。
私は愛用の革鞄を抱き直した。中に入っているのは、真鍮製のメジャー、布切りハサミ、そして最高級の革ブラシ。これさえあれば、私はどこでだって生きていける。
王都のメインストリートへ向かって歩き出した、その時だった。
大通りの一角に人だかりができている。それも、ただならぬ雰囲気だ。人々は口元を布で覆い、遠巻きに何かを眺めている。
「うっ、なんだこの臭いは……」
「近寄るな、呪いが伝染るぞ!」
「ありゃ『英雄』ディランじゃないか? 王宮の魔導師様たちも匙を投げたって噂だぜ」
英雄ディラン。
その名は私も知っていた。単独でドラゴンすら屠るSランク冒険者。けれど、最近は姿を見せないと思っていたら。
人垣の隙間から見えたのは、石畳にうずくまる巨躯の男だった。黒塗りの鎧に、熊のような体格。しかしその顔色は土気色で、荒い呼吸を繰り返している。
そして、風に乗って漂ってきた「それ」を嗅いだ瞬間、私は思わず眉をひそめた。
鼻を突く、酸っぱいような、それでいて甘ったるい腐敗臭。
周囲の人々は「死臭だ」「呪いだ」と騒いでいるけれど、これは違う。
私は群衆をかき分け、その中心へと踏み込んだ。
「……おい、嬢ちゃん。近寄るな」
男が、苦しげに顔を上げる。鋭い蒼眼が私を射抜こうとしたが、焦点が定まっていない。
私は構わず、彼の目の前で膝をついた。近くで見ると、臭いはより強烈だった。彼の背負っている「空間」が歪んで見えるほどだ。
「呪いなんかじゃありません」
私は腰のポーチから、小さな木片を取り出した。
「ただの『整理不足』です。収納魔法の中で、物が腐っています」
「……あ?」
「魔力酔いですね。中の魔素がデタラメに混ざり合って、毒ガスが発生しています。このままだと、貴方ご自身の魔力回路も焼き切れますよ」
男が目を見開く。
私は木片――「シズリ」という香木に、携帯用の火口箱で火をつけた。
シュッ、という擦過音と共に、細い煙が立ち上る。清涼感のある、針葉樹の森のような香りが、あたりの悪臭を切り裂いていく。
私はその煙を、男の周囲に見えない靄として漂っている「収納魔法の入り口」へと手扇ぎで送った。
「失礼します。少しの間、入り口を開放したままにしてください」
「な、何を……」
「掃除です」
私は躊躇なく、彼の「亜空間」へと手を突っ込んだ。
収納魔法の中身は、本来なら本人にしか取り出せない。けれど、このように魔力が暴走して入り口が緩んでいる状態なら、物理的に干渉できる。
指先に触れたのは、ドロドロとした粘液と、高熱を発する硬い石。
――やっぱり。
私は帯から「魔封じの布」を取り出すと、手探りでその「熱源」を包み込み、一気に引き抜いた。
ボトッ、という重い音と共に石畳に転がり出たのは、二つの物体だった。
一つは、赤く脈打つ「火竜の心臓石」。
もう一つは、無残に溶け崩れた「氷狼の毛皮」。
「火属性の魔石と、氷属性の素材を密着させて収納していましたね? 魔力の反発で高熱が発生し、他の有機物を腐らせてガスを出していたんです」
広場に静寂が落ちた。
腐敗臭は、香木の煙に中和され、急速に薄れていく。
苦しげだった男の呼吸が、嘘のように整い始めていた。
「……王宮の連中は、俺の魔力が強すぎて内側から呪われていると言ったんだが」
ディランと呼ばれた男が、呆然と私を見上げている。
私はハンカチで指の汚れを拭いながら、淡々と答えた。
「魔力が強い方ほど、収納の中身は影響を受けやすいんです。強力な魔導師様ほど、物理的な整理整頓を軽視なさいますから」
それは、つい先ほどまで私が仕えていた第2王子への皮肉でもあった。
不治の呪いだと騒ぎ立てた王宮魔導師たちの顔が見ものだ。これはただ、靴下の片方を洗濯機の中で探すのと同じくらい、ありふれたミスなのだから。
ディランは、地面に転がったドロドロの毛皮を見て、痛ましげに顔を歪めた。
「……すまねぇ。大事な戦利品だったんだが」
「供養してあげてください。道具も素材も、詰め込まれたまま忘れられるのが一番辛いですから」
私が香木の火を消して立ち上がると、風向きが変わった。
空気が澄んでいる。広場の人々も、呪いではないと分かって安堵の表情を浮かべていた。
行こう。今日はもう日が暮れる。安い宿でも見つけなければ。
そう思って背を向けた時、背後で重い音がした。
振り返ると、あの巨躯の男が、石畳に膝をついて頭を下げていた。
英雄と呼ばれる男が、無名の、しかも薄汚れた平民のような私に対して。
「あんた、名前は」
「……マリーです。ただの、通りすがりの」
「マリー。頼む」
彼が顔を上げる。その蒼い瞳には、先ほどまでの濁りはなく、強い光が宿っていた。
まるで、稀少な宝石を見つけた時のような、熱っぽい視線。
「俺の荷物を、管理してくれねぇか。言い値でいい。あんたが必要だ」
その言葉は、追放されたばかりの私の胸に、思いがけず深く刺さった。
必要とされること。
それは、私が一番欲しくて、一番手に入らなかったものだ。
「……私の管理費は高いですよ?」
「構わん。命より高いもんはねぇ」
男は不器用に笑うと、大きな手を差し出してきた。
その手の平は剣ダコだらけで無骨だったけれど、不思議と温かそうだった。
私はため息をひとつついて、自分の革鞄を握り直す。
どうやら、今夜の宿を探す手間は省けたようだった。




