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戦場のコンチェルト

作者: shidou

『戦場のコンチェルト』



砲声が、遠くで鳴った。


有刺鉄線の向こう、崩れかけた塹壕の上に、男が立っていた。 フロックコートに山高帽。泥にまみれず、血にも濡れない。


彼のそばには、女がいた。 白い手袋の指先で、古風なチェンバロの鍵盤を撫でていた。 風が吹き抜けるたび、彼女の髪も衣も、青白く揺らめいた。


不意に、音が聞こえた。 それはヴァイオリンではなく、砲声だった。 それはチェンバロではなく、機銃の掃射だった。 響く旋律は、人の叫びであり、断末魔であり、肉が裂ける音だった。


だが確かに、それは音楽だった。


男の弓が、死体の山の上で滑る。 女の手が、空爆の煙の中で踊る。


音が重なる。 その音に引き寄せられるように、多くの兵士が突撃していく。 ゆっくりと、ひとつの映像のように、彼らは進む。


いつしか、男と女の姿に、兵士たちの姿が重なっていた。


そしてそれきり、彼らの姿は霧の中へと溶けていった。


『沈黙の楽隊』


砲声はまだ遠くにあった。

けれど兵たちは、それがすぐ近くまで迫っていることを知っていた。土をえぐる音、空気がひび割れる音、命の終わる音は、やがてすべての距離をゼロにする。


司令部に二人の旅人が現れたのは、そんなある日の夕暮れだった。


男は黒の長いコートに身を包み、背にはヴァイオリンケースを背負っていた。

女は静かにピアノの前に座った。彼女の楽器は輸送トラックで共に運ばれたものらしく、砲撃の傷跡のようなひびが、木製の蓋にうっすらと走っていた。


「……芸人か?」

最前線を任された大尉が眉をひそめる。だが彼らの背後には、軍高官の署名入りの命令書があった。

“あらゆる手段を用いて士気を維持せよ”。

誰が、どこで、なぜこの二人を選んだのか、誰にもわからない。


やがて夜が訪れた。月は雲の背に隠れ、光も音も、希望も失われかけていたその時、前線の小さな広場に一つの音が響いた。


ヴァイオリンだった。


男の弓がひとたび弦を震わせると、空気の密度が変わった。

それは凍りついた兵士たちの心臓に火を灯すような、あるいは戦火を忘れさせる夢のような旋律だった。


続けて、ピアノが応えた。

女の指が鍵盤に触れるたび、砲弾の爆音が音楽の中に溶けて消えていく。

どこからか風が吹いた。血と硝煙に満ちた空が、ほんの一瞬だけ青空に戻ったようだった。


音楽は、戦場を支配した。


兵士たちは武器を置いた。

敵の狙撃兵も、砲撃も、その瞬間だけは沈黙していた。

両軍の境界に立ち尽くす男と女の姿は、敵味方を超えて誰もが目を奪われた。


だがその演奏は、夜明けとともに終わりを告げた。


二人は何も言わず、楽器を携えてまた歩き出す。

名前も、出自も、行き先も、誰も知らない。

ただ兵たちは知っていた。


あの夜、自分たちは救われたのだと。

命ではなく、心が。


「何者だったんだ……?」


誰かが呟いたその問いに、誰も答えは持たなかった。

ただ、その後も語り継がれるだけだった――


“かつてこの戦場に、音楽が降りた夜があった” と。


第一章:黒い馬車が来る


雨は夜半に雪へと変わり、戦場の泥を白く塗りつぶしていた。

霧と硝煙が視界を閉ざし、誰もが耳を塞ぎたくなるような砲声が、また一つ丘の向こうで咆哮を上げる。


その時だった。

丘の向こうから、蹄の音が響いた。


「……馬車だ?」

前線の観測兵が双眼鏡を上げた。爆撃の届くこの最前線に、まさか馬車など来るはずがない。


だが馬車は確かに現れた。

それはまるで過去の亡霊のように静かに、白銀の靄を割って進んでくる。黒革張りのその馬車には、軍の紋章も国旗もない。ただ音もなく、ただ確かに、ここに現れるべきではない何かのようにそこにいた。


馬車から降り立ったのは、黒いコートの男と、深緋のドレスをまとった女。

男は背にヴァイオリンを、女は兵士たちの手によって馬車から降ろされた黒檀のアップライトピアノの前に静かに立つ。


その姿を見て、兵士の一人が呟いた。

「……魔術師だ」

別の兵士は言った。

「いや、悪魔だ。きっと何かと契約してる……あんな爆撃の中に来るなんて、まともじゃない」


彼らが何者なのかを知る者はいない。

だが、上からの命令書にはこうあった。


> “即座に受け入れ、演奏環境を整えよ。彼らは戦術的介入手段である。敬意と沈黙をもって迎えよ”




音楽で戦場を変える?

笑い話だと思った。

だが、数時間後、その笑いは凍りつく。


指揮官が渡したのは、依頼主からの要求書だった。

そこにはこう記されていた。


> 「敵兵の心を乱す“不協”を。神経を削り、精神を蝕む旋律を所望する」




男がヴァイオリンを構える。女が鍵盤に指を添える。

そして――音が始まった。


それは音楽ではなかった。

戦場の空気そのものが軋み、金属が軋み、地鳴りが響いた。

不安、焦燥、恐怖。形なきそれらが、音の中で音に姿を変えていく。まるで戦場そのものが怨嗟を叫ぶように。


数時間後、敵軍は混乱に陥り、退却した。

死者よりも狂気に飲まれた兵が多かった。


男と女は演奏を止めると、静かに馬車に乗った。

何も言わず、命令書の指揮官にだけうなずいて、またどこかへと去っていった。


その夜、兵士の間にこう囁かれるようになる。

「黒い馬車が来ると、世界が変わる」と。



序章:証言録より


> ――第十三戦線/砲兵中隊兵卒 ヤコブ・フルストの証言(生存者)




あれが、夢じゃなかったと今でも思えないんです。

正気のまま生き残った者なんて、数えるほどしかいませんし……みんな、どこかで壊れた。

私? 私は、たぶんまだ壊れきれてないだけなんです。


あの夜、ちょうど補給も遅れてて、食料も弾薬も底をついてました。

敵の飛行船が上空を旋回してて、夜襲も警戒してた。そんな時、斥候が叫んだんです。


「馬車が来るぞ!」


最初は冗談かと思った。けど本当に……

白い霧の中から、黒い馬車が現れて。戦場に、馬で来るやつがいるか? 普通。


そして、降り立ったのが……あの二人です。


ヴァイオリンを背負った男と、ピアノに手を置いた女。

機銃掃射が頭上をかすめても、二人は顔ひとつ変えずにそこに立っていた。


演奏が始まったのは、日が完全に落ちてからでした。

最初の音で、空気が……変わったんです。凍ったような、張りつめたような。

それから、弦の悲鳴が轟いた。女の鍵盤は、地面の鼓動のように重く響いてきて――


我々は皆、武器を落としました。

笑い出すやつもいたし、泣き始めるやつもいました。

中には、空に向かって踊りだすやつも。


そして敵が攻めてきた。でも、敵兵も同じでした。

みんな、音を聴いて、動けなくなってた。何かが、精神に、ねじ込まれてくるようで……。


結局、戦闘は起きなかった。誰も、撃たなかった。

いや、撃てなかったんだ。


朝になったときには、馬車は消えてました。

泥の上に、車輪の跡だけを残して。


あれは魔術だと思った。

でも、あの男の目を見た時……あれは“人間”の目だった。

壊れる寸前の、人間の目。



序章:戦後調査報告序文(著者の語り)


> ――本書は、第三次大陸戦争終結後、陸軍記録局が非公式に保管していた証言資料の抜粋に基づいて構成されている。


記録の焦点は、戦中に各戦線で目撃された「音楽を用いた介入行為」、および「黒い馬車と二人組の演奏者」に関するものである。


これらの現象は一部では“魔術的干渉”とされ、軍上層部の中にも公的調査を求める声があったが、終戦とともに立ち消えとなった。


私、ヴィルヘルム・カステン(元中央記録局所属)は、退役後も私的にその調査を続けてきた。 これは戦争の闇に紛れて消えた、名もなき音楽家たちの記録であり、人類最後の“魔術”の記憶でもある。


真実を信じるかどうかは、読者諸氏に委ねる。





---


証言1:敵軍捕虜 フランソワ・デュランの供述(尋問記録より)


> 日時:第十二月第一週、中央戦線ラ・マーレ高地付近

状況:戦闘後捕虜となった敵兵士に対する尋問

被供述者:フランソワ・デュラン(第27独立猟兵大隊)




……見たんだ、本当に。

我々が前進しようとしていた時だった。前方の森から何かが現れた。


黒い馬車が、一頭の馬に引かれて――まるで、戦争のことなんて無関係だと言わんばかりに、悠然と現れた。


最初は幽霊かと思ったよ。誰かが錯乱してるのかと。けれど双眼鏡で見ても確かだった。

男がヴァイオリンを構えて、女がピアノに向かっていた。


そして、演奏が始まった。

その瞬間、隊長が倒れた。砲弾も銃弾も飛んでないのに、頭を抱えて絶叫して……

次々と兵士が、笑ったり泣いたりし始めた。


音楽だった。けれど……音楽じゃなかった。

あれは、心に直接手を突っ込んでくる何かだった。

人間の理性と感情を、楽器の弓と鍵盤で引き裂くような――そう、魔術だったんだ。


我々は崩れた。何の抵抗もできなかった。

誰かが言った。「悪魔だ」と。

でも私は違うと思う。あれは“終わり”の象徴だ。

この世界の、戦争の、時代の“終わり”が、音になってやってきたんだ。



---


証言2:野戦病院看護師 ユリヤ・ノヴァクの回想(終戦後の手記より)


> 出典:個人日記(発見当時未公開)、ユリヤ・ノヴァク(西部前線第七野戦病院所属)




あの夜、野戦病院には運び込まれた兵士があふれていた。

誰もが喋らず、呻き声すら出せなかった。あまりに痛みが深くて、感情すら凍ってしまっていた。


そこに来たの。

馬車で。

黒い、まるで葬送のような静けさで。


「何者ですか」と問いかけた私に、誰も答えなかった。ただその女性は、淡い微笑を浮かべてピアノの前に腰を下ろした。


演奏は、とても静かだった。

痛みの中に落ちた私たちの魂を、誰よりも丁寧に拾い上げていくような音だった。

その横で、男のヴァイオリンが静かに響いた。

まるで、血の中に祈りを注ぐようだった。


泣き出す兵士もいた。

眠りにつく兵士もいた。

目を開けていながら、もう戻ってこられないと思っていた者たちが、その音で少しだけ、現実に触れ直した。


翌朝、彼らは去っていた。

馬車の轍と、鍵盤の上に落ちた一枚の花びらだけが残っていた。


私は思うの。

あの二人は、癒しでもなければ救いでもない。

彼らはただ、終わっていくものすべてに“音”という形で手を触れていただけ。


それはきっと、魔術じゃなくて――優しさの最期のかたちだったのよ。


証言録 第十四節


> ――野営補給兵 オスカー・リーヴスの証言




あの二人に食事を届けろ、と命令された時は驚きました。

自分はただの炊き出し班で、銃も訓練でしか握ったことがない。なのに、指定された場所は最前線の地図にすらない丘の上でした。


丘の麓までいくと、黒い馬車が見えました。

そして……楽器。

背中にヴァイオリンを背負った男と、木箱のようなカバーを外して鍵盤を確かめている女。


声はかけられなかった。というより、かけようという気持ちが起きなかった。


私は静かに缶詰とパンと水を置いて、後ずさるように下がりました。

けれど、立ち去るとき……ピアノの音が一つ鳴りました。


ほんの短い、調律のような一音。

でも、それだけで胸の奥が震えた。あんなに澄んで、まっすぐな音は聞いたことがなかった。


彼らが何者か?

それは分かりません。ただ、ひとつ思ったのは――


あの人たちは、別の時間を生きている…

戦争も、軍も、私たちとは別の時間を。



---


証言録 第十五節


> ――第32歩兵師団所属 一等兵数名による聴取記録(合同報告)




我々が塹壕を抜けて前進していたときです。

砲声が止んだ、ほんの短い時間でした。


遠くから、音楽が聞こえてきたんです。

最初は誰かが口笛でも吹いているのかと思った。

でも、まるで空気が音に染まっているみたいに――身体の中にまで響いてくる。


ヴァイオリンでした。

長く、悲しく、それでもなぜか安らぎを含んだ旋律でした。


そして、それに寄り添うようなピアノの低音。

鐘のような、あるいは鼓動のようなリズムで……

あれは、たぶん「進軍」だった。けれど、武器を持たない進軍。

どこか遠くへ歩いていく夢の行進曲のようだった。


誰かが言いました。

「なんだか、少しだけ……怖くない」って。


私たちは死を覚悟していました。でも、その音の中では――

死さえ、ただの通過点みたいに思えた。

怖いけど、もう抗えない、でも逃げようとは思わない、そんな気持ち。


あの音が「洗脳」だったとは思いません。

むしろ、死に向かう私たちの魂を少しだけ柔らかく包んでくれたんだと思います。



---


証言録 第十六節


> ――第32歩兵師団生還者 アルノ・ブレックの手記より




仲間のほとんどが死んだ。

焼けて、潰されて、砕けた。


私は生き延びた。それが正しかったのかは分からない。


あの丘の演奏……

あの曲が、俺たちに何をしたのか、ずっと考えてる。


慰めだったのか。

死にゆく者への賛歌だったのか。

それとも、麻酔だったのか――苦しみを鈍らせるための。


ひとつだけ言える。

あの音を聴いてから俺たちは、死ぬことを「選べる」と思った。


人が自分の死に方を選べるなんて、おかしいだろう。

でもあの時、誰もが、覚悟していた。

恐怖ではなく、納得の中で。


魔術? いいや。

あれは人間の音だった。

だけど、あまりに深く、あまりに澄んでいて、だから俺たちは「魔術」と呼ぶしかなかった。


今でも時々、耳鳴りのようにあの旋律が戻ってくる。


死者たちが、今もあの行進曲の続きを歩いているような気がするんだ。



証言録 第十七節


> ――第47予備歩兵大隊所属 一等兵 カルロ・メッツァの証言(非公式供述/終戦後の酒場にて)




あの夜のことを話せって?

話したら、たぶんあんたも眠れなくなるぜ。

……でもまあ、誰かが記録しとくのも悪くない。


突撃前の晩だった。

俺たちは塹壕の中で、足の踏み場もないくらいに詰め込まれてた。

地面は泥だらけで、風も通らない。

ひとり、またひとりと、誰かが吐き始める。俺もそうだった。

怖くて、震えが止まらなくて、胃がねじれたみたいになってさ。

誰もが同じだったと思うよ。

突撃命令は翌朝。全員が自分の命の終わりを待ってた。


そのときだった。

どこからともなく、音が聞こえた。


最初は誰かの口笛かと思った。

でも違った。遠くから、風に乗って届いたんだ――ヴァイオリンと、ピアノの音が。


それはまるで、遠い国のどこかで鳴っているみたいだった。

あったかいようで、寒い。懐かしいようで、聞いたことがない。


……でもな、不思議と落ち着いたんだ。

吐き気も止まった。

死ぬのが怖くなくなったんだ。


仲間も、顔つきが変わった。

何人かは泣いてたけど、誰も取り乱してなかった。

一人が言ったんだ。「俺たちは、あの曲の中に向かって突撃するんだ」って。


で、翌朝、突撃した。

何人が死んだと思う?


八割以上さ。

俺はたまたま、砲撃で吹き飛ばされた拍子に敵の死体の下に転がって、生き残っただけだ。


それから何年も、あの夜のことを思い出してる。

あの音楽が俺たちを助けたのか、それとも――


怖さを忘れさせることで、死を簡単にしただけなんじゃないかって。


突撃前にみんなが怯えていたら、あるいは誰かが命令を無視して逃げ出していたら、もう少し生き延びた奴もいたかもしれない。


……でもな、これは恨みじゃないんだ。

むしろ、感謝に近い。

あの時、俺たちは“平らかに”死ににいけた。

地獄に向かう足取りが、少しだけ軽くなったんだ。


けど……あれは音楽だったのか? 本当に?


もう一度だけ、あの旋律を聴いてみたい。

それでやっと、俺の中の戦争が終わるような気がするんだよ。


記録補遺:ヴィルヘルム・カステンによる中間報告(調査ノートより抜粋)


> 本調査において、これまでに入手した43名の証言のうち、16名が同一の戦場・同一日・同一時刻に「演奏を聴いた」と主張している。


特筆すべきは、彼らが記憶している“旋律”の内容が、いずれも一致しないという点である。


ある者は「子守唄のようだった」と語り、またある者は「結婚式の行進曲だった」と述べる。

複数人が「葬送行進曲」と答えているが、音階や拍の取り方は互いに矛盾している。

驚くべきは、ある捕虜が「シューベルトの“死と乙女”だった」と証言し、同じ場にいた兵士が「チャイコフスキーの“くるみ割り人形”を聴いた」と語っている点である。

それらのどれも、実際には演奏されていなかった可能性が高い。


さらに、当時戦場に録音機器は存在せず、どの戦線でも正式な音楽活動は記録されていない。


私が考えるに――彼らが聴いたのは「音」ではなく、自分の心に語りかけてくる“記憶”あるいは“映像”のようなものだったのではないか。

音楽という媒体を通じて、彼ら自身の感情や記憶が“再生された”可能性がある。


つまりあの演奏は、**聴く者の心そのものを楽器とした“反響現象”**であったと考えられる。




> この現象が意図的なものだったのか、それとも副作用的な魔術なのかは判別不能。

だが、彼ら二人が奏でた旋律は――


「音楽のかたちをした記憶」であり、恐怖や死に最も近い場所でのみ再生された幻影なのではないかと、私は思う。



証言録 第十八節


> ――第12近衛軍楽隊所属 上等兵 フリッツ・エーダーの証言(戦後提出音響報告草案より)




俺は軍楽隊の人間だ。

専門はトランペット、他にもホルンやチューバも扱う。

この戦争の最中も、祝典や葬儀や式典の演奏を散々やってきた。

だから「音」がどう響くか、どこまで届くか、何の楽器がどんな効果を持つか、熟知しているつもりだ。


――だからこそ、言っておく。

あの日あの時、あれは絶対にありえない現象だった。


場所は第三戦線、ゼルベルト平原。

広大な丘陵地帯に砲兵と歩兵が散開していて、俺たち軍楽隊は本来そこに配置されるべきではなかった。

けど、補給部隊に楽器を混ぜて運ぶ命令があって、俺は偶然そこにいたんだ。


そのとき聞こえてきたんだ。

ヴァイオリンとピアノの音が。


最初に言っておく。

管楽器じゃない音が、あれだけの空間に広がるなんて物理的に不可能だ。


ピアノは空気に拡がらない。ヴァイオリンの高音も数十メートル先では消える。

実戦経験のある音楽家なら誰だってわかる。

だけど、その日そのとき、どの方向からも音が聞こえてきたんだ。


風が吹いていようが、銃声が上がっていようが関係なかった。

音が空気に運ばれるんじゃない。まるで頭の内側に直接響いてくる感じだった。


それも、ただの音じゃない。

聴いたことのない旋律だった。既存の軍歌でも、クラシックの引用でもない。

だけど、どこか懐かしい。耳に覚えはないのに、心が反応する。


俺は譜面に起こそうとした。けど、書き出そうとした瞬間に旋律が消える。

しかも、同じ旋律を他の兵士に口ずさませたら――まったく違うメロディを歌うんだ。


俺は演奏の仕事に誇りを持ってる。

だから「音楽は理に沿ってこそ美しい」って信じてきた。

けどあれは……音楽の理からはみ出してた。


音の出所も、方向も、響きも、記憶も、すべてが狂ってた。

それでいて、美しかったんだ。


あの二人が何者かなんて俺には分からない。

けど確かに、俺は生涯でただ一度、“音が空間を超えた瞬間”を聴いたんだ。


あれが魔術じゃないなら、何なんだ?

いや……魔術って言葉じゃ足りない。

あれは、音のかたちをした“心への干渉”だった。


証言録 第十九節


> ――第7野戦外科施設所属 軍医少佐 ヨーゼフ・ハウゼンの証言(戦後回想記より抜粋)




野戦病院は戦場より静かだと思っているなら、それは大きな誤解だ。


むしろここは、「死ぬ寸前の叫び声」だけが絶えず響いている地獄だ。

砲弾の音も、機銃掃射もここまでは届かない。

だからこそ、人間の壊れる音だけがむき出しになる。


あの日、私はずっと縫っていた。

左脚を失った若い兵士の断端を処理し、次に担ぎ込まれた男は目を抉られていて、その次は……

いや、やめておこう。文字にする価値もないほどの惨状だった。


手が震えていた。

いくら軍医とはいえ、限界はある。

麻酔の効き目が足りない叫び声と、自分の無力感が、内臓を締めつけるようだった。


そのとき、音がした。

いや、音楽だと気づいたのは、しばらく経ってからだった。


ピアノ……? いや、そんな馬鹿な。

ここは戦場のど真ん中だ。ピアノなんて持ち込めるはずがない。

けれど、たしかに――鍵盤を打つ音と、それに重なるヴァイオリンが聴こえた。


音は、空気ではなく自分の“内側”から湧いてきたように感じた。

まるで、あの旋律は私の中にずっとあったのに、今ようやく誰かがそれを奏でてくれたかのように。


その瞬間、手の震えが止まった。


不思議だった。

その音が「癒した」とか「慰めた」なんて甘い言葉ではない。


むしろ、私がなぜこの地獄にいるのか、なぜメスを握っているのかを――思い出させたのだ。


使命感。

そんな綺麗な言葉は、何度もこの戦争で腐らせてきた。

けれどその時だけは、はっきりと胸に戻ってきた。


「私は、人を生かすためにここにいる」

誰に命じられたわけでもなく、どんな勲章のためでもない。

ただ、目の前の命に向き合うことだけを、思い出させてくれた。


だからこそ、私は今もあの旋律を覚えている。

楽譜には起こせない、ただし耳と手だけは覚えている音だ。


そして今も時折、夢の中であの旋律が響くとき――

私は“医者であること”に救われる。



証言録 第二十節


> ――第7野戦外科施設所属 看護兵 アンネリース・ヴァルターの証言(戦後聴取記録)




戦争が始まる前、私は田舎の小さな診療所に勤めていました。

だから兵士たちの脚が吹き飛んでいるのを見た時は、心の底から震えました。

でもそれ以上に、苦しかったのは**ベッドの上で死んでいく彼らの「声」**です。


うめき声。絶叫。

愛する人の名前を、壊れた蓄音機のように繰り返す声。

「ママ」「カタリーナ」「帰りたい」――

そして、最後は泣きながら、喉の奥から空気を漏らして絶える音。


半狂乱になってベッドの柵に噛みつく兵士もいました。

名前も年齢も、階級も記録される間もなく、ただ「次の死者」になる者たち。


その夜――音楽が聴こえてきました。


最初は、私の頭がおかしくなったのだと思いました。

ヴァイオリンと、ピアノ。

外では銃声も爆発音もなかったのに、どこか遠くから、とても澄んだ旋律が病室に忍び込んできたのです。


そして、奇妙なことが起こりました。


死にかけていた兵士たちが――静かになったのです。


怒鳴り声も、苦痛の呻きも、止まりました。

騒然としていた部屋が、まるで祈りの場になったように。


ある兵士は、突然目を開いて、何かを見上げるようにして微笑みました。

そして、何も言わずに静かに息を引き取りました。


隣のベッドの兵士も、その隣も。

みんな、笑顔で、音楽の中で、次々と――死んでいったのです。


私は怖くて叫びそうになりました。

でも声が出なかった。

私だけではありません。周囲の看護兵たちも、みんな立ち尽くしていた。

そして……誰もがその死を受け入れていたのです。

なぜか、心のどこかで納得してしまったのです。


それはまるで、死が罪ではなく、罰でもなく、ひとつの救済としてそこにあったかのようでした。


誰かが静かに祈りを捧げ始めました。

誰に向かって、何を願うでもない祈り。

ただ、人の死に、初めて意味があるように思えた瞬間でした。


あの夜の音楽を私は忘れられません。

誰が奏でていたのかも分からない、再現もできない旋律。

けれど確かにあの時――戦場で最も美しい静寂が訪れたのです。



証言録 第二十一節


> ――第7野戦外科施設所属 看護兵補 マリー・クロイツフェルトの証言(戦後聞き取り記録・未公開)




私がこの戦争に来たのは、志願でした。

小さな村で祖母が助産師をしていて、その姿を見て育ちました。

だから、誰かの命のそばにいる人になりたいって……そう思ったんです。


でも、ここに来てすぐ、それがどれだけ甘い考えだったか思い知らされました。


最初の日、何人もの兵士が血まみれで担ぎ込まれてきました。

腕のない人。顔の半分が吹き飛んだ人。

骨が皮膚の外に飛び出しているのを見て、私はその場で嘔吐しました。


それからは、もう何もかもが手に負えなかった。

叫び声と泣き声と、意味のわからないうわ言。

ベッドの柵にしがみついたまま死んでいく兵士。

「お前が殺した」って目で私を見ていた。


私は、看護兵になった時の希望なんて、忘れてしまっていました。

希望だけじゃありません。

自信も、誇りも、自分という存在そのものが、泥と血に溶けて消えていくようでした。


血だらけのシーツを洗いながら、吐き続けて、泣き続けて。

腕に力も入らなくなって、何度もその場から逃げようと思いました。


軍医の少佐は厳しくて、でも目は優しかった。

同僚のアンネリースさんも、よく叱ってくれました。

でもそのときの私は、それすら重たくて苦しくて。


そんなときでした。


音楽が――聴こえてきたんです。


最初は誰かがラジオをつけたのかと思いました。

でも、ここにはラジオなんてない。

どこからともなく、とても静かで、それでいて強い音楽が流れてきたんです。


ヴァイオリンとピアノ。

それが、病室の中をすうっと流れていって、

あんなに泣き叫んでいた兵士たちが……静かに、穏やかに、微笑んで、息を引き取っていった。


アンネリースさんの証言にあった通りの光景でした。

だけど――私には、別の変化が起きました。


その旋律を聴いているうちに、

私は看護兵になろうと決めた日のことを思い出したんです。


村の診療所で、赤ん坊を取り上げる祖母の手。

母が私の額に当ててくれた冷たい手。

そして、小さな自分が「いつか人の命を守る人になりたい」とノートに書いたこと。


涙が止まりました。

嘔吐も、止まりました。

ただ、そこにいていいと、ようやく思えたんです。


あの音楽は、魔法だったのかもしれません。

でも私にとっては――**「私自身を取り戻す鏡」**だった気がするんです。


あの日から私は、もう逃げたいと思わなくなりました。

苦しくても、怖くても、

私はあの音に背中を押されたまま、今も、誰かの命のそばに立っています。



証言録 第二十二節


> ――第3突撃連隊第2中隊所属 兵卒 アルノ・ブライナーの証言(聞き取り報告より)




あれは、確か春の初めだったと思います。

まだ夜明け前は息が白く、朝霧が重くかかる季節でした。


俺はその日、仲間と二人で交代の前の見張りをしていました。

場所は、数日前に奪取した村の一角。

敵軍と我々の最前線のあいだにある、名前もない村。

そこに通じる一本道を、交代で夜通し監視していたんです。


その日、もうすぐ夜明けという頃、正直に言えば、うとうとしていたんです。

でも急に、目が覚めた。

理由はわかりません。ただ、“何かが近づいている”と身体が感じたんです。


遠くを見た。霧でよく見えなかった。

それでも音がしないのに、近づいてくる気配があった。

双眼鏡を構えて、息を止めて見た。


そして、突然――“それ”が視界に現れた。


霧の中から、音もなく馬車が進んできた。

いや、音はしたのかもしれません。でも覚えてない。

ただ、**まるで存在ごと滑り出してきたように、そこに“現れた”**んです。


最初は敵かと思って、即座に警戒態勢を取りました。

でも近づくにつれて、違うと分かった。

軍服じゃなかった。馬車の御者台には、黒いフロックコートの男。山高帽をかぶっていて、顔ははっきり見えなかった。

助手席の女――たぶん女――は、顔を薄いベールで覆っていました。


俺たちは銃を構えつつ、停止命令を出しました。

御者の男は無言で従い、馬車を止めた。


一応、荷物検査をしました。

馬車の中には、古びたトランクと……ピアノが一台。


そして、ベールの女が座っていた。


怪しすぎるだろう、って誰でも思う。

でもその男は、黙って一枚の通行許可証を見せたんです。


俺はそれを受け取って目を疑いました。

許可証には、軍のこの戦線の軍団長の直筆署名と印章が押されていたんです。


仲間が小声で言いました。

「……おい、あれが“例の二人”なんじゃないか?」


俺も噂くらいは聞いてましたよ。

どこかの戦場に現れて、演奏して、戦況が変わったって話。

信じてなかった。でも……目の前にいたんです。


俺たちは顔を見せろとも名を名乗れとも言いませんでした。

何も言わせなくても、もう分かってしまっていた。


俺は黙って許可証を返し、通しました。

馬車は、また霧の中にゆっくりと消えていった。


不思議なのは、それだけじゃない。


その直後、敵軍が襲撃してきたんです。

もし俺たちが馬車に気を取られず、眠ったままだったら……全滅してたかもしれない。

でも、馬車のおかげで目が覚めて、警戒態勢を敷いていたから、なんとか撃退できた。


俺はそれが偶然だったなんて思えない。

だって、あの馬車は――敵軍の前線側から来たんですよ。


それなのに、味方の許可証があって、軍団長の署名がある。

どういうことなんですか?

あの馬車は、どこから来て、どこへ向かっていたんですか?


あれ以来、俺は夢に見るんです。

朝霧の中から現れる馬車と、音のないピアノの鍵盤が動く光景を。


あれが何だったのか、今でも分かりません。

ただ言えるのは――

“あの二人”が来たおかげで、俺はここに生きているってことです。




証言録 第二十三節


> ――戦時特派従軍記者 ヴェルナー・ハルトマンの証言(戦後回想録未収録断章)




私は記者です。

中立報道機関に属し、政府の検閲を受けつつ戦地からの報告記事を書いていました。

命の危険はあるが、できる限り“この戦争を伝える”という意思で仕事を続けてきました。


だから、最初に“噂”を耳にしたときも、半信半疑でした。

戦場に現れて演奏する二人組。ヴァイオリンとピアノ。

演奏によって戦況が変わったとか、兵士の心が浄化されたとか。


……そういった話は、よくある美談か、極限状態の幻覚かと思っていたんです。

でも――複数の戦線、複数の兵士から、奇妙に似通った証言が出てきた。


私は調査を始めました。

もちろん、従軍記者としての任務の合間にできる範囲で、ですが。


まず軍の高官に聞いて回りました。

将官クラス、情報将校、軍団司令部の参謀。

皆、口を揃えて「そんな話は知らない」と言いました。


中には「写真を撮る許可? そんな民間人の演奏家に許可も何もあるか」と怒鳴る者もいました。

つまり――軍は“彼らを軍属とは認めていない”のです。


ならば、いったい誰の指示で戦場にいるのか?


私は写真許可を得ようと手を尽くしましたが、「許可の出しようがない」という回答ばかりでした。


そんなとき、ある戦線へ同行を命じられました。

部隊の移動と取材が目的だったのですが、そこで……彼らを目撃したのです。


朝、塹壕を出て最前線に向かう部隊がいました。

その行軍の列の中で、何人もの兵士が突然立ち止まり、耳をすませるような仕草を見せました。

不思議に思い、私も見渡しました。


すると、丘の上にふたりがいた。


朝の靄の中、小高い丘の上。

ひとりは黒い服の男。もうひとりは黒いドレスの女。

ヴァイオリンとピアノ。


私は走って近づこうとしました。

しかし、部隊を率いていた将校に腕を掴まれて止められました。


「危険だ。砲撃が飛んでくるかもしれん」

「だったら、あの二人はいいのか?」と私は食い下がりました。


将校は顔をしかめて言いました。

「知らん。あんな奴ら、勝手にやってる。軍は関知してない。責任も持てん。」


私は納得できなかったが、強行することもできず、せめて写真だけでもと望遠レンズで撮影しました。


だが――後で現像した写真には、“影のような人影”しか写っていなかった。


背景の丘、木々の形、朝の光まではっきり写っているのに、

人物は……そこにいる“気配”しか映っていなかった。


私のカメラは確かだった。

絞りもシャッターも露出も正確だった。

もっとはっきり撮れるはずだった。


それなのに。


私はその写真を、ある調査者に見せました。

彼は黙ってしばらく見つめてから言いました。

「……あなた以外にも、同じような“写らない写真”を持ってきた人がいる」と。


そのとき、私は初めて、

この二人は“報道されることすら拒絶する存在”なのかもしれないと考え始めました。


目の前にいた。

音も聞こえた。

カメラも向けた。


だが、なぜか世界が、それを記録に残さないように働いている。


それでも、私は彼らの存在を記事に書くつもりです。

誰かが「本当にあったこと」を残さなければ、やがて“美談”や“作り話”にされる。


――けれど、

もしこの記録が消えることがあれば、

それこそが彼らの“音楽の正体”なのかもしれません。


第一章 その旋律の記憶(抜粋)


豪奢な絨毯の上に、静かに音が満ちていく。

弓の動きとともに、木の香りと松脂の匂いが部屋に溶け、細やかなヴィブラートが空間を震わせた。


ヴァイオリンを弾く少女は十代。

春の光が窓から射しこみ、長く伸びた影が床に揺れている。

そのまわりを囲むのは三世代にわたる家族たち。

曽祖父母は中央のソファに腰かけ、両親と兄姉、叔父叔母、その子どもたちが笑顔で拍手を送っている。

皆が、この家の音楽を愛していた。


最後の音が天井へ昇っていくと、室内にしばしの沈黙が生まれた。

曽祖父のゆっくりとした拍手が、それをやわらかく破る。

「……よく弾けたね。君の音は、どこかで昔聞いたことがあるようだ」


少女はうれしそうに目を細め、うなずいた。



---


数年後、彼女は首都の音楽学校に進学した。

石造りの校舎。朝から夕まで音が絶えることのない構内。

彼女はそこで、より多くの音楽と人々に出会った。


ソナタ、カデンツァ、練習、舞台。

汗とため息の混じる音楽室で、友人たちと笑いながら練習に励んだ。


ある日――

ホールの一隅で耳にしたピアノの旋律に、少女は足を止めた。

どこか自由で、型にとらわれず、しかしなにかを激しく求めているような音。

彼女は静かに扉の陰からその教室を覗いた。


そこには、一人の少年がいた。

少年は、かつて地方都市の学校でピアノを自由に奏でていた。



---


少年は裕福な市民階級の家に育ったが、名門ではなかった。

通っていたのは、教育に熱心な家が通わせる地方都市の私学。


昼休み。

開け放たれた窓から、軽快なピアノの音が響く。

教室の中では、少年が跳ねるように鍵盤を打っていた。

その音は規則から逸れ、調性からも少しだけ外れている。

それでも、生徒たちは笑って拍手をし、少年も照れながら弾き続けた。


そこへ、メガネをかけた女教師が入ってくる。

彼女は呆れたように眉をひそめ、生徒たちは蜘蛛の子を散らすように逃げていった。


少年だけが、席に座ったまま。

教師に一言何か言われると、彼は神妙な顔で、今度はきちんとしたクラシックのピアノを弾き始めた。

それは少し窮屈で、しかしどこか優雅な音だった。



---


時が流れ――


音楽学校のホール。

学生オーケストラのリハーサルが始まっていた。


指揮台に立つのは、あの少年だった。

真面目な顔で楽譜を見つめるその姿に、自由に踊っていたあの少年の面影はあまりなかった。


そして、コンサートマスター席にはあの少女が座っていた。

彼女は弓を構え、音を待っていた。

指揮棒が振り下ろされると、彼女のヴァイオリンが、少年のタクトに従って流れ出した。


ふたりの旋律は、確かにそこにあった。

重なり、反発し、やがてひとつの空間をつくり出していく。


それは、まだ誰にも知られていない、**「ふたりの伝説の序章」**だった。



第二章 発車のベル(抜粋)


石造りのアーチが幾重にも続く、首都中央駅の大広間。

高い天井には朝の光が差し込み、騒がしくもどこか晴れやかな音が交錯していた。

重たいチェロやコントラバスが駅員たちの手で荷物車へと積み込まれ、楽団員たちはそれぞれの楽器ケースを抱えてホームへと急いでいた。


遠くから見れば、ただの喧騒にしか聞こえないだろう。

だが、そこにいた者たちにはわかっていた――これは旅立ちの音楽だ。

誰もが、これから始まる演奏旅行の高揚に胸を踊らせていた。


制服に身を包んだ楽団の若者たちの中に、あの少年と少女の姿があった。

少年は黒い革の小さなトランクに楽譜を詰め、右手には手入れの行き届いた小さなカバン。

少女はヴァイオリンケースを背に背負いながら、駅の天井を見上げていた。


汽笛が鳴った。


列車がゆっくりと動き出す。

楽団のメンバーたちはホームの友人や家族に手を振る。

彼女と彼もまた、両手で大きく手を振った。

けれど、その視線の先には誰の姿もなかった。

ただ、誰かに届くことを願うように、遠くへ向かって手を振っていた。


恋人ではない。

ただの仲間。

でも、演奏という一つの言語でつながった、無二の共犯者たち。


窓越しに見えた彼女の笑顔は、どこか幼さを残しながらも、演奏の場で見せる表情とはまた違うものだった。

彼はそれに気づいたが、何も言わなかった。


汽車は加速していく。

ホームが遠ざかる。

楽団の誰かが、旅先の演奏地について冗談を飛ばした。

笑い声が響く。


いつもの、音楽学生たちの日常の風景。


けれどこの旅のあと、

彼らの中には二度と戻らなかった者もいた。


そして――

このとき乗った列車こそが、彼と彼女を**“音楽を運ぶ者”から、“音楽そのものになる者”へと変えていく旅路の始まり**だった。



第三章 鳴らされなかった警鐘(抜粋)


真鍮と木材の混ざった響きが、広いホールを満たした。

演奏旅行先の都市、石造りの歴史ある劇場の天井に、最後の音が消えていく。

指揮台に立つ青年が静かに腕を下ろすと、オーケストラの面々が息を整え、音を閉じた。


大喝采。

観客席が揺れるような拍手。

ブラヴォーの叫びが幾重にも重なり、花束がいくつも舞台へ投げ込まれる。

その中央に、ヴァイオリンのソリストとして立っていたあの女性が、静かに頭を下げる。

その後ろで、彼――青年の指揮者も一礼した。


舞台裏に戻ったあとも、団員たちの笑顔は尽きなかった。

乾杯の音が上がり、夜の食堂では少し贅沢なワインがグラスに満たされた。


けれど、その帰路。

次の都市へと向かうために、列車へと乗り込んだ時――彼らの目の前に、最初の兆しがしていた。


首都方面から到着した別の長距離列車のホーム。

そこには、制服姿の若い兵士たちが黙々と列をなし、列車に乗り込んでいく姿があった。

詰め込まれる背嚢。見送りに来た母親たちの目。

響くのは軍の号令と、鉄のぶつかり合う音。


オーケストラの誰もが、それを横目で見ながらも、なにも言わなかった。

ある者は指揮棒のケースを握りしめ、ある者は楽譜を抱きながら、ただ次の演奏地のことを話していた。

まるでそれが、自分たちとは無関係の出来事であるかのように。


列車が動き出し、駅が後ろへと遠ざかる。

彼女は窓の外に目をやった。

兵士たちの整列する姿。その向こうに、もう誰もいないホームの光景。


彼女は何も言わなかった。

ただ指先で、ヴァイオリンのケースを軽く叩いていた。



---


数ヶ月後。

別の都市、別の劇場。

その日の舞台に立ったオーケストラは、わずかにその人数を減らしていた。

誰かが欠けたわけではない。

欠けた、という言葉さえ避けるように、代奏者が入っていた。


演奏が終わると、また盛大な拍手が鳴った。

けれど、その拍手の中に混じって、かすかに違和感があった。


観客席には、何人もの軍服姿の男たちがいた。

どこかよそよそしく、それでいて何かを測るような目で舞台を見ている者たち。


ロビーの掲示板には、「愛国演奏会開催のお知らせ」と書かれた貼り紙。

壁には戦争公債の広告が増えていた。



---


ある日。

大きな通りを、ヴァイオリンの女性が楽器ケースを肩にかけて歩いていた。

午後の陽差しが道を照らし、人々が一斉に足を止めていた。


歩道には人垣。

前が見えず立ち止まると、やがて勇壮な音が聞こえてきた。

軍楽隊の演奏する行進曲――華やかで、規律に満ちた響き。


その行進の中に、彼女は一瞬だけ、知った顔を見つけた気がした。

トロンボーン奏者。第二ヴァイオリンの女性。

彼らは軍服をまとい、まっすぐに前を見て行進していた。


彼女はただ立ち尽くした。

行進の音が去っていくと、人垣は動き出し、街は再び喧騒に戻った。


彼女は肩にかかったケースを少し持ち直し、歩き出す。

どこへ向かうでもないままに。



第五章 終点にて(抜粋)


蒸気の煙が、混乱と悲鳴の渦を包み込んでいた。


駅は、避難民と軍の部隊でごった返していた。

客車の前には、子供を抱えた母親たちが列をなし、老人が杖を振りながら叫んでいる。

その隣では、前線へ向かう兵士たちが軍靴を鳴らして突進し、空いた座席に荷物を押し込んでいた。


怒号、泣き声、汽笛、そして遠くからかすかに聞こえてくる砲声。


青年は、人垣の中で女性の肩を抱いていた。

彼女は人の波に押されそうになりながらも、胸にヴァイオリンのケースをしっかりと抱きしめていた。


「大丈夫、乗れる。君と一緒なら」


青年が言った。

彼女はうなずき、その手で彼の手を強く握った。


客車はもう満杯だった。

兵士が声を荒げて避難民を貨車へ誘導する。


「こっちだ!もう時間がない!」


やがて二人も、錆びついた貨車の鉄の扉をくぐった。

床には干草と古い新聞が敷かれていたが、座る場所はなかった。


発車の汽笛が鳴った。


列車は、軋みながらも動き出した。

車輪の音にかき消されながら、誰かが子守唄のような歌を口ずさんでいた。


彼と彼女は、壁にもたれながら、肩を寄せ合っていた。

彼女の腕の中、ヴァイオリンは静かにその形を保っていた。


だが、列車が町を抜け、丘の中腹にさしかかろうとしたそのとき――

爆音が背後から響いた。


「……来た」


青年が呟く。

それは予感ではなく、確信だった。


一発、二発、三発。

やがて砲撃は列車のすぐ後方に降り注いだ。


誰かが叫んだ。

子供が泣き、馬が悲鳴をあげ、そして車輪が急制動で軋みを上げた。


列車は、爆風で持ち上がり、ねじれ、脱線した。

貨車は横転し、木材と人が混ざって空へ放り出された。


砂煙と炎の中、草むらに転がった黒いヴァイオリンケース。


その留め具が一度だけカチリと鳴ったあと、何も動かなくなった。


やがて、煙の中からひとつの影が近づいてくる。


その手が、そっとケースに触れた。


土と血にまみれた、男の手だった。


辺りは、真っ暗な風景に転じていた。。





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