展示ケースの水がすぐに減る理由
挿絵の画像を作成する際には、「Ainova AI」と「Gemini AI」を使用させて頂きました。
職員としての肩書きは受付嬢だけど、学芸員の資格も保有している。
私こと袖掛町子は、こういう微妙な立場で堺県立歴史博物館に雇用されているの。
だから繁忙期のタイミングには、正規の学芸員の人達に混ざって搬入出だのレイアウトだのに携わっている訳。
その日も特別展の展示品入れ替えのお手伝いをしていたのだけど、そこで妙な話を聞いてしまったのよね。
「おかしいな…また特別展示室の第四展示ケースだけ、水が異常に蒸発しているよ。毎回、こうなんだよな…」
件の展示ケースを開けた青年学芸員は、狐につままれたような顔をして首を傾げていたわ。
「本当ですね、玉津島さん。条件は同じはずなのに、隣の第三ケースや第五ケースはまだ半分以上残ってますよ。」
展示ケースの隅に置かれた水入りのガラスコップは、「展示品の乾燥を防ぐ」という調湿剤の役割を果たしているの。
だからコップの中の水が減っている事自体は良いのだけど、一箇所だけ著しく減るペースが早いというのも考え物なのよね。
そこで学芸員資格自体は保持していて尚且つ比較的手の空いている私が、原因を調査する事になったのよ。
だけどこの時の私は、想像すら出来ていなかったの。
これから自分が何を目の当たりにするのかをね。
営業時間が終わった閉館後の博物館は、ひっそりと静まり返って物音もほとんどしない。
そんな静寂が支配する空間となった特別展示室にいるのは、片隅に置かれたパイプ椅子に腰掛けた私だけ。
「ここは開館中は監視役の学芸員さんの定位置だけど、受付嬢の私がこんな形で座る事になるなんてね。学芸員のポストに空きが出来た時の予行演習として、座り心地に慣れておかなくちゃ。」
随分と大きな独り言を漏らしちゃったけど、こうでもしないと心細くてやり切れないのよ。
何しろ私以外の生きた人間は展示室に一人もいないし、ショーケースに陳列されているのは屏風だの掛軸だのといった歴史を経た品々ばかりだもの。
まあ、今回の特別展が「環濠自治都市と堺衆の時代」という安土桃山時代の堺を取り扱ったテーマだから、それも仕方ないんだけれど。
悠久の歴史を感じさせる数多の展示品と相対していると、一個人でしかない自分の矮小さが改めて自覚させられてしまうわ。
そして刻一刻と時間は経過し、とうとう日付を跨いでしまったの。
折しも時間は午前二時、古風な言い回しをするなら「草木も眠る丑三つ時」ね。
方角に当てはめたら艮の鬼門に近い所になる今の時間帯は、死者の魂や妖怪変化といった超自然的な存在の力が増す時間帯として恐れられているみたい。
どうやらそれは、今回も例外ではなかったの。
そして私は見てしまったの。
調湿剤代わりにショーケースに入れられた水が、すぐに減ってしまう理由を。
「えっ…あれは?!」
私は思わず息を吞んでしまった。
展示室の目立たない所に陳列された茶道具の茶碗が、カタカタと小刻みに揺れている。
他の展示品がびくともせずに整然と並んでいるのを見るに、それが地震のせいではない事だけは確かだったわ。
「な…何なの、あれは…」
やがて滑らかな茶碗の口縁から、それは音もなく現れたわ。
青白い光を帯びた、半透明の人影。
それがこの世ならざる存在である事は、一目瞭然だった。
安土桃山時代の豪商を思わせる仕立ての良い和服は煤まみれになり、顔や手の皮膚は無残に焼け爛れて肉や骨さえ露出している箇所もあったんだから。
「ああ、熱い…熱い…」
さながら現世に彷徨い出てきた、灼熱地獄の亡者のような男。
そんな彼が漏らした呻きは、絞り出すような苦しげな物だったの。
そして決定的な瞬間は、すぐに訪れたわ。
「うう、水を…水を…」
倒壊した建材で押し潰されたと思しきひしゃげた足で辛くも這いずり、展示ケースの隅に置かれたコップから水を吸い上げる。
だけど喉や食道までも焼け爛れてしまったのか、半分も飲み干せずに咳き込んでしまったの。
「口惜しや、大野治胤…よくも堺の町を、よくも我が屋敷を…」
「お、大野治胤!?確か『堺焼き討ち』の…」
慶長二十年における「大坂夏の陣」の一環で行われた「堺焼き討ち」は、徳川方の兵站となっていた堺への報復攻撃として大野治胤の指揮で行われた。
ポルトガル宣教師の記録にも、「二万の家屋は火に嘗められ、其夜大坂に於いては、火の海より多量の火災の天に昇るが如く見えた。」と書き残されており、その有り様は凄惨極まる物だったらしい。
「するとあの男性は『堺焼き討ち』で焼死した堺商人だというの?大野治胤が堺衆の復讐で死んだのも知らずに、今もなお…」
あまりにも非現実的な光景に思わず声を出してしまった私は、次の瞬間には心底後悔させられたの。
「ひっ!」
焼け爛れてケロイド状になった顔の中で爛々と輝く両目に、正面から見据えられたのだから。
「女よ、そちの言葉は誠か?大野治胤は死んだと…」
「は…はい!本当です!大阪の陣で敗走した大野治胤は、火刑に処されたと聞きます。復讐に燃える堺衆の手で…」
それを聞くやいなや、亡者のような顔に安堵の笑みが浮かんだのよ。
「そうか…仲間達が仇を討ってくれたのか…ならば思い残す事はない…」
すると次の瞬間には、亡者の姿は青白い光となって消えてしまったの。
「ううむ、『堺焼き討ちで全焼した大黒屋宗清の屋敷跡より出土、子孫の大黒氏により寄贈される』か…」
やっとの思いで展示ケースに歩み寄った私は、説明文を読み上げて愕然とするばかりだったわ…
突然の問い合わせにも気を悪くせず、大黒家の現当主である大黒羽美紀さんは快く会見を承諾して下さったの。
「そうでしたか…それは恐らく、我が大黒家の先祖である宗清の霊だったのでしょうね。」
先祖代々の家業である美術商を営む大黒家の女性当主は、あまり驚きもせずに納得した様子で私の話に頷いてくれた。
「そう言えば、祖父母や両親から不思議な話を聞かされたのですよ。蔵の近くで不思議な気配を感じたとか、御仏壇の仏花の水の減りが早いとか…」
きっと仏花の水も、あの焼け爛れた大黒屋宗清が無我夢中で飲んでいたのだろう。
最期まで水を求めながら力尽きていったらしい大黒屋宗清の無念の思いは、果たしていかばかりか。
「私達家族には決して見えなかった御先祖様が、貴女には見えた。それはきっと、袖掛さんが歴史や展示品に深い理解と強い情熱をお持ちだからでしょうね。貴女のような方が学芸員になられたなら、きっと展示品にとっても良い結果になるでしょう。」
「い…いやぁ、そんな…」
恐るべき心霊現象に遭遇してしまったのも、博物館職員としての高い職業意識と情熱があってこそ。
そう考えたなら、満更悪い気はしなかったね。
「不気味な話であるとは思いますが、調湿剤代わりの水は故人に供える水と思って頂けたら…」
「分かりました、大黒さん。あの茶碗を展示する際には、御先祖様への哀悼の意を捧げたいと思います。」
それから大黒屋宗清に縁の茶碗が展示される際には、正式の調湿剤ではなくてコップの水が供えられるようになったの。
だけどあれ以来、焼け爛れた豪商の霊は現れなくなったんだ。
無念を晴らせて安らかに成仏出来たなら、こんなに嬉しい事はないよ。