3.
王族から騎乗者が出たのは約百年ぶりということもあり、史隆の身分や所属については宮内庁と軍部との間で幾度となく協議が重ねられた。
時間を要するものと当初から考えられたので、最終的な決定が下るまでの一時的な対応として、史隆は駐屯地に留め置かれた。すでに兵役を終えていたため、竜騎乗者教育校への入校は不要であり、空軍から派遣されてきた元飛行隊所属の予備役から指導を受ける。
黙々と訓練に励むだけの日々が続いた。史隆と青藍の関係は良好であり、二ヶ月過ぎるころには基本訓練の過程を終えていた。
その間に処遇も決定され、三ヶ月目には手続きが進められる。史隆は王籍を離脱し、武家華族の仁志公爵家に養子として迎え入れられた。新家を設ける案も検討されたが、手続きが煩雑となって余計に時間もかかることから、史隆自身が望まなかった。
予想したとおり、瞳子の父である本條公爵は、第一王子という立場を無くした史隆では結婚にメリットがないと判断したらしい。名を仁志史隆と改めて間もなく、婚約解消の申し出があった。
形式的に一応は意思を確認され、史隆はその返事を保留した。この婚約は家と家の取り決めだったので、了承するしかないのはわかりきっている。なにより、大人しく従順な瞳子は、父の思惑を優先させるだろう。
史隆は彼女の控えめな微笑みと穏やかな話し声を思い返す。それらを失うことに、言いようのない喪失感を覚えた。自分が思いのほか瞳子を好いていたのだと自覚させられる。
瞳子とて、青藍と史隆との縁を拒絶したくらいには、婚約を解消したくないと思ってくれていたのだろう。ただその感情が恋心なのかどうか、史隆にはわからなかった。
手続きがすべて終わったときには、すでに春が終わろうとしていた。
王籍離脱が公に告示される前日、史隆は竜の単独飛行の許可を指導教官から得た。ふと思いついて瞳子に連絡を取る。瞳子は史隆に合わせて退役するはずだったのを取り止め、まだ駐屯地に残っている。「最後にもう一度だけ、僕とデートしてくれないか?」と気軽さを装ったメッセージには、すぐに承諾の返事がきた。
その夜、待ち合わせ場所に現れた瞳子は、淡い藤色のワンピース姿だった。揺れるスカートの裾が、街路灯の光を受けて柔らかく輝く。史隆はデートと称するべきではなかったと思った。
「急に呼び出して悪かった」
「いいえ」
「さて、どうしたものか……」
「はい? どうかしましたか?」
「いや、青藍に乗せようと思ってね。きちんと説明しておくべきだった」
「まあ、そうだったんですね。では着替えてまいります」
瞳子が自分の服を見下ろしたので、史隆は慌てて言葉を付け足した。
「そのままでいい。ミニスカートではないから大丈夫だろう。青藍はグラウンドに待たせている。行こう」
竜は基本的には騎乗者の側から離れることがなく、休暇中であっても付いて回る。その習性のため、騎乗者が竜を置いて遠出するのはなかなか難しく、逆に届出さえしていれば竜を連れ出すのは容易だった。
そんな説明をしながら、竜の待機しているグラウンド中央へと瞳子を案内した。
「青藍、騎乗する」
史隆が声をかけると、青藍は四本の脚を折り曲げて、身体を低い位置に下げる。階段を駆け上がるように前膝、肘、肩と伝って上り、鞍に跨がった。鐙革を伸ばして鐙を下ろすと、すぐに瞳子はその鐙に片足をかけた。
史隆は瞳子の腕を取って上から引き上げ、自分の前に乗せる。
「前橋に取っ手がついているだろう? そこを掴んでいるといい」
「あら? 綱手がないのですか?」
「ああ、最近、大幅に装備が変わったんだ。どうも総一朗が関わっているらしい」
「ふふふ、総くんは相変わらずだこと」
「まあ元々竜への指示は口頭だったからな。確かに手綱は不要だ」
「そうなんですね」
「では翔ぶよ」
鐙の高さを調節し終えた史隆は、鞍の前橋の両側に付いている革製の持ち手を握った。ちょうど腕の中に瞳子が納まるような形になり、史隆は気恥ずかしさを感じて、それとなく瞳子の様子を窺う。だが、いつもと変わらない様子に、なんとなく気落ちした。
「青藍、発進準備」
史隆の指示に、竜は翅を広げた。その途端、なにか薄い膜のようなものに取り巻かれる感覚があった。
「史隆さま?」
違和感に不安を感じたらしく、瞳子が身体を強ばらせたので、大丈夫だと宥める。
「青藍の魔力に包まれたんだ。これで竜と一体化し、騎乗者も守られる」
「これが……? 話には聞いていましたが……」
「青藍、浮上」
竜が数回羽ばたくと、その身体はふわりと舞い上がった。ゆっくりと上昇を続け、地上から遠ざかる。敷地内の庁舎がすべて眼下に納まったところで、青藍はホバリングした。
高度を上げながらゆっくりと南下するように指示する。許可を得ている飛行時間は一時間のため、近場をぐるっと一周できる程度だ。五キロメートルほど進んだところで、時計回りに旋回を始めた。
可能な限り高度を上げた。青藍は静かに翼を広げ、史隆と瞳子を乗せて夜空を滑空する。
眼下では街の明かりが宝石のように煌めく。見上げると、月のない空は漆黒のキャンバスとなり、無数の星々が散りばめられている。その狭間は幻想的で、どこか現実感が薄れていくように感じた。
「綺麗だろ? これを君に見せたかった。先週夜間訓練をしたときに、子供のころ宮ノ下で流星群を見ただろう? あれを思い出したんだ。君がいて、総一朗がいて、姉上や弟たちもいたな。なんだか妙に懐かしくなってね」
「そんなこともありましたね。たしか初等校の四年生の夏休みでした」
二人の婚約が決められた直後のことだった。それはどちらも口にしない。
「実を言えば、夜間飛行はいい顔をされなかったんだ。昼にしろってね。もちろん昼もなかなかの景色なんだが、でもね、どうしてもこれを見せたかった。……最後に、この星空を君に贈りたいと思ったんだ」
史隆の声は、静寂に包まれた夜空に吸い込まれるように消えていった。瞳子の微かな声が耳に届いた。
「……本当に、綺麗……」
静かに呟いた声は、夜空に吸い込まれるように消えていった。
二人はただ並んで天と地の星々を眺め、共有する静寂の中で穏やかな時間を過ごした。風が頬を撫でる。
瞳子の背中が微かに震えているのに気付いた。二人とも人前で泣くなどあってはならないと教え込まれている。史隆は視線を遠くに向ける。流れ星が一つ落ちるのを見た。
しばらくして瞳子が静かに口を開いた。
「一つ、覚えておいていただけますか?」
「なにかな?」
「私たちの婚約は政略結婚のためのものでしたが、それでも……私は史隆さまをお慕いしておりました」
「……そうか……」
史隆はそれ以上は何も言えず、ただ瞳子の横顔を見つめることしかできなかった。
星々が二人の沈黙を見守る中、青藍はゆっくりと降下を開始した。やがて着地して現実へと引き戻される。
二人はその後、言葉を交わすことなく別れた。史隆は瞳子の背中を見送りながら、彼女の残した言葉を胸の奥にしまい込む。
翌日、史隆は駐屯所を離れ、空軍基地へと赴いた。