逃げ水
「無駄に歳を重ね、知命をこえると、ね」
ここで吸いかけの煙草に口を着けた初老の男は、胸一杯に吸い込んだ煙をこれでもかと吐き出した。
室内なら、そして向かい合わせで座っていたなら、顔をしかめかねない有り様だったが、私達は公園の木陰に固定されているベンチに並んで座っている。風向きも私から彼へ、であったのでこちらに届くのは、ややクセのある臭いだけだ。
「子供の頃のことなんか、ほんの少ししか覚えていない。君もそうだろ? 卒業式はまだしも、入学式を覚えているのは珍しいんじゃないかな? 何年生だったか定かではない運動会、だれそれの失敗談、授業を潰して開かれた怪談話。そんなところか。ろくさんさん。高校も含めれば九年もあるのに、ね」
固まりになって吐き出された煙が、初夏の風に吹き散らかされて消えていく。
「そうですね。決して短い期間ではないのに、あんまり思い出せることはありません。不思議ですね」
私の目的は、今。彼がわざとか無意識か、学 生時代の思い出に含めなかった出来事の話を聞くことだ。
私の目は追っていた。
風にも負けず、そのままの濃さでその形を地面に落としながら漂っていく煙の影を。
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その出来事が起きたのは暑い夏の盛りの一日だったそうだ。
この公園を含む住宅地にまだ “新興” がついていた頃。
「まだまだ空き地がたくさんあってね。見通しはずいぶん良かったよ。車通りも少なくてね」
そうだろう。そうでなければなかなか起きない現象だ。田舎ではそう珍しくない出来事も、都会では何かと発生条件が整わず、また発生したとしても遮るものが多ければ気づかれず、消えていく。
「君は、逃げ水と言うものを知っているかな? いやいや、調査員さんをやっている方には失礼な質問だったか。私は子供の頃あれを勘違いしていてねぇ」
そう言って頭を書く初老の男性。
その顔に刻まれたしわは深く、今どきの五十歳ではなく、一昔前の姿のようだ。
「ほら、アレの正体は蜃気楼だって言うじゃないか。私はねぇ、近くの川とか海とか。・・・沼とかの水面が映し出されてると思っていたんだ」
よくある誤解だ。インターネットで調べられない昔ならなおさらだろう。
テレビで紹介されていた蜃気楼を知っていたなら、なおさら。まわりの物を地面に映すタイプの蜃気楼は専門家に説明されなければ理解しづらかった時代であった。
自分の勘違いをフフっと鼻で笑った彼の声は、次に発せられた時には何段か深くなった。
「何回光が屈折したら、そうなるのかって話だよね。でもそうじゃないなら」
沈黙。セミ声。沈黙。
私の見たあれはなんだったのかねぇ」
///
実際にソレに遭遇した対象者は近所に住む少年だったそうだ。
少子化が叫ばれて久しい今と違い、近所に同年代の子供が普通にいた頃の話。
今聞き取りしている初老の男性とはそう親しくなく。
一緒に遊びこそすれ、一対一ではちょっと。
ちょうど、友達のトモダチ。誰かしらの弟。
そんなワンクッション置く間柄だったという。
「そこ。そこだよ。ちょうど角のところ」
何年経っても足の向かない先、は。あるのだろう。
明らかに重くなった彼の歩みに導かれた先は。
ただの住宅地の縁、だった。
「なんてことのない、いたずら心、だった、さ。それが、まさか」
途切れ途切れに語られる。過去の出来事。
あの日、彼は。
「逃げ水を見たんだ。それと少年を」
「少年、水面、私の順に、さ」
「少年と、水面は、私と水面よりかは近くて」
「そうですか」
逃げ水。それは文字通り逃げる水だ。
「まさか、まさか! あんなことになるなんて!!」
水が逃げた先、で。
自分が追いかけたせい、で。
何が起こるかなんて。
想像できたはずもない。
///
ひどく遠くなのに。
くっきりと見えた、少年の驚きの表情。
幻の水面のはずなのに。
あっという間に、沈んでいく体。
何かつかめたはずなのに。
宙を掻いて、掻いて、止まって、のみこまれた手。
逃げ水はまだそこにあったという。
何食わぬ顔で、辺りの風景を映し出して・・・。
///
「どうやって家まで帰ったかはわからない」
「けど、何回も何回も振り返っただろうな」
「あっつい盛りだったのに、信じられるかい?」
「押し入れにとじ込もって内側からテープで目張りしたのに汗一つかかず、ガタガタ震えていたなんて!」
そう言った男性はゆっくりと辺りを見回した。
怪は怪を呼ぶ。
そんな迷信を信じているように。
「それから私は、ね」
「近くの沼を浚ってくれって言ったんだ」
「ほら、蜃気楼だと思っていたから」
「自分が、自分が、自分が・・・」
車道より高くなった歩道に座り込んだ初老の男性は。
胸ポケットから取り出しだソフトケースから一本取り出しもせず。
顔の前で祈るような形に組んだ両手で強く強く握り潰していた。
そうすれば、圧縮を重ねた物体が、小さすぎて見えなくなるかのように。
///
「結局何を言っているんだ、と叱られてね」
「彼は、少年は転校しただけだと言われたよ」
へろへろになったケースから取り出した曲がりくねった一本を加えたのは、元の公園のベンチ。
あの場所が見えるところは、初老の男性にとって・・・。
「君は、こうゆう話を集めていると言ったな?」
普通に吐き出された紫煙の影が薄れて消えていく。
「はい。ご協力ありがとうございます」
そう言ってスーツの内ポケットに差し込まれた自分の手は、ひらひらと振られた手のひらに押し留められた。
「礼はいらない。けど、知っているなら教えてくれ。アレは、なんだったんだ?」
「そうですね。・・・異世界転移って御存知ですか?」
「ちょっと前に流行った小説のジャンルだろう? 私は読まんが、息子が・・・」
そこで、ハッ! と。
何かに気づいたような初老の男性に一つうなずいて私は公園を後にした。
後ろから聞こえたすすり泣きは。
長年の罪の意識から解放された雫を落としていたかもしれない。
///
「追跡対象Sについては、さかのぼれてしまったか」
「はい」
初老の男性から聞き取った内容をまとめたレポート。
と。
ポケットに入れっぱなしにしようかなーとかなり悩んだ所定の、それなりの額が納められた封筒。
男性は良いように勘違いしたようだが。
異世界転移は一方通行では無い。
こちら側でトラックに跳ねられることもあれば。
向こう側でドラゴンに突進されることもあるのだ。
「Sの初補食かもしれない事例、か」
この支部をまとめるボスの背後に映し出された地図にいくつもの、様々な色の×印が刻まれている。
「不定形、透明。厄介だな。分裂しないのとあまり頭が良くないのが救い、と」
男性は帰宅後密閉空間を作り出したようだが、杞憂と言うやつだろう。
アレには目撃者を消す、なんて考えるほどの知能はない。
「サイズは聞いたか?」
「はい」
「移動速度は?」
「今回は子供が走るほどかと」
「あと・・・」
「いや、レポート! 読んでくださいよ!」
明らかに面倒臭さそうな上司のデスクと向かい合わせに並ぶ、一般職員の机、つくえ、ツクエ。
そう、世の中には湧き水のように。
“現象” があふれている。