第2話:放課後
学校の終わりを告げるチャイムが鳴り、教室の中はすぐに騒がしい声で満たされた。生徒たちが急いで帰り支度をして、楽しそうに友達と話しながら校舎を出ていく。
櫻井凪人は、そんな騒ぎには一切関わらず、無言で教科書をバッグにしまい、淡々と帰る準備をしていた。
特に予定があるわけでもない。ただ、早く家に帰り、いつものように一人の時間を過ごすことだけが彼の頭の中にあった。
廊下も階段も、他の生徒たちが騒ぎながら通り過ぎる。凪人は彼らに目を向けることもなく、無言で校舎を抜け出し、いつもの帰り道へと足を向けた。
夕方の街は、学校帰りの学生や会社員たちで賑わっていた。駅へと続く道は、日常的な喧騒に包まれている。人混みの中にいながらも、凪人は一切の感情を表に出さない。彼にとって、毎日がこうであり、特に何かを求めるわけでもない。
その時、ふと彼は違和感を覚えた。少し離れた路地で、誰かが大声を上げている。人々がざわざわと何かに気づくように、凪人もその方向に視線を向けた。
そこには、クラスメイトである水城美月が、先ほど告白していた男子生徒に絡まれている光景が見えた。
「なんで俺を無視するんだよ!さっきの返事、ちゃんと考え直せよ!」
男子生徒は興奮気味に叫びながら、美月の腕を掴んでいた。美月は怯えたような表情を浮かべ、何かを言おうとしたが、声にならなかった。
凪人はその様子を、遠くから冷静に見ていた。彼の中で、美月に対する特別な感情は一切なかった。ただ、今起きている出来事が彼の視界に入ったというだけだ。美月が助けを求めていることも、男子生徒が怒りに満ちていることも、凪人にとってはどうでもいいことだった。
「関わる必要はない」
そう自分に言い聞かせ、凪人は再び歩き出そうとした。だが、彼の足はその場で止まってしまった。
「…」
無言のまま、凪人は再び路地の方へと歩き出した。なぜ自分がそうしたのか、凪人自身にもよくわからなかった。ただ、自然と体が動いただけだった。
「なんだお前…」
男子生徒は凪人に気づき、睨みつけた。
凪人はその睨みに対して何も感じなかった。無表情のまま、ただ彼を見つめ返すだけ。彼の無言の圧力に、男子生徒は怯んだ。
「くそっ…」
男子生徒は不満を抱えたまま、美月の腕を離し、そのまま去っていった。彼がいなくなった後も、凪人は特に何も言わずにその場に立っていた。
「…ありがとう」
美月のかすれた声が聞こえてきた。
凪人はそれに答えることなく、ただ軽く頷いただけだった。彼にとっては、感謝の言葉も特に意味を持たなかった。助けたという意識すらなかったのだ。
「本当に、助かった…」
美月は震えた声でそう言い、凪人の方を見つめていたが、彼はそれに対して何も感じなかった。美月がどう思っていようと、彼にとっては重要なことではなかった。
「……別に」
そう一言だけ口にして、凪人はその場を立ち去ろうとした。彼の中では、この出来事は既に終わったことだった。
だが、再び彼の背後から声がかかった。
「待って!」
凪人は立ち止まる。振り返ることはなく、しばらくその場に静止したままだった。
「君の名前、教えてくれない?」
美月の声は少しずつ落ち着きを取り戻していたが、凪人はその言葉に特に興味を抱くことはなかった。彼女に名前を教える必要などどこにもない。ただ、その場を早く離れたい気持ちだけがあった。
「…櫻井」
短くそう告げ、彼は再び歩き出した。振り返ることもなく、美月の視線を感じることもなかった。ただ、早くこの場を去ることだけが彼の頭の中にあった。
美月が後ろから何かを言っているのはわかっていたが、その声は凪人の中には届かなかった。街の喧騒にその声は紛れ、やがて聞こえなくなった。
帰り道の途中、凪人はふと立ち止まった。自分が美月を助けた理由がわからなかった。自分にとって何の意味もない人間を、なぜわざわざ助ける必要があったのか。
「……」
その疑問は、凪人の中で答えが出ることなく消えていった。彼は特に何かを思うこともなく、再び家へと向かって歩き始めた。
その日も、凪人は特に何事もなく日常を終えた。美月との出来事も、すぐに彼の記憶からは薄れていくだろう。彼にとっては、それが当然のことだった。
凪人は自宅に戻り、ベッドに倒れ込んだ。今日も、何も特別なことはなかった――そう自分に言い聞かせながら、彼は深い眠りへと落ちていった。