第102話:変化の兆し、教室の温度
新学期が始まって数日。
まだ授業らしい授業はなく、学校はどこかのんびりした空気に包まれていた。
教室では、春休みの話や今後のイベント、そして進級後の話題で賑やかに声が飛び交っている。
そんな中で、凪人はいつも通り窓際の席に座り、静かにノートをめくっていた。
けれど――彼の周囲が、ほんの少しだけ変わってきている。
「よ、櫻井。冬休みさ、バレー部の連中で話してたんだけど、お前やっぱ動きすごかったって噂になってたぞ」
そう声をかけてきたのは、バレーのクラス対抗戦で同じチームになった山本だった。
「…そうか?」
凪人は特に表情を変えずに返す。
だが、以前のような“壁”のような冷たさはそこにはなかった。
「今度、3年生も交えての交流試合あるらしいし、出てみないかって誘われてさ。お前もどうかと思って」
「考えとく」
短い返事だったが、それで山本は十分だったようだ。
「おう、期待してる」と笑って、元の席に戻っていった。
そんなやり取りを、美月は少し離れた席から見ていた。
(凪人くん……やっぱり、変わったよね)
以前なら、話しかけてもすぐに切り上げていたはずの会話。
今の凪人は、たとえ無口でも、ちゃんと相手の言葉を受け取って、必要な言葉を返している。
(きっと、自分でも気づいてるんだ)
変わってきた自分に。
誰かと関わることが、もう“苦手”ではなくなってきていることに。
⸻
昼休み。
教室の隅では、何人かの女子たちがこそこそと話していた。
「最近、櫻井くん、ちょっと柔らかくなったと思わない?」
「わかる!前は近づきにくかったけど、今は普通に話しかけやすいよね」
「でも彼女いるんでしょ?美月ちゃんだっけ?」
「え、そうなの?でもあの二人、すごく自然な感じするよね。理想的っていうか…」
そんな言葉が、本人たちの耳に届いているかどうかは分からない。
けれど、確かに――凪人の周囲には、ほんのりとあたたかな空気が生まれていた。
⸻
放課後、美月はいつものように下駄箱で凪人を待っていた。
彼が現れたのは、そのほんの数分後。
「待ったか?」
「ううん、ちょうど来たとこ」
ふたりは自然に歩き出し、昇降口を抜けて校門へと向かう。
春の日差しは柔らかく、少しずつ冷たさを失っていく風が、制服の裾を揺らした。
「今日さ、山本くんが凪人くんに話しかけてたでしょ?」
「…見てたのか」
「うん。なんだか、嬉しかった」
凪人は少しだけ顔をしかめるようにして歩きながら、静かに言った。
「俺、自分でも分かるんだ。最近、昔より人と話すのが苦じゃなくなった」
「それって、すごく大きなことだよね」
「…お前がいたからだよ」
その言葉に、美月は一瞬歩みを止めて、そっと彼の横顔を見つめた。
凪人も足を止める。
「お前が、普通に話しかけてくれて、普通に笑ってくれたから。俺も、普通にしていいんだって思えた」
春風が、そっと二人の間を吹き抜けていく。
「……ありがとう」
その一言は、美月の胸に深く、温かく届いた。
彼の“ありがとう”は、軽いものではない。
だからこそ、美月は心から笑って返した。
「じゃあ、これからも普通に笑ってもらえるように頑張るよ」
「…無理すんな」
「ううん、無理なんかしてないよ」
そう言って、美月は凪人の袖をそっと引いて歩き出した。
学校から続く帰り道が、春の色に染まり始めていた。