第10話:過去の傷
凪人が夜、自分のベッドに横たわり、静かに天井を見つめていた。
美月からの「信じている」という言葉が、彼の心を揺さぶっていた。それは、長い間封じ込めていた感情を引き起こすきっかけとなっていた。
「信じてる、か…」
凪人は自分の過去を思い出していた。あの中学時代の出来事――成功と失敗、そして期待と裏切り。そのすべてが、今の彼の行動に深く影響している。
中学生の頃、凪人は常に周囲から注目を浴びていた。人並外れた身体能力を持っていた彼は、どんなスポーツでもトップレベルの成績を残していた。
特に陸上やバスケットボール、バレーボールでは、凪人はどの試合でも抜群のパフォーマンスを見せ、誰もが彼を「勝利の象徴」として信じていた。
凪人もまた、当時はその期待に応えることを楽しんでいた。チームメイトからの賞賛や、観客からの喝采は、彼にとって大きな喜びだった。
「凪人なら、絶対に勝てる!」
「お前がいる限り、負けるわけがない!」
そう言われることが当たり前で、凪人自身もそれを疑うことはなかった。
中学3年の春。最後の大会が迫っていた。
凪人はその大会でも、当然のように優勝を目指していた。彼は絶対的な自信を持っており、誰もがその力を信じていた。
だが、その最後の試合で、予想外のことが起こった。
試合の終盤、凪人がボールを決めれば勝利という場面で、彼は大きなミスを犯してしまった。全力でジャンプしたつもりだったが、足元が滑り、ボールにうまく届かなかったのだ。
その瞬間、凪人の中で何かが崩れた。
彼自身が信じていた「完璧な自分」が、一瞬で消え去った。失敗に動揺し、冷や汗が背中を伝う。
「まさか…俺が?」
自分がミスをするなんて、これまで考えもしなかったことだ。だが、その現実が目の前に突きつけられた。
試合はそのまま相手チームに逆転され、凪人のチームは敗北した。
試合後、凪人が感じたのは、周囲からの期待が裏切りへと変わる瞬間だった。
「何であんなミスをしたんだよ、凪人!」
「お前が決めてくれるはずだったのに!」
チームメイトや観客の視線は、賞賛から非難に変わっていた。あれほどまでに信じられていた自分が、一つのミスで一気に落とされたのだ。
「俺を信じていたんじゃなかったのか…?」
その時、凪人は自分がこれまで周囲に頼られ、信頼されていたことの重さを痛感した。だが、それは自分を縛る鎖だったのだということに気づく。
信じられることが、どれほどの重圧になるのか。そして、信頼が裏切られた時の冷たい視線が、どれほど心を傷つけるのか。
「信じていたのに、裏切られた」
それが凪人の中で深いトラウマとなった瞬間だった。自分が完璧ではないことを認めることができず、それ以来、凪人は「本気を出すこと」を恐れるようになった。
本気を出してしまえば、また同じことが起こるのではないか――誰かの期待を背負い、その期待を裏切ることになるのではないかという恐怖が、彼を本気から遠ざけた。
現在に戻り、凪人はベッドの中で目を閉じたまま、過去の出来事を思い返していた。
「だから、俺は…」
彼は再び自分に言い聞かせた。
誰かの期待に応えるのはもう嫌だった。注目を集め、本気を出して期待され、そして裏切った時の失望した目。それが、凪人を追い詰め、今も彼を縛っていた。
「期待されるのが、ただ怖いだけなんだ」
自分の思いに気づきながらも、それを振り払うことはできない。過去の失敗が、彼を深い闇に閉じ込めている。だからこそ、今回のクラス対抗戦で本気を出すのも嫌だった。あの時のように、もし再び誰かを裏切ったら――その恐怖が凪人を縛り続けていた。
美月の「信じている」という言葉が、凪人の心に波を立てたのはそのためだった。彼女の言葉は純粋で、真っ直ぐだった。だが、その裏で、自分がその信頼を裏切った時のことを考えると、凪人の心は重くなる。
「…俺には、もう無理なんだよ」
彼は一人、静かにその言葉を口にした。過去に囚われ続けてきた凪人は、美月やクラスメイトたちに応えることなどできない――そう、彼は自分に言い聞かせ続けていた。
翌朝。
凪人は学校に向かう途中、美月の言葉を何度も思い出していた。彼女の信じるという言葉が、心に残って離れない。
「俺を信じてる、か…」
美月だけは、凪人に対して何の見返りも求めていなかった。彼女の真っ直ぐな言葉に、凪人はどう返すべきか迷っていた。だが、自分の中でずっと抱え続けてきた恐れが、彼を前に進ませてくれない。
「…どうすればいいんだ」
凪人は、自分の中で揺れ動く感情に戸惑いながら、校門をくぐった。教室に入ると、いつもと変わらずクラスメイトたちが賑やかに話している。だが、凪人が教室に入った途端、皆が一瞬だけ静かになった。
「あ、櫻井来たぞ!」
誰かが声を上げ、クラスメイトたちの視線が一斉に凪人に集まる。凪人はその視線に気づきながらも、無表情を装って席に向かう。
「櫻井、昨日の試合、マジで凄かったよな!」
「次も頼むぜ!」
クラスメイトたちは次々に彼に声をかけ、期待の目で彼を見つめていた。凪人は軽く頷くだけで、答えを返さない。だが、その視線が重くのしかかってくるのを感じていた。
「…また、同じか」
クラスメイトたちの期待が、再び凪人に押し寄せてくる。彼の中で過去の記憶が蘇り、再び心が重くなっていくのを感じた。
(また、俺が期待されている。あの時みたいに…)
彼の中で過去のトラウマが渦巻き始める。あの中学最後の試合の時の、裏切られたという視線が脳裏に浮かぶ。もし、また自分がミスをすれば――また、同じことが起こるのではないか。
凪人は心の中で葛藤し続けていた。期待に応えるのか、それとも再び逃げるのか。
その時、ふと背中に柔らかい声が聞こえた。
「おはよう、櫻井くん」
美月だった。彼女はいつものように明るい笑顔を浮かべて凪人を見つめていた。彼女だけは、凪人を無理に期待することもなく、ただ信じているという気持ちを伝えてくれていた。
「…」
凪人は無言のまま美月を見つめたが、何も言うことができなかった。彼女の笑顔が、どこか自分の心を癒すようであり、同時に揺さぶるようでもあった。
「信じる…か」
彼女の言葉が、再び凪人の中で響き渡った。
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