黎明記~砂漠の章~⑥
宰相閣下…というのは、父王の右腕に値する人物ではなかったか。
…私はハレムからの脱走を企てた、重罪人だ。
これは、宰相の居城で一生監視されるということなのだろうか…。
『姫様は一週間、お背中の傷がもとで、熱に浮かされておられました。ようやく熱が下がりはじめたのですよ』
老女が優しく語りかけてくれる。
『一週間も…』
『傷のことは、簡単に閣下からお聞きしました。ばばが、勝手に処置をしましたので、お叱りはこのばばに』
高貴な人物の身体に、本人の許可なく勝手に触ったことを詫びているのだとわかった。
彼女に罪はない。
叱るつもりもない。
『ありがとう』
主人に怒られるかも知れないのに、罪人となったこの身の傷を手当てしてくれた。
『お水は召し上がられますか?』
私は瞬きで頷いた。
動くと背中が焼けるように熱いのだ。
硝子の水差しが唇に当てられ、私は寝たままで流し込まれる水を飲んだ。
なんて美味しい水だろう。
冷えてはなかったが、甘露が身体中に沁みていくようだ。
『美味しい…』
掠れていた声が少しましになる。
熱のせいか、乾燥のせいか、カラカラに乾いていた口唇が湿らされ、ひりつくような喉の痛みも少しましになった。
『お可愛らしいお声をしてなさる』
老女はニコニコ笑った。
どこかで、チリチリと澄んだ鈴の音が聞こえる。
『閣下が戻られましたね』
老女は嬉しそうに声を弾ませた。
しばらく後、部屋の戸がノックされる。
『しばしお待ちくださいませ』
老女はそう返事して、私を見る。
『閣下がいらっしゃったようです。戸を開けてもよろしいですか?』
『はい』
本来なら私に決定権はない。
それなのに、彼女は私に尋ねてくれた。
『姫様がお目覚めになられました』
老女が返事して、戸が静かに開けられ、1人の男性と、2人の少女が入ってくる。
男性は父王よりすこし若いくらいに見える。
彼が宰相閣下だろう。
うつ伏せたままだった私は、慌てて起き上がろうとして、背中の激痛に悶えることになった。
『そのままでかまいません。楽にしてください』
穏やかな低い声が耳に届く。
何故彼は私に丁寧に話しかけるのだろう。
私はもう、皇女ではない。
重罪を犯した罪人なのだ。
罪人となった人間の身分は奴隷か、それ以下と同じくらいだ。
『お目覚めになられたのですね。すこしお話は出来ますか?』
私はうつ伏せの姿勢のまま、目を伏せた。
閣下は少女が運んだ椅子に腰かけた。
寝台からは一定の距離がある。
私と閣下の間には衝立のようなものが置かれ、お互いの姿を直接見ることができないようにされた。
これは、老女の気遣いなのだろう。
『先に伝えておきます、姫様。貴女は罪人としてこの邸に来たのではありません』
閣下の言葉が理解できなかった。
伏せたままだった目を思わず開けてしまう。
『今はまだ信じてもらえないかも知れませんが…私は皇帝陛下に、貴女を妻として迎える許しを請いました』
…さらに理解できない。
失礼だが、閣下はなにを言っているのか。
私の耳がおかしくなったのか…。
思わず眉間に皺を刻んでしまった。
私の険しい表情を想像したのか、閣下はすこし笑ったようだ。
衝立越しでは、表情までは読み取れないはずだから。
『姫様はまだ目覚めたばかりで、混乱もされているでしょう。時間を取って、何度でも説明に参ります。この子たちは、貴女の身の回りの世話をする侍女として側に置いてやってください』
2人の少女は、私に向かって頭を下げた。
『薬師のばばも、相談役としてお側に』
『ああ、もちろん。ばばも頼みました』
老女は閣下に進言し、閣下も笑いながら許可したようだ。
話をしているうちに少し頭がぼうっとして、目の前がフワフワしだした。
頬が熱い気がする。
『熱があがってきたようです。閣下、今日はお引き取りを』
『そうだね。ばば、後は、頼みます』
『御意に』
しばらくの滞在の後、閣下は一人で部屋を出て行かれた。
『さあ、姫様。お熱があがってきたようですので、すこし休みましょう』
『はい…』
素直に頷いた私は、本当に背中の傷からの発熱で、数分後には見事に気を失ってしまっていた。




