タルガロス大聖堂の戦い〔下〕
アレクトは無言のまま何度も腹部を刺す。何度も何度も何度も何度も。魔力によってより鋭利になった刃は石材をも切り裂いて、血肉を抉る。
カンタベリーは身体強化を施しているおかげで意識はあるが、眼下に映る光景を見て怯えることしかできない。腹部に何か硬く鋭いものが腹の肉を切り分ける感覚に恐怖しながらも、神に強く祈ってその精神を手放さないでいる。
「う、うぅ ゲヴォ…ごぅえ」
正気を少し取り戻したアレクトは自分自身か作り出した光景を目にして、胃の中身を吐き出した。吐き出すと言っても内容物である有機物は消化されているのでほとんどが胃液だが、アレクトにとっては胃を空けることが出来ればそれでよかった。
「もう、誰も殺させはしない、から」
頭を強く打った時のように揺れる視界の中、そうアレクトは呟きながら剣を杖にして歩く。しかし、だんだんとその歩みは遅くなっていき、やがてアレクトは地面に倒れ込むと動かなくなった。
◆
女神は概念的な存在だった。最後にだったと続くは勿論、一部の人はその存在を察知しているからだ。女神は全信徒の心の中にいる。悪く言えば精神汚染といったところだろうか。
女神、ここでわざわざ真名を隠す必要はないと思うのでメルゼーと言ってしまうが、彼女は非常に欲深い。フォンフィールが形容し難い化け物に変貌したのも、カルモック蜂起で見せたガリフの不可解な行動も、すべては彼女が邪魔者を排除するためのことだった。
十字架に吊るされたエリザベスの体には未だ銀のナイフの傷跡が残っている。血は出きっていて死んでいるが、肌には艶やかさが残っていて一見すると眠っているようにも見える。
「…聖域『女神憑依』」
死んだはずの彼女の口から言葉が発せられる。その言葉は誰も動かなくなったタルガロス大聖堂の聖堂内に静かに響いた。壁に反響して小さく、小さく、だが途切れることはない。聖堂がその言葉を歓迎し、絶やさないために石の一つ一つが可能な限り分子を振動させる。
カンタベリーの眼が開かれる。だが、それは彼女の視界ではない。薄く黄金が勝った瞳。きっとそれは伝承通り全てを見透かすことができるのだろう。背中に見える白く輝く魔法陣。きっとそれは女神自身の手を煩わせることなく歯向かうものを鎮圧するのだろう。降臨したのだ。国教府の悲願でありコルト帝国にとっての悪夢、女神メルゼー・アントロポリスが。
メルゼーが辺りの神聖を吸収しながら十字架の拘束から脱出する。自身の力を元から抑える気がないのか、彼女の周囲は月明かりに照らされたかのように淡く光を放っている。
「目覚めなさい、敬虔なる信徒よ。」
カンタベリーの体が再構成され、無傷の姿で起き上がる。彼女は一瞬何が起こったのか理解できずに立ち尽くすが、眼に映る信仰する神の姿を見て何も言わずに跪いた。
『ジェファーレ、跪きなさい』
カンタベリーの声にジェファーレと呼ばれたレルフィールが立ち上がる。だがその瞳に光はなく、カンタベリーの命令に従う従順な操り人形に成り下がってしまっているように見受けられた。
あれはいったいどういうことだ!?まさか、女神が復活したとでもいうのか?
カリンはメルゼーが復活する際に『鎮魂歌』の立方体を吸収したおかげで拘束が解かれ一命を取り留めていた。だがそう安堵したのも束の間、それを上回るような圧倒的な力を持つ脅威の出現に喉が詰まったかのような窮屈感に襲われる。
カリンは真正面から戦っても勝利することは難しいと考え、自分の次元性を薄くする。これで少なくとも二人には発見されることはないだろう。そう安堵してよく辺りを見回して情報を集める。
祭壇の手前にはアレクトが転がっている。出血の痕は見たところなさそうなので生きてはいるだろう。そしてその祭壇の上には女神であろう輝く女性とそれに付き従う二人がいる。
…脱出するには後ろからか。それよりもどうやってアレクトを回収するかが問題だな。
「どうやらこの場所にはいてはいけない存在がいるようですね。ジェファーレ、その手に持った道具で殺してみせなさい」
カリンの思考を遮るようにメルゼーがよく響く声で言い放つ。
「…」
レルフィールは何も言わない。最小限の動作で拳銃の銃口がカリンに合わせられた。カリンは思考する。ここで先んじてレルフィールを殺せばアレクトを回収することはできるだろう。だが、それでは生存は絶望的になる。少なくともこちらから手を出すことだけは避けなければらならなかった。
カリンが太刀に手を添え居合の構えを取る。ここで命を散らすことになろうとも、諜報員から本国へ報告が行くほどの騒ぎを起こしてこの命が無駄ではなかったと証明するために。
だから気付かなかった。レルフィールの二つの正義に挟まれたが故の覚悟を。
◆
レルフィールは混乱していた。自分がジェファーレと呼ばれたこと。そして、その名前に違和感なく立ち上がってしまったことに。
…身体の制御が利かない?一体どういうこt
レルフィールの思考が停止する。見てしまったのだ。女神の姿を。もう少し下を向いていればこのような事態になることはなかったのだが、全てはもう遅い。メルゼーの神聖さは並の人間では耐えることは出来ないのだ。気配ならまだしも、姿を直視してしまっては敬虔なる信徒へ成り下がるしかない。
「どうやらこの場所にはいてはいけない存在がいるようですね。ジェファーレ、その手に持った道具で殺してみせなさい」
女神の意思を汲み取ったカンタベリーがレルフィールに告げる。本来なら裏切る予定だったが、そのような思考はすでに頭の中には存在しない。
カリンが剣先をこちらに向けてきた。メルゼーの姿から目を背けたことでだんだんと自我が戻ってきて思考が再び動き出す。
…私は一体何を?そうだ、私は、
タイミングが悪かったとしか言いようがない。レルフィールの身体から摘出されていなかった肉片からフォンフィールの自我が本体の少しの動揺を見逃さずに肉体の主導権を奪ってしまったのは。
「本体は死んだのに本体は死んだのに本体は死んだのに本体は死んだのに」
一瞬戻った自我がフォンフィールに占拠される。次に脳内を埋め尽くす感情は苦しみ。そして気がつく、手に簡単に死ぬことができる道具があるではないか。
そこから行動に移るまでは早かった。『フォンフィール』が銃口を喉元に突きつける。そして引き金を引く。何度も何度も何度も。マガジンの中身がなくなってもしばらくは引き金を引き続けていた『フォンフィール』だったが、ようやく肉体に限界が来たのか『フォンフィール』はドロドロになって崩れ落ちた。
…一体何が起こったんだ?
内心では驚きを隠せていない様子だが、本能はそんな思考を置いて真っ先にアレクトを庇うように立ちはだかり『フォンフィール』の亡骸を挟んでメルゼーに切っ先を向ける。
カリンはアレクトを抱きかかえ、心臓顔を寄せると鼓動と静かな呼吸の音が聞こえてきたので安堵の胸をなでおろす。
「そろそろご満足しましたか?」
「お前は一体誰なんだ?」
「この私に名前を聞くとは人間なのに随分と傲慢だこと。死になさい」
カリンが一息つく暇もなく事態は目まぐるしく変化していく。反射的にカリンが放った言葉にメルゼーは静かに憤怒した。怒りのままにメルゼーがカリンに人差し指を向けると背後から空間が捻じれて空間が歪んでいき、聖堂を包み込もうとする。
「あら、その剣は貰っておきましょうか。たしか…アルテーヌの第一子ですものね」
メルゼーがゆっくりとこちらに歩きながらこちらに視界を合わせずまるで、独り言をしゃべっているかのような感覚で近づいて来る。
「死ね。」
メルゼーもろとも次元を切り裂こうとカリンが斬りかかったが、空間が引き延ばされてメルゼーに刃は届かない。それでもカリンが次元を引き裂き跳躍することで、二人はメルゼーの空間に隔離から逃れることに成功した。
「フン、忌々しいこと」
紫電を放って二人の姿が消える。短命であるにも関わらず必死に生き残ろうとする愚かさにそう口にするメルゼーだったが、彼女の興味は既に別の物に移っていた。
「やっぱり本物でしたわね。ですが『本人』はここにいない様子…起きなさい」
「…何なりと」
何処からともなくケトゥーヴァが現れる。だが様子がおかしかった。何かに縛り付けているかのように苦しんでいるように見える。
「アルテーヌの第一子であり観測者。あの子が我儘を言ったからこんなことになったの。勿論、私に協力してくれるわよね?」
「ぐっ、かしこまりました。」
普段なら頬を膨らませて怒るであろうケトゥーヴァがメルゼーに従順に従っている。それだけならまだわからなくはないが、敬語を使うとなるとその異常さを感じ取ることができた。
「それとあなたの本体は渡しておくわ。来るべき時にまた呼び出すわ。もちろん来てくれるわね?」
「…もちろんでございます」
その後に続くのはアルテーヌに対しての愚痴だった。古き時代から二人の関係性を知るケトゥーヴァに対しての絶好の嫌がらせと憂さ晴らし。
感情を押し殺しているケトゥーヴァだったが段々と苦痛に耐えられなくなっていき、目は潤い始めて雫が静かに地面に落ちる。
「そういえば貴方にもようやく伴侶となるにふさわしい人が見つかったようじゃない。もちろん、生きてもう一度逢いたいわよね?」
畳みかけるように下を向いて俯くケトゥーヴァの前髪を乱暴に掴みメルゼーが耳元で囁く。ケトゥーヴァは黙って何も言わずに頷く。自分の髪がいくら乱れ用途もお構いなしに。
「随分と可愛くなったじゃない。気分がいいから今日は解放してあげる。これからは私のために精進することね」
そう言い終わるとメルゼーは体が立方体になりってその場から姿を消す。残されたケトゥーヴァは立ち上がることもできず、その場で静かに啜り泣いていた。




