離別
一度寝てしまえば明日なんてすぐに訪れてしまう。そんな常識を早起きをしたつもりが、すっかり太陽は高くに昇っているのを見て、アレクトは強烈に痛感させられた。そして自分がが今までかなり自堕落な生活を送っていたと認識を改める。
「おや、お嬢様。今朝は随分と早起きなのですね。今まではずっと布団を引っぺがされるまで嫌でも起きようとしませんでしたのに」
「揶揄うのはやめてください。ラクーシャも私がぐっすり眠れる心境ではないことはわかっているでしょう?」
ラクーシャが感心したように言うが、今のアレクトには皮肉を言っているようにしか聞こえなかった。アレクトはベッドの誘惑を振り切って部屋からの脱出を果たして着替えを済ませると、朝食を摂るために移動する。
アレクトはそう疑問に思いながら食事の席に着くと、給仕が珍しいものを見る目で自分のことを見ていることに気が付いた。…早起きしただけでこの始末とは、私が思っていた以上に私の生活リズムは特異なのかもしれない。自分の中に浮かんだ疑問をアレクトは再び胸にしまう。
アレクトは朝食を食べ終え、少し足早に執務室へ向かう。廊下を少し躓きながら走る姿はとても貴族らしいとは言えないが、この光景に慣れた使用人たちは矯正することを既に諦めていて、咎めようとするものはいない。
「お父様!いつになったら私はどこに行けばいいので…あら?そちらの方は?」
ノックもせずに勢いよく執務室のドアを開けるアレクト。そして、自分の目に余るような行動は棚に上げ、見知らぬ人がいることに目を見張る。
リーベルトはもう慣れたつもりでいたが、いつまでたっても無邪気なままのアレクトに今回ばかりはため息をつく。旧友は小さく指をさして「アレですか?」と少し引き笑いになりながら視線が聞いてくる。彼には申し訳ないが肯定の意味を込めて目を伏せる。可哀そうとは思うが、こうなった以上は苦労してもらうしかない。
「お前は少しじっとしていろ。ロンター、もう何となく察しているとは思うが、これがアレクトだ。見てわかる通りかなり手間のかかる娘だが、こうなった以上は仕方がない。…娘をよろしく頼む」
「ちょっとお父様、見ての通り手間のかかるとはどういうことですか?」
アレクトの言葉を無視してリーベルトは旧友に紹介を済ませる。リーベルトに対して不満を垂れ流すアレクトと無視を貫くリーベルトを見比べて顔を引きつらせながらも偶然アレクトと目が合ってしまう。彼ははっとし、姿勢を正して立場上は圧倒的上位の存在であるアレクトに恭しく挨拶をする。
「アレクト様、私はロンター・フォン・タリーベンと申します。此度はレーリッヒ様より、貴方様を護衛するよう命じられました。どうぞお気軽にロンターとお呼びください。」
「ロンターさん、よろしくお願いしますね。様子を見る限り、お父様とは昔からの知り合いなのですか?随分と年齢差がありますけど、お父様はどうやって知り合ったんですか?」
アレクトはスカートを摘んで先程までの慌しさはどこへやら、ロンターに向かって優雅に一礼する。アレクトの髪にはリーベ家特有の銀のように輝く髪に一筋の金色の線が走っている。成長期が終わり、程よい肉付きの肢体は色気よりも美しいという感想が最初に浮かぶ。
そんな美しい女性が胸元にすがるようにくっついてくる。ロンターにも恋愛の経験はあったが、それでも絶世の美女であるアレクトから必要にボディタッチをされれば動揺せずにはいられない。
「私の過去は私のいないところで教えてもらえ。ロンター、そいつは雑に扱ってもらって構わん。何かあったら厳しく言ってやれ。そうだ、ロンター、私のケトゥーヴァを持っていけ、私にはもう不要だからな。思い出として残しておくより誰かを護る剣となるほうが奴も本望だろう。後で持ってこさせる」
「…よろしいのですか?ケトゥーヴァは人生を今までリーベルト様と共にしてきたのですよ?」
アレクトの甘い空気で頬を赤く染めていたロンターはリーベルトの言葉を聞くとアレクトを引き剥がして真剣な表情でリーベルトに詰め寄る。リーベルトの眼光は鋭くなりながらも、口角は上がっている。その光景を見ながらアレクトは「また私の知らないところで面白そうなことをやってる…」と頬を膨らませて無言の抵抗を示す。
「私ももう年だ。もう剣を握ることはないだろう。それならば奴は死んだも同然だ。そうしたらケトゥーヴァは宝の持ち腐れになってしまう。それともなんだ?私が使わないからといって手入れを怠る人間だといいたいのか?」
「そこまでリーベルト様が仰るのであれば私はこれ以上は言わないでおきますよ」
「別にロンター、貴様が使っても構わないんだぞ?」
「変なことを言うのはよしてください。そんなことで上層部から嫌われたくないですよ」
…いくら何でも私を無視しすぎではないですか?お父様もお父様です。なんで首を絞めているのにそんな平然としていられるんですか?
「お父様ー、もしかしたらもう二度と合えないのかもしれないのに何の言葉もかけてくれないのですかー?唯一の肉親なんですよー?」
アレクトは魔が差したのといくら何でも無視しすぎではないかという二つの気持ちが拮抗した結果、少しだけからかってみることにした。
…私だって急に離れ離れになるとは思ってもいなかったし、命をかけなければならないとなれば尚更なので、もう少し最後は優しくして欲しかった。それでも、結局父は厳しいままだった。それを悲しいといえばそれまでだけど、もっとこう、家族として別れを惜しんでくれてもよかったのではないかと思うのも私の我儘なのだろうか。
「どうせお前のことだ。しばらくしたら何事もなかった顔して戻ってくるんだろう?心配するだけ疲れるだけさ。」
リーベルトがさも当然かのように告げる。アレクトはその自信ありげな態度に流されて昨日から続いていた心のざわざわが引いてすこし楽になったことに気づく。
「お父様はなかなか厳しいですね。はぁ、わかりましたよ。私がとっとと終わらせて帰ってきますから。」
ほとんどそんなことを言える心境ではなかったが、見栄を張って強気な態度をとってみる。そうするとなんだか少し気が楽になった気がした。…病は気からとはこういうことなのかもしれない。
別れの挨拶も曖昧のままアレクトとロンターは部屋を出ていく。そして誰もいなくなった部屋でリーベルトは自分だけにしか聞こえないような音量で、
「死ぬなよ」
と小さな声で呟いた。だが、その小さな声は壁に反響することなく絨毯に吸収される。それは、そんな些細な願いすら叶わない世界の残酷さを物語っているようにも感じられた。
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「ラクーシャ、わざわざお見送りご苦労様です。貴方も忙しいでしょうからもう戻って結構ですよ。」
「いいえ。お嬢様の見送りに誰もいないというわけにもいきませんし、何より私も最後に一度アレクト様のお顔を拝見しようかと思っておりましたが、迷惑でしたでしょうか。」
アレクトはそう言って下がろうとするラクーシャを引き留める。ラクーシャは引き留めてくれたことがうれしかったのか、少し口角が上がっていた。
「迷惑なんてそんなことありませんよ。とてもうれしいです。お父様とは会えなくてもいいですけど、ラクーシャと会えなくなるのは寂しいですもの。」
アレクトが皮肉交じりにラクーシャを褒めると、ラクーシャはそれを知ってかころころ笑う。自分よりも貴族らしいのではないだろうか。メイド服ではなくきちんとした服を着れば貴族社会でもやっていけただろうに。とアレクトは心の中で思う。
「ご主人様もお嬢様のことを心配なさっているのですよ。お嬢様が不当な扱いを受けることがないようにずっと裏で方々手を回していましたもの。しかもお嬢様はネスィール様が残していった唯一の宝なんですから、手放さなければいけないのはお辛いのですよ。あまりお嬢様の前ではそのような素振りは見せませんが。」
「ええわかっていますよ。少しからかってみただけです。男手一つで私を育ててくれたのですからそれだけでも十分わかっています。」
「アレクト様そろそろお時間です。」
ロンターがアレクト後ろから声をかけてくる。ついにこの館としばらくのお別れになる。…みんなは私が帰ってくると思ってくれているから私はその期待に応えて必ず帰ってきてみせる。アレクトはそう心の中で誓って車に乗る。アレクトが車に乗るとすぐに動き出し、館はだんだんと小さくなっていった。
産業革命の産物に揺られながらナイゼ川沿いを進んでいく。しばらくすると景色はだんだん故郷のものとは異なる者になった。胸の奥にざわめく気持ちを決して表に出さないようにしながら、アレクトはトラキスタンとオリビア海を隔てる雄大なヤーヴェリア山脈をひたすら眺めていた。