5 黄昏の別れ際
王都に行くと言う話は急だった。
午前中に手紙で連絡が入り、その日のうちに出立した。急でありながら、数日泊まる事になると告げられ、余計に不安が募った。
馬車の中の空気は重苦しかった。
馬車の箱の中は、アズールとシャロンの二人きり。初めて顔を合わせて乗ったときの様に、お互い黙り込んでしまっていた。
「急なお呼び立てですね。王様からですか? 何のご用なんでしょう……」
重苦しい空気を何とかしたくて、シャロンは明るく振舞った。
アズールは目元に影を落としながら、ああ、とだけ返事した。
「新年の会合のご相談でもあるんでしょうか。私、荷物の中に作りかけのドレスを入れてきたんです。もしかしたら見せる機会があるんじゃないかと思って。まだ途中ですけど、基礎は出来てますから」
シャロンは、場違いだと分かっていながらも、早口でまくし立てた。
——理由は道中話すって言ってらしたんだから、黙って待ってれば良いのに。もう、私のいくじなし!
悪い予感ばかりしてじっとしていられないのに、核心的な事をなかなか聞く事が出来ないでいた。
そうしていると、アズールが突然シャロンの手に触れた。
そのまま彼女の手を強く握ると、彼は項垂れたまま「すまない」と言った。
「君には、このまま故郷へ帰って頂く事になった」
シャロンは作り笑顔を貼り付けたまま、閉口した。
「どういうこと、なんですか?」
そうシャロンが聞けば、
「順を追って説明する」
と言って、アズールは話を始める。
シャロンの故郷ウィルカーディン王国は、エル・オークストーの襲撃を受け国王不在となった後、現地の貴族イシャーウッドと言う男による統治が行われる事となった。
彼は以前より国王派と対立しており、その上でエル・オークストーと通じ、王を倒す計画を策謀していたのだと言う。
「彼によるウィルカーディンの統治は上手くいっている様だ。王と王妃のやり方が横暴で閉鎖的だと、民衆や貴族からかなり恨みを買っていたからだと、手紙には書いてあった」
「そんな、あの襲撃にそんな背景があったなんて……」
「ご存じ無かった?」
「はい、恥ずかしながら。王宮では、特に私は世間から切り離されて過ごしていましたし。でも、イシャーウッドと言う方の名前は聞いたことがあります。よく、継母がその方の悪口を言っていましたので」
「それは、だいぶ対立を深めていたと言う事か……。手紙は陛下から頂いたのだが、その中ではイシャーウッドを褒めていらした。良くやっている。彼にならウィルカーディンを任せて良いだろうと」
「でしたら、ウィルカーディンはイシャーウッド様の領地と言う事になるのでしょうか?」
言いながら、シャロンは不思議に思った。国王は討たれ王家は滅んだのに、そんな所に亡国の王女が帰れるものなのだろうかと。
「いや。それを良しとしない者達がウィルカーディン貴族の中から現れて、ここ数日彼らと協議を行ったらしい。結果、ウィルカーディンの王族から王を選んで、王国を存続させる事になった。王には、エル・オークストーとイシャーウッド、異を唱えた貴族の三者の意向が噛み合う人物が選ばれた」
そこまで聞いて、シャロンは気づいた。
なぜ自分が帰る事になったのか、その理由が。
「シャロン、君だ。君を女王に据えることが決まった」
***
馬車は足場の悪い道を行き、ガタガタと揺れていた。日は落ちかけていたが、目的地まではまだ着かない。
「なぜ、私なんです?」
シャロンは声を震わせながら、アズールにそう聞いた。
「私には、腹違いの弟がいます」
そう、王位継承者はシャロン一人では無い。父と第二王妃ミレイアとの間に生まれた、幼い王子がいる。
「ウィルカーディンでは、よほどの事が無ければ女が王になる事はありません。本来であれば、次の王は第一王位継承者であるルーフリー王子がなるはずだったんです。なぜ、彼では無く、私なんですか?」
帰りたくない。そんな思いから、シャロンは馬車の椅子から腰を浮かしてまたまくし立てた。
「ルーフリー王子の名前は手紙には書かれていなかった。彼は、王と共に悪政を強いた王妃の子だろう。その事に懸念があるのかもしれない」
アズールはさっきと同じ調子で、淡々と答える。
彼も手紙で知った事しか分からないだろうに、シャロンは駄々っ子の様に聞いても仕方無い疑問をぶつけた。
「利用されないために、私を王家の籍から離すはずだったのではないですか? 結婚の話はどうなったのですか?」
シャロンのその問いに、アズールは首を振った。
「済まない。その話は、無かった事にする、とだけ書かれていた。一国の女王の夫が異国の騎士、と言うのも変な話だからな」
——無かった事にする?
その言葉を聞いて、シャロンは頭を木槌で打たれた様な気分になった。すとん、と力なく腰を落とす。
その時、アズールの屋敷に来たばかりの時の事が、シャロンの脳裏に思い起こされた。
頭を打った時、心配して駆け寄ってくれたこと。
馬に二人乗りした時の事。
自分の農園を案内していた時に見せた、楽しそうな彼の笑顔。
そして、夕日に染まる景色の中見せた、相手を愛しむ様な穏やかな笑顔。
思えば、あの日からシャロンはアズールに心惹かれていた。ずっとこの人の傍にいるのだと思った。
受け入れた、とは少し違う。決心した、と言った方がより近い。そんな心境だった。
シャロンの体の中を熱い物がこみ上げ、両目から零れ落ちた。嗚咽は上げず、ただ静かに涙だけが落ちていく。
―—泉を一緒に見る約束をしたのに。結婚のためのドレスだって作っていたのに。
嫌だと叫びたくて、唇がわなわなと震えていた。
正面では、アズールが心配そうな顔で腰を浮かせていた。彼はシャロンの隣に座り、彼女の背中に手をまわした。
「済まない、振り回してしまって」
その声を聞いて、シャロンは目を閉じた。大粒の涙が零れ落ち、それを手で拭った。
「ごめんなさい、心配かけて。アズール様と過ごした時があまりに楽しくて。それがずっと続くものだと、思っていましたから」
「私といて、楽しくかった?」
「はい。とても……幸せでした……」
すると、アズールがシャロンの肩に触れ、優しく抱き寄せた。
シャロンはその行動に身を任せる。彼の胸に頭を預け、その暖かな体温を感じ取っていた。
夕日の光が馬車の中に差し込み、シャロンのまぶたの裏を赤く染めていた。
「シャロン、私は…… ずっと不安だった」
ぼそりと、アズールは話し出した。
「連れてこられて怖いと思わなかったかと。本当は逃げ出したいと思っているんじゃないかと。全て、杞憂だったと思って良いのか?」
シャロンは驚いてアズールを見上げた。優しく接してくれていたその裏で、ずっとそんな風に思っていたのかと。
「そんな事はありません。アズール様の優しさに甘えてばかりで、私の方こそ悪い気がするくらいで……」
シャロンはアズールの胸に手を添え、近づきすぎた彼から離れようとした。
少し考えれば、その優しい顔の裏にある不安に、気づけたかも知れないのに。そう思えば、彼の傍にいる資格がない様に感じた。
でも、アズールはシャロンの肩を掴んでいた手に、力を込めた。グイっと抱き寄せられ、シャロンはまた彼の胸に頭を預ける事になった。
アズールは次に、自身の胸に置かれていたシャロンの手を取った。そしてその手に、口づけする。
あたたかく、やわらかい。シャロンの全身をしびれさせた理由は、きっとそれだけではない。彼の吐息を間近で感じて、溶けそうになった。
「シャロン……」
耳をくすぐる様な囁き声で、アズールは彼女の名を呼んだ。
シャロンが見上げると、彼の顔は夕日の影に沈んでいた。その目はシャロンだけを見据えて、離さない。
「シャロン……放したくない」
また、囁き声で名を呼ばれた。きっと何度でも、そう呼んでくれる。いや、呼んで欲しい。
「アズール様…… 私も、嫌です。離れたくない」
シャロンもまた、戸惑いながらも囁き声で相手を呼ぶ。
アズールは掴んでいたシャロンを、何度も何度も優しく撫でる。
「今、君にこんな事をすべきで無いのは分かってる。済まない、許してくれるか?」
そう聞いておきながら、その後行う事はアズールの中で決定事項だった様だ。
相手の返事を待たずに、シャロンの唇に、自身の唇を重ねた。
それを、シャロンは受け入れた。
馬車内を赤く輝かせていた夕日は沈み、二人だけの空間も暗く沈んでいった。
***
王都に着くころには夜も更けていた。
城門で名を告げれば、王城の傍に建てられた聖堂に案内され、そこでシャロンと彼女の荷物だけが降ろされた。
聞けば、今夜は聖堂の一室に泊まる事になるとか。アズールは王城の騎士の詰所に寝床をあてがわれているらしい。
――ここで、お別れ……
そう思いながら馬車を見ていると、車内のアズールと目が合った。
何か声を掛けたいと思うも、良い言葉が浮かばない。じっとアズールだけを見つめ、彼もシャロンを見つめ返した。
そうしているうちにも時間は進み、馬車は走り出し、シャロンはそれをずっと目で追った。出来るだけ長く、アズールの姿を目に留めて置ける様に。
だが、馬車に付けられたランタンの光の影になり、車内はすぐに見えなくなった。
「ウィルカーディンからのお客人が見えています。お休み前にお会いになって下さいますか?」
ローブを着た案内人の男が、寝室とは別の一室にシャロンを通した。その客は、シャロンが到着するのをずっと待っていたらしい。
「シャロン姫!」
通された部屋で出迎えたのは、アッシュグレーの髭の紳士だった。その髭の形、顔立ちに、シャロンは見覚えがあった。
「伯父様?」
「覚えておいでですか? 前に会った時は、まだ小さい、ほんの子供だったのに」
「ええ、本当、何年ぶりでしょう?」
二人はすぐに抱き合い、互いを懐かしむ。彼はシャロンの母の兄にあたる人物だ。母が亡くなって以来会っていなかった。
「お話は聞いております。ずっと、ずっと、お辛かったでしょう?」
伯父は涙ぐみながらシャロンの手を取り、その手をぽんぽんと優しく叩く。
「でも、もうこんな辛い思いをする事はありませんよ。憎きミレイアを退け、あなたが女王になるのですから」
「あの、伯父様? それが不思議なのですが、何故弟のルーフリー王子では無く、私が王になるのですか?」
「何をおっしゃる。あなたはミレイアに散々いじめられて来たでしょう? 姫を盾に我らの一族を王宮から引き離し、国の政治を身勝手に引っかき回した。あの悪女の子供に温情など、掛ける必要はございません。近いうちに女は裁判にかけられるでしょう。その子は遺恨が残らぬ様にするのが良い」
伯父は厳しい表情でシャロンを見た。憎しみの込められたその目に、シャロンは背筋が凍る思いがした。
ルーフリーはまだ3歳の何もわからない子供なのに、彼をどうするつもりなのかと。
シャロンがたじろいでいると、彼はすぐに柔和な元の顔に戻り、
「さあ、まずはお掛けなさい」
と、長椅子に掛ける様うながした。
伯父は部屋の隅で控えていた従者に飲み物を持ってくるよう指示を出し、自身もシャロンとテーブルを挟んだ正面に座る。
「それで、イシャーウッド卿の話はお聞きかな?」
「ええ、彼の働きによって、ウィルカーディンは良く治められていると」
「そうですとも。それにイシャーウッド卿は、大国であるエル・オークストーとの繋がりの深い人物でもある。先王の悪政で滅びかけたウィルカーディンを蘇らせるため、今後も良く働いて下さるでしょう」
イシャーウッド卿。今後、ウィルカーディンにおいて重要な立ち回りをする人物となるだろう。シャロンは、伯父の話を聞きながら、そう感じていた。
「では、宰相等の役職が与えられる事になるのでしょうか?」
そうシャロンが聞くと、伯父は驚いた目で彼女を見た。
「おや、そのお話はお聞きでない?」
「え?」
何のことだろうか、と思っていると、飲み物を取りに行っていたはずの従者が手ぶらで戻って来た。伯父は従者から何事か話を聞くと、すっと立ち上がった。
「そうか、忙しい中いらして下さったか」
そして、シャロンにも立つように身振りで促す。
「イシャーウッド卿ですよ。シャロン姫、あなたの未来の夫となる方です」
――夫?!
驚いている暇もないうちに、件の男イシャーウッドが部屋に入って来た。
イシャーウッドは、話を聞いてイメージしていた男とは違った。小柄で、不機嫌そうに眉間にしわを寄せていた。その黒い眉の太さが、印象に残る顔立ちだった。
眉間のしわが貼りついたまま戻らないのかと思うくらい、彼は表情を変えずに動き、シャロンの前で跪いた。
「お初にお目にかかります。女王陛下」
そして、シャロンの手を取り、その手の甲にキスをした。
「イシャーウッド卿。公式の場では無いのですから、そう堅苦しい挨拶は後でも……」
シャロンが戸惑っているのを察してか、伯父がそんな事を言う。
「いえ、初対面だからこそ、立場を明確にさせて頂きたい」
そんな自己主張をするイシャーウッドを見て、こういうのを慇懃無礼と言うのだろうかと、シャロンは妙に冷静に考えてしまった。
イシャーウッドは跪きシャロンの手を取ったまま、話し続けた。
「今、私どもがこのエル・オークストーに参ったのは、陛下をお迎えするためだけではありません。襲撃事件を機に非常事態となった二国の国交を再樹立するため、契約書を取り交わす手はずになっております」
話し終えるとイシャーウッドは立ち上がり、奥に控えていた従者を呼んだ。従者はシャロンの前に跪いて、持っていた箱を高々と揚げた。中にはびっしりと字の詰まった書類が数枚入っている。
「この度の契約についてまとめました。早ければ明日、調印式を執り行います。もちろん、陛下には調印に臨んでいただきますので、それまでにお目通しください」
「は、はい…… ありがとうございます」
シャロンが書類を受け取ると、イシャーウッドは「それでは、これにて失礼いたします」と言って礼をした。
「従者を付けておきますので、何かありましたらその者に言いつけて下さい。従者の呼び掛けに応じて、私も参りますので」
そう言い残して、足早に去って行ってしまった。
嵐の様に話を畳み掛けられ、シャロンは呆然とイシャーウッドが去るのを見つめていた。ふと伯父の方を見たら、彼も同様に呆気に取られていた。
「あの方は、いつも、あのような感じなのですか?」
「そう、ですね…… あの様に素早く動かれる方なので、今回の様な功績を残せたのでしょう」
「私の夫になる方、だと……」
シャロンがそう聞くと、呆けていた伯父はすぐににんまりと笑った。
「そうです! イシャーウッド卿の働きを聞き、私が縁談を申し入れたのですよ。これ以上に無い良縁です」
伯父は少し興奮気味に、身振り手振りを加えて語りだした。その顔が、シャロンには何故かいやらしく感じられた。
「卿は私達の提言を聞き入れ、ウィルカーディン王家の存続のために動いてくださった。何より、その行いや考えは、我ら一族と利害が一致する。王家の一員として迎え入れるのに相応しい人物だと、そう思いませんか?」
伯父はシャロンの手を取り、さっきの笑顔を顔に貼り付けたまま、小首を傾げる。この質問を肯定せよ、と圧力をかけられている様に感じた。
「ええ、確かにすばらしい方だと思います。ですが……」
「ですが?」
伯父は眉をひそめる。その表情の変化に屈して、一度は彼の望む答えをしてしまおうかと考えるも、やっぱりやめた。
アズールの顔が脳裏に浮かぶ。彼以外の人との結婚など、今のシャロンには考えられなかった。
「どうしても、あの方と結婚しなければいけませんか?」
さっきまでの笑顔とはうって変わって、伯父の顔から表情が消えた。怖いくらいの変わり様だった。
「しばらく預けられていたと言う、あの騎士の事が気がかりか?」
「いえ、その……」
シャロンは伯父の厳しい視線にひるんだ。それでも、伯父はそのまま言葉を続ける。
「忘れなさい。この国でのこれまでの事は全て」
伯父は恐ろしい剣幕でそう凄む。
けれど、すぐに笑顔に戻った。まるで、それまでの事を無かった事にするかの様に。
「あなたは、王族として生まれた者の責務を実直にこなせば良いのです」
この変わり身の早さに、シャロンは全身を強ばらせた。
そうしている内に、後回しにされていた飲み物がようやく届いた。シャロンは勧められたお酒を断り、早々に席を外して寝室に向かう事にした。
もうあれ以上、伯父と顔を合わせていることに耐えられそうに無かった。