4 春の泉
――意地の悪い言い方だったな……
初めてシャロンを農園に連れて行った時の事を思い出しながら、アズールは自分が言った事を後悔した。
『君は、本当は知っているんじゃないか?』
真意を語らず、鎌を掛ける様な言い方になってしまった。でもそれは、シャロンが過去に言った事を忘れている様子だったからだ。
いや、それどころか、かつてアズールに会っていた事すら、彼女は覚えていない。
シャロンに初めて会ったのは、もう何年も前の事だ。
騎士になりたてだったアズールは、使節団の護衛としてウィルカーディンに訪れる機会があった。王宮での会合に使節が招かれた際に初めて王女を目にした。
派手で目立っていた王妃に対し、王女は楚々と控えめな仕草を見せていた。誰に対しても穏やかな微笑みを絶やさない彼女は、成長過程の少女にしては大人びて見えた。
「シャロンでございます。遠くから足をお運び下さり、この宮廷をご覧いただける事を嬉しく思います」
深々とお辞儀をした後、シャロンは顔を上げにこやかに微笑んだ。
その笑顔は、アズールの前に立っていた使節に向けられたものだっただろう。けれど、その場にいる者全てに向けられたのでは無いかと、彼は錯覚してしまった。
昔絵画で見た泉の精霊に似た、優しく包み込む様な笑顔だった。
アズールがシャロンに興味を惹かれる出来事は、それだけでは無かった。
彼女としては何気ない一言であっただろうが、アズールにとっては引き込まれる言葉だった。
「春にだけ現れるという泉があると、王宮にある旅行記に載っていて知りました。林の中にあって、見ているだけで吸い込まれそうになるほど、深い青色の綺麗な泉なんだそうです。そこに、行ってみたいです」
使節に「エル・オークストーで行ってみたい場所はありますか?」と聞かれた際に、シャロンがそう答えた。
《春にだけ現れるという泉》
アズールの家の領地内にも、そう言う泉があった。子どもの頃は、毎年春になると泳ぎに行っていた。その泉は、シャロンが語る様に深い青色をしていた。
それはきっと自分の家の泉と同じだと、アズールはシャロンに教えたかった。けれど、ただの護衛として来ていただけのアズールには、ウィルカーディンの王族と言葉を交わす機会など無い。
会合はつつがなく進行し、その国での役目を終えた使節は帰国した。当然、アズールはそれに同行していた。
任務の間シャロンの姿を見られたのは、その一度きり。
彼女と話す事は叶わず仕舞いだった。
ウィルカーディン襲撃作戦に参加したのも、王女の進退について身分を弁えずに口出ししたのも、その時の無念を晴らしたかったからだ。
今度こそ話が出来るように、欲を言えば泉を見せられるように。
結婚する様な話になって屋敷まで連れてこられたのは、思いがけない幸運だった。
一介の騎士の身分で、ここまで願い通りに事を運べるはずが無い。国王の思惑とアズールの願いが、上手い様に合致したからこそ起きた奇跡だった。
シャロンが屋敷に来てから半月近く経った。
アズールにとって彼女をここに留め置けるのは喜ばしい事だが、相手に取ってはそうではないだろう。それを思えば、春になって泉を見せられる時までいてくれるか、という不安にさいなまれた。
自国を襲撃して来た男と結婚しろと言われた彼女の心境は、安易に推し量れる物ではない。逃げ出したいかも知れない。命を断ちたいと思ったかも知れない。
彼女と顔を合わせるたびに、まだここにいてくれると安堵する毎日だった。
何より怖いのは、シャロンが逃げ場のない状況にいると言う事だ。
シャロンは常に笑顔だった。ここへ来た当初は、その笑顔にぎこちなさを感じた。しかし屋敷で過ごす内に使用人と打ち解けた様で、自然に笑うようになっていた。
だから大丈夫、とは思えなかった。
他に行く場所が無いからこそ、彼女は笑顔で居続けるしか無いんじゃないか。誰にも分からない場所で、得もいえぬ感情をため込んでいるんじゃないか。
ロープが千切れる様に、突然シャロンが消えてしまう日が来るかも知れない。
***
アズールの屋敷で過ごす日々は、シャロンにとって、それまでにないほど穏やかで楽しい物だった。
アズールと一緒に辺りを散策したり、部下を鍛えると言う領内の訓練所を見せて貰ったり。いつしか、屋敷の周囲の林を歩くのが朝の日課になっていた。
屋敷の中では、使用人たちに混じって家事をした。
初めは「私達に任せて下さい」と言っていたが、頼み込めば快くシャロンに教えてくれた。掃除や洗濯や料理、他にこの屋敷で何をしなければならないか。
気さくで明るい彼らは、すんなりシャロンを受け入れてくれた。
そんな中、シャロンは自分のドレスを縫うことになった。しかも、花嫁衣裳を。
「陛下が、王都での新年の会合で私達の結婚をお披露目する機会を設けて下さる。それまで時間があるから、その時の為のドレスでも作ったらどうだ?」
アズールが、屋敷の倉庫にしまっていた色とりどりの布地を出してきて、そう言った。布は、王から褒美として授けられた物だそうだ。
かくして、裁縫のための部屋を一室割り当ててもらい、お披露目のためのドレス作りをする事になった。初めての経験ではあったが、お針子メイドに教えてもらいながらの裁縫はとても楽しかった。
そのドレス作りをしている最中だった。シャロンがこの場所を見て懐かしい気分になっていた、その理由に気がついたのは。
きっかけは、臨時でドレス作りを手伝っていた年配メイドの一言だった。
「こうしてアズール坊っちゃんのお嫁さんの花嫁衣裳作りを手伝う事になるとは、感慨深いわ」
アズールが子供の頃から屋敷で働いていると言う彼女は、レースを編みながらしみじみとそんな言葉をこぼした。
「アズール様の子供時代ってどんなだったんですか?」
ふと気になって、シャロンは聞いてみた。
アズール本人から聞いた子供時代の話は、農園の少年達とよく遊んでいたと言う物だった。男兄弟がいない分、彼らと遊んだ時間が本当に楽しかったそうだ。
でも、本人以外から子供時代の話を聞いたことは無かった。その分、周りから見たアズール少年がどうだったか、気になっていたのだ。
「そうですね。小さい頃は、とても甘えん坊でしたね。私が世話係を担当していたのですが、お母様からなかなか離れてくれなくて手を焼きましたわ」
「そう、なんですか? なんだか意外です」
「本当に小さい時の話ですよ。大きくなったら、農園の子供と一緒になってメイド達にイタズラを仕掛けるくらい、やんちゃになりましたけど」
それもまた意外だった。イタズラの話はアズールから聞いたことが無かったから。
「農園の子供達と喧嘩したり、お父様に叱られた時には、よく林の泉のそばで泣いていらっしゃいました。そんな坊っちゃんを迎えに行くのは、私の役目でしたのよ」
――泉?
メイドの話を聞きながら、シャロンはある事が気になった。
――林の泉の話なんて、聞いたこと無いわ。
近くの林と言うとは、屋敷の周りの林の事を言うのだろう。近頃は朝に林を散歩するのが日課になっているが、そこに泉があることをシャロンは知らなかった。
「あの……。近くの林に、泉なんてあるんですか?」
そうシャロンが聞いてみると、二人のメイドは顔を見合わせた。すると、年配のメイドは口に手を当てる。
「そうね、奥様はご存知ありませんよね」
「ええ、そうね。近くの林に泉はあるんですが、今の時期は枯れているんです。春から初夏にだけ見られる、特殊な泉なんですよ」
それを聞いて、シャロンは気がついた。
彼女は、その泉の特殊性について本を読んで知っていた。その本には沢山の風景の絵が載っていた。それらはインク一色で緻密に、そして正確に描かれていた。
その絵はまさに、アズールの屋敷や農園の風景を描いた物だった。
***
晩餐の時間になり、アズールとシャロンはいつものテーブルの、いつもの席に着いた。そしていつも通り、シャロンは使用人と過ごした時の事を話した。
今日も楽しそうに話すシャロンの姿を見られる事に、アズールは感謝していた。
「それで、アズール様の子供のころの話を聞いたんです」
シャロンがそう切り出すと、彼女は持っていたパンを皿に置き、口に手を当てた。
「ごめんなさい。自分の話を陰でされるの、嫌ですよね」
「いや、そんな事は無い。まあ、確かに、気恥ずかしいが……。どんな話をしたんだ?」
そう問われると、シャロンは返答に困った様にしていた。
「ええと……」
そう言いながら、シャロンはアズールの目を見据えた。あまり無い事だけに、アズールは意表を突かれた。
「嫌な事があると、よく近所の泉のそばで泣いてらっしゃったと」
ドキリとした。近所の泉と言えば一つしかない。彼女がかつて語った《春にだけ現れるという泉》こそがそれなのだと、今が言う時では無いか。アズールはそう思って、一人冷や汗を流した。
「春になると現れる珍しい泉なんですってね。昔読んだ本に、そう言う泉の事が書かれていて、ずっと見てみたいって思っていたんです」
そう語るシャロンの目線は、昔のことを思い起こしているのか、虚空を捉えている様だった。彼女のどこかうっとりとした表情に、アズールは見入ってしまう。
そうしていると、二人とも無言になってしまった。
「あの……」
シャロンに声を掛けられ、アズールは姿勢を正す。
「そうだな、ぜひ君に見せたい。不思議なくらい青くて綺麗な泉だから」
言いながら、アズールは少し焦っていた。本当は過去に二人は出会っていたんだと、今言うべきだと思っていたから。
―—こんな事言ったら、気味悪がられるんじゃないか?
それが怖くて、なかなか言い出せなかった。
「ええ、見せて下さいね。春になったら」
「ああ、春になったら。一緒に見よう」
二人、そう約束をした。
***
――旅行記の事、言い出せなかったな。
次の日、裁縫の部屋で縫い物をしながら、シャロンは昨晩のアズールとの会話を思い起こしていた。
『君は、本当は知っているんじゃないか?』
その答えが分かったから伝えようと思ったのに。
あの時なぜアズールがそんな事を聞いてきたのか、彼はシャロンの何を知っているのか。それを考え始めたら聞くのが怖くなった。
「粗方できましたし、一度着てみましょうか?」
お針子メイドがそう言って、作りかけのドレスを着てみることになった。一度着ている所を見て、この後どう装飾を加えていくかを考えたいのだそうだ。
純白のドレスは、肩の部分が大きく開いていて、着ていると気恥ずかしいし少し肌寒かった。
「肩の所に少しレースを追加しましょうか」
「それに袖も長くしましょう。パーティーの時期は寒いですし」
「よろしいですか? 奥様」
「ええ、任せます」
ここのメイドたちは本当に気が利く。シャロンのさりげない仕草に気づいて、懸念を補う案をどんどん出してくれた。
トン、トン
そうしてメイドたちと話をしていると、扉が外側からノックされた。
「あ、はーい……」
シャロンが返事を言い終わるよりも先に、アズールが慌てた様子で入って来た。
「シャロン、済まない。出かける支度をしてくれないか?」
そう言った瞬間、アズールの動きが一瞬止まった。
「もう、出来たのか?」
シャロンのドレスを指して言ったのだろう。アズールは青い瞳を見開いて、シャロンの姿を呆けた様に見ていた。
素肌を大きく露出するその姿を見せる以上に、まじまじと見て来るアズールの視線が気恥ずかしくて、シャロンは肩をすぼめた。
「いえ、まだ作りかけです。今、装飾をどうしようか話していたところで……」
「そう、そうか……」
すると、アズールの顔に影が落ちた。彼は口元に手を当て、眉間にしわを寄せる。その仕草は苦悩している様に見えた。
「どうされました?」
「ああ、その……」
心配になり、シャロンはアズールに歩み寄り、俯きがちな顔を覗き込んだ。
それで一瞬、アズールは驚いた顔を見せたが、すぐに目を伏せ首を振った。
「いや、後で話そう」
何のことかとシャロンは気にかかるが、彼にとっては話づらい事の様だ。アズールは気持ちを切り替える様に、彼女から一歩下がってから、こう告げた。
「急で悪いが、王都に行く事になった。君にも来てもらう。」
「一緒に?」
「ああ。詳しい事は、道中話そう」