3 懐かしい場所
翌朝。筋の様に入り込んだ朝日を感じ、シャロンは目を覚ました。隅の床の上で横になっていた彼女は、ゆっくりと体を起こして部屋の中を見渡す。
殺風景な地下牢でも無い、王宮の自室でも無い、見慣れない内装をしばらく眺めていると、だんだんと頭がはっきりして、思い出した。
ここは、王様に言われて結婚することになった騎士の家。
騎士のアズールがシャロンの寝室としてあてがった部屋だった。
シャロンは昨日の事を思い起こす。牢屋から出され、自国を襲撃した騎士の所有物になったと思ったら、突然その騎士に求婚された。
詳しく聞けば、国の事情も色々あっての仕方なしの結婚で、形だけの夫婦になる事は間違いないだろう。
でも、昨日のいたせり尽くせりな対応から、アズールは案外結婚に乗り気なのでは無いかと、思いあがったことを考えてしまっていた。夫婦としての関係を、直接的に言えば体の関係を望まれているんじゃないかと。この主人の部屋の様な広い寝室を宛がわれた時、シャロンの頭にそんな馬鹿な懸念が浮かんでしまった。
だから、夜はいつアズールが部屋にやって来るのかと気が気では無かった。シャロンは落ち着いてベッドで寝ていられなくて、部屋の目立たない所に隠れ潜んでいたのだった。一晩中。
結果、何か起こる事も無く、そのまま夜が明けたと言う訳だった。
「私、馬鹿すぎる……」
シャロンはその場にうずくまったまま、手で顔を覆った。アズールがどういう人か分からないとは言え、彼に対して失礼な想像をしたと、猛省したのだった。
トン、トン
「シャロン、起きているかい?」
アズールの声だった。何事も無く朝を迎えられたことにホッと一息付いている所だったので、シャロンは飛び上がるほど驚いた。
「は、は、はいっ!」
上ずった変な声を出し、慌てて立ち上がる。すると、
ごん!
「い……った……」
後頭部を強く打った。シャロンが寝ていたのは床の上、テーブルの下だったことを、後頭部に走る痛みと共に思い出した。
「どうした?!」
今ので驚いたのか、ドアの向こうのアズールが慌てて入って来た。彼はシャロンの姿をすぐには見つけられず、しばらく部屋を見渡してから、ドアから入ってきた人間の死角になる様な所でうずくまる彼女を発見した。
「頭をぶつけたのか?」
シャロンは頭を押さえながら、近寄って来るアズールの姿を見て目を見張った。
『あなたって、ドジをするために生まれてきたのかしら? 』
シャロンの頭の中にミレイアの嫌味が浮かんだ。
王宮でこんな事をしても、たいていはドジを指摘され、その始末を自分で付けるよう言われるのが常だった。
でも、アズールはシャロンの頭にそっと触れ、さすった。
「大丈夫か? 良く見せてくれ」
アズールは、シャロンが手で押さえていた当たりをまじまじと見た。シャロンの手を取って。
―—何でこんなに優しくするの?
自分のドジで起こった事なのに、そんな風に心配されるとどう取り繕っていいのか分からない。
それに……
―—近い!
アズールがシャロンの頭を抱え込む様にして見ていたので、彼女の顔の直ぐ近くに襟の空いた彼の胸元があった。
経験したことの無い事態に、シャロンは顔を真っ赤にして硬直した。
「目立った怪我は無さそうだな。どうだ? 今もまだ痛むか?」
アズールはシャロンの異変に気付いているのかどうなのか、怪訝そうな顔でシャロンを覗き見る。
シャロンはどぎまぎしながら、ぶんぶんと首を振った。
「いいえ! 大丈夫です!」
「それは良かった。念のため、冷やしておいた方が良い。メイドに頼んで用意させよう」
そう言って、アズールは立ち上がり、部屋の様子をもう一度見回した。
「どうしたまた、そんな所にいたんだ?」
ベッドのそばではなく、部屋の隅でうずくまっていた事を不審に思ったようだ。
「た、たまたまです! その、たまたま……」
シャロンは作り笑いをした。
夫婦の関係を迫られるのが怖くて部屋の隅に潜んでいた、とはとても言えない。
アズールはそんなシャロンを見て穏やかに笑う。
「そうか、まぁそんな事もある。気にするな」
シャロンは、深く追及されなかったことに、ホッと一息ついた。
一息ついたと思ったら、アズールは部屋を出る前にこんなことを言う。
「朝食が済んだら、出かける支度をして玄関まで来てほしい。親睦を深めるためにも、一緒に辺りを散策しよう」
***
そんな訳で、その日はアズールと近隣の散策をする事になった。
「馬で行こうと思う」
そう言って、アズールは馬屋へシャロンを案内した。
「あの、馬ですか……? ごめんなさい、乗馬の経験は無くて」
「大丈夫だ、私の前に乗ったら良い」
「ま、前?!」
「嫌なら後ろに乗るかい? それだと、落ちたりしないか心配ではあるんだが」
「そ、そ、それで、お願いします……」
「分かった。じゃあ、しっかりつかまっててくれよ」
シャロンはアズールの手で馬に乗せてもらった。抱きかかえられるようにして乗せられたのだが、その過程に戸惑うシャロンをよそに、アズールは涼しい顔をして手際よくこなしてしまう。
何だか、こうして自分ばかり意識してどぎまぎしているのが、恥ずかしい。
国の事情での仕方なしの結婚だとしても、アズールはそれを前向きに受け入れている様に見えた。
シャロン自身も、それは受け入れているつもりだ。でも、心の方が追いついていかないのか、どうにも意識しておかしな言動を繰り返してしまう。
『結婚してくれないか?』
そう言われたときから、ずっと彼のペースに飲まれたままみたいだ。
―—だって、あんなに優しくしてくれるんだもの。
この結婚は本当に、シャロンにとって都合が良い。都合が良すぎて、どこかに落とし穴があるんじゃないかと不安になるくらいだった。
馬に乗せられ、屋敷を囲む林を抜けると、様々な色彩を見せる畑が広がっていた。
畑の合間合間には小さな民家や、何の目的で建てられたのか一見して分からない塔が建っている。その奥には針葉樹の森林の他、葉が赤茶けた白樺の木々があり、さらにその奥には雄大な山岳が霞んで見える。
何故だろうか、その風景をどこかで見たことがある気がしていた。少なくとも、あの山岳の形をシャロンは知っている。
「あの……あれって、精霊山?」
「ああ、そうだよ。ウェルカーディンからも、あの山は見えていたかい?」
「い、いいえ。その、精霊山は本の挿絵で見て知っていた物ですから……」
「そうか、まあ、有名な山だからな。それより、あっちを見てくれないか?」
アズールは、シャロンの注意を畑の方に向けた。
アズールの農園では様々な作物を育てている様で、まだ青々とした野菜が植わっている畑もあれば、今まさに収穫中の畑、収穫を終え土のままの畑もあった。
各所には働いている農夫たちの姿があり、土の道の縁にはいくつもの藁の山が出来、草地には牛が放たれている。
アズールは、それぞれの場所を指差してはどういう所か紹介してくれた。彼は畑で何を育てているのか把握していて、あそこはニンジン畑、あれはセロリを収穫している所、あそこはもう収穫を終えた所だと、スラスラと説明した。
そこかしこで働く農夫達は、シャロン達を見つけると手を振ってくれる。それに気づいたアズールも、説明を中断して手を振り返していた。
「この辺りの農園は、祖父の代から我が家が受け継いで来た土地だ。彼らはみんな、祖父を慕ってこの地に来た人の子孫だよ」
日が傾きかけた頃、アズールはシャロンにそう説明した。畑を見渡せる場所で馬を歩かせながら。
「じゃあ、アズール様はここの領主なのですね」
「ああ。ただ、貴族みたいに世襲で受け継げるものではない。騎士としての務めを果たさなければ取り上げられてしまう様な土地だ」
「そういうもの、なのですか?」
「そうだな。騎士の家と言うのは、一族の働きがあって初めて成り立つ。私の働き次第では今の生活も変わってしまう。もちろん、そうならない様務めるつもりだが……」
そこで、アズールは言い淀んだ。シャロンは後ろに乗っているから、彼の表情を見ることができない。
「こんな私でも構わないか?」
「え?」
意外だった。結婚の計画に事前に関わっていたアズールが、そんな風に自信無く聞いてくるとは思わなかった。
「私は、君の国の襲撃に関わった」
「でも、それは、騎士の務めで、仕方の無い事では……」
「そう、思ってくれるのか?」
アズールは振り返り、シャロンを見下ろした。
「結婚の話をした時も、もっと君に嫌がられるのかと思っていた。でも、思いがけずすんなり受け入れられて。それで、少し調子に乗っていた様だ。君が拒否できる立場にない事に気づかずにいた」
「それは、アズール様も同じでは? 王様のご命令だったんですよね?」
「そうだな。そういう話だった」
アズールは力無く笑って、また前に向き直った。
「君は優しいな。そう優しくされると、また調子に乗ってしまいそうだ」
——優しい?
それは、シャロンの方こそアズールに対して思っていたことだった。
初めて会った時から、アズールは優しかった。
馬車に乗り込む前、シャロンが怖気づいて歩けなくなっても、彼は動き出すまでただ待ってくれた。
いつも、強引な事はせず、シャロンの意思を気にかけてから接してくれていた。
しかも、シャロンはその優しさを誤解して、きっと裏があるのだと失礼な想像までしていた。彼に言わせっぱなしでは卑怯だと思い、シャロンは慌てて口を開く。
「あの、アズール様の方こそ優しい方だと思います」
「そ、そうか? 今も無理を言って馬に乗せてしまったかな、と反省していたところだったんだが」
「そんな事は、無いです。嫌がっているように見えたら、ごめんなさい。こういうことに慣れていないのが問題なので……」
シャロンはそっとアズールの背中に頭を預ける。その背中は大きく、暖かかった。
素直になろう。
優しい人だと、シャロン自身がアズールを見てそう感じたのだ。ミレイアや、彼女に与する人たちを思い浮かべて、その優しさを疑うのはやめよう。
彼を信じよう。
それからしばらく、アズールは無言だった。
彼の顔は見えないけれど、その時は不思議と怖くなかった。何も嫌なことを言わないと、そう信じる事が出来たからだろうか。
「農園を見せてもらえて、楽しかった。ありがとうございます」
素直な気持ちを伝える事が出来た。
「そうか、良かった」
アズールはシャロンの言葉にそう短く返し、後は黙り込んだ。
——照れたの、かしら……
そう思うと、シャロンの胸の奥もむず痒くなってしまった。
「わ……私、自国から出たことが無かったんです。国でも、こういった農園を訪れたことが無くて。こんな風に農園で働く人たちを見るのも初めてで。収穫をしている人達とか、牛をたくさん連れて歩いている人とか……」
胸のむずむずを何とか誤魔化したくて、シャロンは何とか話をしようとする。それで妙に早口になってしまった。
アズールの背中すら気恥ずかしくて見ていられなくなり、夕日で赤く染まり始めた農園に視線をそらした。
そこでふと、昨日アズールの屋敷に着いたころから感じていた事を話してみようと思った。
あの、どこかで見たことがある様な奇妙な感覚を。
「ここを見ていると、何だか懐かしい様な気分になるんです。どこかで見たことがある様な……。知らないはずの場所なのに、不思議ですよね」
シャロンはしばらく、日が沈んで辺りの色彩が変わるのを見ていた。
アズールは「そうだな」と呟いてからは無言だった。彼も同じ景色を見ているんだなとシャロンは思う。
「君は、本当は知っているんじゃないか?」
「アズール様?」
シャロンは驚いてアズールの方を向くと、彼はじっとシャロンを見下ろしていた。
とても穏やかな笑顔で。その顔を向けられるだけで、相手に抱き寄せられた様な、奇妙な心地になった。
「何でそんな風に、お思いになるんですか?」
「さあ、何でかな」
アズールは微かな声で囁いた。そのかすれ声は、耳をくすぐる様な声だとシャロンは思った。
「思い出したら教えてくれないか?」
そう言った時、冷たい風が吹いて、アズールの鳶色の髪をなびかせた。
その口ぶりは、まるでシャロンが何か知っている事を分かっているみたいだった。