2 ぼろ姫、歓迎される
アズールの屋敷に着いたころには、辺りはすっかり暗くなっていた。
王都から半日ほど掛かっただろうか、その程度の、王宮から付かず離れずの距離に彼の家はあった。
王宮から出たことの無いシャロンに取って、騎士が住むような郊外の家と言うのは初めて見る。
そのはずなのに、何故だろう、その家の外観を見ると、どこか懐かしい様な気持ちになった。
「お帰りなさいませ」
使用人らしき数名の男女が、屋敷の玄関を出てアズールを出迎えた。
「ああ、ただいま。早速だけど、この娘に湯あみをさせてやってくれないか」
アズールはそう言って、シャロンの肩を軽く押した。
シャロンは、アズールの大きな体に隠れる事も出来ず、使用人達の前に晒し出されてしまった。
《ぼろ姫》
シャロンはかつて、召使い達にそう呼ばれていた。それは、一回り大きな侍女の服の裾を引きずりながら掃除して回る、そんな彼女に付けられたあだ名だった。
そのあだ名を彼女に付けたのは、継母のミレイアだった。
母が亡くなってからすぐ王妃の席に収まったミレイアは、初めは気さくで穏やかな人に思えた。けれどすぐに彼女は、家事教育と称してシャロンを顎で使うようになった。
『愚図ね、これくらいすぐにやりなさい』
シャロンはそれを教育だからと一応は納得し、それまで甘やかされていたと反省したものだった。
けれど、懸命に彼女の言う事を聞く内、侍女達からも雑用を言い渡される様になった。
高価なドレスを汚さない様にと、侍女が着古したぼろぼろの服を与えられ、ミレイアの指示に従う日々を送る事になった。
牢獄から出て来たばかりの彼女は、あの時よりもひどい身なりをしている。かつて召使いたちにそうされた様に、嗤われるんじゃないかと思って怖かった。
けれど……
「お話は聞いています。シャロン様ですね」
男の使用人が優しく声を掛け、屋敷に入るよう促した。
「小柄で可愛らしい方。髪を結いあげたらそのお顔も映えそうね」
若いメイドが楽しそうに褒めて来る。
「あ、あの……」
使用人達の思わぬ反応にシャロンは戸惑い、彼らに手を引かれながらアズールを振り返った。
彼は笑顔で彼女を見つめていた。
◇ ◇ ◇
『結婚してくれないか?』
その言葉の真意を、シャロンはどこまで探る事が出来ただろうか。
「結婚? それは、どういう、ことでしょう……」
驚きのあまり、シャロンは言葉を途切れ途切れにしながら答えた。
「悪い、突然こんな事を言っては困るだろうな」
アズールの言葉に、シャロンはぶんぶんと首を振っていた。いや、彼の言葉通り困ってはいるが、そこではっきり答えるのは良くない気がした。
「実のところ、はじめから君を結婚させるために、地下牢から連れ出したんだ」
「え? え?」
訳が分からなかった。確かに、下賜された娘を主人がどう扱おうが自由だ。
でも、何で自分なのか。
他国に名が知れるほど公務に出される事もなく、ただ王宮に閉じこもっていただけ。《ぼろ姫》のあだ名は悪い様に噂され、ただの王女であったころから結婚の話は出てこなかった。
でも、アズールの説明を聞いてみると、一応は納得できた。
捕虜の中に王家の人間がいれば、ウェルカーディンの臣下がそれを利用して反乱を起こす懸念がある。奴隷にしたところで、占領に納得できない人間からしたら関係ないだろう。
だからせめて、王女には結婚して王家の籍から離れてもらおう、という話だった。
「王女が結婚するに相応しい人物に下賜する事になったのだが、その人物として陛下が選んだのが私だった」
アズールにとっても思いがけずに決まった話だったのだろう。困った様に笑っていた。
少しばかりアズールの心情が見え、シャロンは安心した。そういう事なら、結婚の話も受け入れられそうだ。
でもそうなると、アズールが気の毒な気がした。
『本当に愚図ね。掃除一つまともに出来なくては、召使い達に示しがつかないでしょう?』
ミレイアの言葉が、シャロンの頭の中でこだまする。こんな娘を嫁にしたら、きっとがっかりするだろうなと。
そう思いながらも、シャロンはその話を受ける事にした。もちろん、それ以外に選択肢が無かったから、と言うのもある。
「そういう事なら、その、よろしくお願いします……」
シャロンは覚悟を決めて結婚の話を受けた、つもりだったが……。
——結婚? この私が?
答えた瞬間身体が熱くなった。
その時になってはじめて、自分が結婚すると言う事を意識したのだった。
「そうか、受けてくれて良かった」
アズールはそう言って、どこかほっとした様に笑った。彼だって主君に言われて結婚する様なものなのに、嫌な顔ひとつ見せない。
大人だな、とシャロンは思った。
——粗相の無い様にしなきゃ。
シャロンは自分にそう言い聞かせた。
◇ ◇ ◇
「出来ましたよ、奥様」
そう言って、メイドが手鏡を手に取る。彼女は結い上げたばかりのシャロンの髪を、ドレッサーの鏡と合わせ鏡にして見せてくれた。
シャロンはメイド達の手により体を洗われ、用意されていたドレスを着せられ、ドレッサーの前に座らされて髪を結われていた。
「ありがとう……」
「どういたしまして。こちらこそやり直しして時間を取らせちゃって、ごめんなさいね」
若いメイドは楽しそうに笑いかける。
彼女ははじめ、シャロンの髪をアップに結い上げた。しかし、先に着せていたドレスに似合わないから、と言う理由で後ろ髪を残す形に結い直したのだった。
湯浴みも着替えも、彼女たちの手によって行われた。自分で出来るからと断ろうとすると、アズールの家のメイドたちは笑顔でこう答える。
『そんな事言わず、やらせてくださいな』
『私達のわがままなんだから。うんと素敵にしますよ』
尽くしすぎなぐらい、お世話されている気がした。
シャロンが着せられたドレス。柔らかな生地を使って仕立てられたこれだって、
『ご主人様に言われて、特別に仕立てたんですよ』
とメイドが言っていたし。
小柄なシャロンにぴったり合うので、古着と言うのも考えづらい。特別に仕立てたと言うのも間違いないだろう。
それに、メイドは、シャロンを《奥様》と呼んだ。
アズールは、結婚してくれないか、なんて相手の意思を覗う言葉を選んでいたけれど…… 使用人にそう呼ばせている時点で、彼の中ではもう決定事項の様だ。
***
支度が整うと、シャロンは食堂に通された。
食堂には10人掛け程度の長いテーブルが一つ。そこにはテーブルクロスが掛けられ、二人分の食器が用意されていた。
「来たか」
アズールはテーブルのそばに立ち、シャロンが来るのを待っていた様だ。慌ててお辞儀をすると、アズールはそれを制止した。
「楽にして良い」
—―楽にして、と言われても……
シャロンは未だにこの状況に慣れずにいる。
目の前にいるアズールは、経緯はどうあれシャロンにとっての恩人だ。彼がいなければ、今もなお地下牢の中で一人、冷たい食事を取っていたことだろう。そのまま一生牢に繋がれたままだったかもしれない。
だから、敬意を持って接しなければ、とシャロンは思う。
「本当に、ありがとうございます」
シャロンは長いお辞儀をして、謝辞を述べた。
「牢にいたころには、こんな風に明るい部屋で食事が出来るとは、思ってもみませんでした。湯あみも、着替えも、髪結いも、お食事まで、頂いてばかりで申し訳ないくらいです。こんなに良くして頂いて、感謝してもしきれません」
主人を前にした召使いの様に、シャロンは長々とお辞儀をしながら顔を上げる事が出来ずにいた。
これで良かっただろうか、変な所は無かっただろうか、アズールは満足しただろうか。不安ばかりが積もって顔を上げるのが怖かったからだ。
すると、はぁ、とアズールのため息が聞こえた。その声に、シャロンの背筋が泡立つ。
「楽にして良い、と言っただろう」
そう言って、アズールは靴音を立てながらシャロンに近づく。
――怒らせた?
シャロンは顔を上げられないどころか、目をぎゅっと瞑ってしまった。
「顔を上げて」
シャロンは彼の言葉通りに顔を上げる。そうして見たアズールの顔は、思いのほか穏やかだった。
「座って。食事にしよう」
アズールの言葉、そして使用人に促され、シャロンはアズールの向かいの席に座った。
目の前に届けられた料理を見ると、そちらの方に気を取られた。並べられた料理はどれも豪華で、ミレイアが『シャロンのために』と言って定めてきた質素な食事とは、雲泥の差だった。
「いつも、こんな食卓なんですか?」
シャロンはあまりの料理の豪華さに驚いて、つい独り言の様に聞いてしまった。
「あ、ああ、晩はいつもこれくらいだ。君の暮らした王宮とは勝手が違うだろうが……」
「いえ、そんなことはありません! とても美味しそう」
彼に何か勘違いさせたかも知れない、とシャロンは思った。
仮にも王族が毎日パンとスープだけだなんて、想像しないだろうなと。そうなると、さっきの一言は嫌味に聞こえたかも知れない。
「美味しい!」
シャロンは一口食べる度に努めてそう言う事にした。実際、どの料理も美味しかった。
「美味しい。これも……これも、美味しい!」
シャロンが何度もその言葉を繰り返していると、彼女を眺めていたアズールが笑いだした。
「す、すみません。はしたなかった、ですよね……」
「いや、そんなことは無い。気に入ってくれた様で何よりだ。料理人も喜ぶよ」
アズールは笑いを堪えながら手を振る。
「私一人で食べていたら、そんな風に言う事も無くてね」
そこでふと、屋敷に着いてからアズールと使用人以外に誰にも会っていない事に気がついた。食卓も二人きりだったし。アズールの家族はいないのだろうか?
「あの、一人と言うのは……?」
聞いてしまってから、シャロンは慌てて口をつぐんだ。
――馬鹿だ。相手が言いづらい事かも知れないのに、ずけずけと聞いてしまって。
でも、そんな心配を余所に、アズールは話してくれた。
「そうだな、一人きりだ。姉は遠方に嫁いだし、両親はもう死んだ」
「疫病でね。私はその時まだ騎士見習いで王都で暮らしていた。報せを聞いた時にはもう手遅れで、看取る事も出来なかった」
そう語るアズールの顔は寂しげで、シャロンは、やっぱり聞かなければ良かったと思い、顔を陰らせた。
アズールの様子を見て、シャロンは王宮でたった一人食事をした日々の事を思い出した。ただ軽んじられて一人だったシャロンと比べるのは、おこがましいかも知れない。でも、寂しいのは一緒だろう。
そこで、アズールは苦笑した。暗い空気を散らそうとしている様だった。
「暗い話をしてすまないな。もう過去の話だし、気にしないでくれ。君に知っておいて欲しい話をしたまでだ」
アズールはどこか気恥ずかしそうに、ガチャガチャと音を立てて皿の上の肉を切った。
「まあ、なんだ……」
アズールはフォークで肉を刺したまま、シャロンを見た。また、馬車で見た時の様にまっすぐな瞳で。
「今日からは二人じゃないか」
その時の彼の顔には、少しばかり笑みが浮かんでいた。こうして二人で食事をする事を歓迎している様だった。
「そ……そうですね……」
アズールの言葉に、シャロンの心はふわふわと浮きたった。
彼から視線をそらすために、皿の上の野菜に目を向ける。その野菜にフォークを刺そうとするも、何故か手が震えてコロンと転がってしまった。
―—どこまで、本心なの?
シャロンは、馬車の中でのアズールとの会話を思い出す。
あの時、国王の計画に従って結婚することになったと言う話をされた。その話を聞いたとき、彼は仕方なしにこの結婚の話を受けたのかと思ったけれど。
今日一日の彼の行動を思い出してみるだけでも、嫌々受けたのではない、歓迎しようと言う気持ちが感じられた。
結婚の話。一応は納得したが、腑に落ちない事があった。
一つは、ウェルカーディンの王族が利用される事を懸念していたなら、殺してしまえば済んだのでは無いかということ。
一つは、アズールが『自分が進言した』と言っていた事。その進言によって、元王女を結婚させようという流れになったんじゃないか。
——あれ? だったら、結婚の話はあの人から?
それはさすがに思い上がりが過ぎる。ウェルカーディンの土地が落ち着いたら、この結婚はきっと無用になるだろう。だから、あまり思い入れない方が良い、とシャロンは思った。