転生したら悪徳王女の像だった件
ルア共和国の首都の中央広場には一体の銅像が置かれている。
『幸せな王女』と呼ばれるその像のモデルは、二百五十年前に実在した王国の姫だ。
丘の上の王城に住み、城の中で贅沢の限りを尽くした王女は、貧しい民衆の苦労など知る由もなく生涯を閉じた。
その後王国は滅び、民主主義の国家が誕生した。それが現在のルア共和国だ。
民主主義の素晴らしさを讃え、歴史を忘れないよう、そして広場に華を添えるためにと、百年ほど前に『幸せな王女』の像がたてられた。
ブロンズ像だが、表面には金箔が貼られてキンキラ金、目は真っ青なサファイアで、胸元には大きなルビーが、ドレスの裾には煌めく小さなダイヤモンドが星屑のように散りばめられている。
そう、つまりは超高級品!
無防備に置いていたのでは、すぐに盗られてしまうことは火を見るよりも明らかだ。
五百キロ近く重量のある銅像ごと盗むのは困難にしろ、宝石や金箔を剥がされてはたまらない。
そこで設置者である国は、優秀な結界師に依頼して幸せな王女像に強力な結界を張った。
幸せな王女像を好きなだけ眺めることはできても、何人たりとも触れることはできない。
雨つゆもしのげて、王女像は百年経った今も新品のようにピカピカで美しい。
毎日変わらず首都の中央広場で輝きを放ち続け、定番の待ち合わせ場所として使われている。
そんな王女像の中には魂が入っている。
『中の人』の名はエイヴリル・ブルフォード。『幸せな王女』のモデルとなった、王女本人だ。
十七歳で病死したエイヴリル・ブルフォードは輪廻転生し、気付くとこの銅像の中に意識があった。
身動きできない銅像に転生したエイヴリルは、神を恨んだ。
どうして普通の人間として生まれ変わらせてもらえなかったのか。
(私が…悪徳王女だったから?)
エイヴリルは知らなかった。王国の姫として生まれ贅沢三昧に暮らしていたが、それが贅沢であると知らないまま死んだのだ。
しかしこの銅像に生まれ変わり、後世の人々に自分がどのように思われているのかを知った。
それはある日のこと、
「ねえお母さん、この金ピカのお姫さま、どうして幸せな王女って言うの?」
「それはねぇ、昔の王国のお姫さまで、何も知らないで能天気に暮らしていたからよ。お気楽でいいわねぇ、幸せねぇってこと」
「ふーん、馬鹿ってこと?」
「無知は罪ってことよ」
十歳くらいの少女とその母親の会話にショックを受けた。
『幸せな王女』という微笑ましい愛称は蔑称だったのだ。
知らないという罪……それを咎められ、軽蔑され、そしてこのように何百年経っても公衆に晒され続けなくてはならないのか。
この像を作った人間を恨んだ。この像を作ることを決めた権力者を恨んだ。この国と、この広場を通り過ぎていく人々、皆が憎らしかった。
怨念を蓄積してどのくらい経ったか。
だんだんと心が死んでいき、怒る気力も失った。枯れ木のように涸れていく。
無に徹した。無でなければ永遠のような時間はやり過ごせない。
張られた結界のため、錆びつくことも破損することも許されない。
ああ、いっそ壊れてしまいたいのに。
どうか誰か、私を滅茶苦茶に破壊して。
月の見えない闇夜に、旅人らしき黒づくめの男が一人広場にやって来て、エイヴリルの前でピタリと足を止めた。
真っ暗な夜でも、全身金ピカのエイヴリルは輝きを放っている。
「ほう、これは……なかなか良い素材だな」
他に誰もいない深夜の広場で、黒装束の男は大きな独り言を口にした。
酔っ払い特有の据わった目でエイヴリルをじいっと眺めたあと、
「頂いていくか」
おもむろに手を伸ばしてきた。
こんなことは割りとよくある。目に見えない結界に弾かれて、突き指して断念する者が続出だ。
はいはい、お生憎様。そう思ったエイヴリルだったが次の瞬間、信じられないことが起きた。
すっと伸びてきた両手が結界を突き抜けて、エイヴリルの腰をがっと掴んだのだ。
(えっ!!)
これまで誰も破れなかった結界を簡単に破ったことに仰天した。が、掴めたからといって持って帰れる訳がない。
重量五百キロ近くあるブロンズ像なのだ。
が、さらに次の瞬間には全身がふわっと持ち上がった。
男は軽々と台座から像を持ち上げると、よっこらしょという掛け声を発し、肩に担いだ。
百年間固定されていた視界が大きく揺れ、真上を向かされたエイヴリルは夜空を見上げた。
曇天で月は出ていないが、弱々しく光る星が微かに見える。
無に徹していた気持ちが突然の出来事に動転し、ぐらりと目まいがした。ぐにゃりと空気が淀んで歪む。
その歪みに吸い込まれるようにして、エイヴリルと黒装束の男の姿は闇夜に消えた。
「トールヴァルド様。酔っ払って道端の置物を持って帰る癖、いい加減やめて下さい」
「いやいや、今回は使える物だろ。金と銅と宝石だぞ。素材として使え」
話し声が聞こえ、幸せな王女像の中のエイヴリルは目を覚ました。
王女像は常に目を開いて満面の笑みを浮かべているが、中の人のエイヴリルは寝たり起きたりだ。意識を失うこともあるのは初めて知った。
「いえいえ、トールヴァルド様。この像は呪われています」
「人間界にある呪いなど、大したもんじゃないだろ。お前がチャチャッと解けば良い」
「それが申し上げにくいのですが、トールヴァルド様。この像の呪いは大変強力で、私では力負けしそうなのです。調べましたところ、この像は百年物で、像のモデルとなった悪徳王女の魂が入り込んでいます。積年の恨みを溜め込んでいて、下手に呪いを解こうとすると危険かと存じます」
エイヴリル自身も自覚していることだったが、改めて人の口から聞くとゾッとした。
しかも、いつの間にかそのように恐ろしい「呪いの像」となってしまっていたとは。
(ていうか、この人たちは一体何者なの……? まさか……悪魔?)
人間界がどうのと口にするあたり、人間ではないのだろう。
そもそもあの結界を簡単に破り、等身大の銅像を軽々担いで持ち帰ったのだから、普通の人間でないことは確かだ。
呪いの像ことエイヴリルは、見える範囲で観察した。
ここはまるでお城のように凝った装飾の調度品が置いてある。しかし天井は低く、照明は薄暗く、隠れ家のようなひっそりとした雰囲気だ。
エイヴリルを連れ帰った黒装束の男は今はマントを脱いでいる。こちらに背を向けているため、顔は見えない。
対面の男は二十歳くらいの風貌だ。銀髪を後ろで一つに束ね、紅い瞳が薄明かりの中に浮かんでいる。
青白くまるで死人のような顔色だが、恐ろしく美しい造形をしている。
こちらも真っ黒いローブを羽織っている。
耳の先端が尖っているのを確認し、間違いないこの二人は悪魔だとエイヴリルは確信した。
「アレクシ、お前にも解けない強力な呪いだと? 嘘をつくな。私の酒癖の悪さをたしなめるために、そんな嘘を言ってるんだな」
「違います。主君に嘘は申せません」
「そうか、まあいい。では、この像の呪いは私が解こう」
「お待ち下さい、トールヴァルトさっ…」
手下の悪魔の静止を無視し、トールヴァルト様と呼ばれた悪魔は王女像に向かって手のひらをかざした。
そして何やら呪文のようなものを唱えると、幸せな王女像がぐにゃりと動いた。
悪魔二人が咄嗟に防御態勢を取った。
どぉんという強い衝撃波が響き渡り、部屋の壁が吹き飛んだ。
呪いの像に蓄積されていた負のエネルギーが、呪いの解除と共に放出されたのだ。
無に徹しようと努め、長年押し殺していたエイヴリルの怨念は積もりに積もり、一気に外に放たれたために、エイヴリルにもコントロールがきかないものになっていた。
歯止めのきかない負のエネルギーに突き動かされ、自由に動けるようになったエイヴリルは悪魔たちに襲いかかった。
しかし流石は悪魔だ。エイヴリルの敵う相手ではなかった。
生け捕りにされ、意気消沈して観念した。
(金箔を剥がされ、目のサファイアをほじくり出され、ルビーやダイヤモンドも全部取られるのね……素材として使うために、バラバラに解体されるんだわ)
いっそ破壊してほしい、そう願ったことを思い出した。願いが叶うのだ。
「お前強いな、気に入った。魔導具の素材にしようと思ったが勿体ない。私に使役するか?」
エイヴリルをさらってきた悪魔トールヴァルトが言った。
「しえき?」
「仲間になれという意味だ。この城で一緒に暮らそう。悪徳王女の像よ、名は何と言う」
「……エイヴリル」
信じられない。唇が動き、声が出る。前世での人間の王女に戻れた訳では無い。銅像の姿に変わりはないが、まるで人間のように動いて話せるのだ。
驚くほど身軽に動ける。
「あなたが呪いを解いてくれたから動けるの?」
「ああ。だが人間界に戻れば、ただの銅像だ。今お前が自由に動けるのは、ここが魔界だからだ。良いところだろう? 気に入ったか?」
黒髪にアーモンド型のアメジスト色の瞳、浅黒い肌。真紅の唇から覗くのは、尖った八重歯だ。
不敵に笑う悪魔は
「私の名はトールヴァルト。魔界の魔王の1人の末の王子だ」と名乗った。
「今日はとりあえず疲れたな。アレクシ。ああこれはアレクシ、私の忠実な下僕の一人だ。アレクシ、エイヴリルに客室を案内してくれ。皆への紹介は明日する。それと修繕班にここの壁を直すように伝えてくれ。それも明日でいい。もう寝る」
ハイと良い返事をして、アレクシが頭を下げた。そのアレクシに案内されて、エイヴリルは地下へ降りた。
下へ行くほど下位の下僕が暮らす階層となっているそうだ。
案内された客室は快適な仕様となっていた。大きなキングベッドにふかふかの羽毛布団と羽根枕。もこもこのクッションまである。
ダイブして埋もりたい欲求がむくむくと湧いたが、一つ不安に思った。
「あの、私こう見えてとっても重いんですけど……ベッド、メキッと壊れちゃいませんか?」
ずっとクールな表情をしていたアレクシが目を丸くした。
「その心配はありません。トールヴァルト様はあなたを軽々と抱えてらしたでしょう。そういうことです。この城ではもっと巨大な岩男もおりますが、普通に寝ています」
なるほど、とエイヴリルは納得した。
ひどく疲れていて頭が良く回らないため、早く眠りにつきたいというのが一番だった。
翌日、下半身が鳥で上半身が女の姿をした魔物が起こしに来た。
一夜明けて朝なのだろうが、城の中はやはり薄暗く、時間の感覚が分からない。
この城の主、魔界の王の一人の末王子トールヴァルトは城の住人を招集し、エイヴリルを新たな仲間だと紹介した。
使役すると誓った覚えはなかったが、拍手喝采やピーピーという口笛に迎え入れられ、エイヴリルは胸が熱くなった。
大勢の通行人が通り過ぎていくだけの日々は孤独だった。
我が物にならない高級品を恨めしく眺め、愚痴を吐いていく者も多かった。
そんなエイヴリルに「仲間」ができた。話をしたり冗談を言って笑い合える、それがこんなにも幸福なことだっとは。身に染みて感じた。
酒癖の悪い悪魔王子に盗まれ、憎しみを解放された元悪徳王女は、本当の意味で『幸せな王女』と生まれ変わることができた。
楽しく暮らしていたある日、外出から戻ってきたトールヴァルト王子がエイヴリルに言った。
「なあエイヴリル、お前のその胸元のルビーの宝石、くれないか? ブローチのようだから、それを取ってもお前の身体には影響ないよな?」
「はい、全然大丈夫だと思いますけど。どうしてまた急に?」
最初は素材としてエイヴリルを欲しがってた悪魔王子だが、素材としての興味はもう無くなったと言っていたはずだ。
「沼地の魔女に会って聞いたんだ。お前のそのルビーがあれば、天災ビームを作れるかもしれんと」
「天災ビーム?」
「うむ。人間界に撃ち込む、天災弾を発射するマシーンをな、作るのに最適な素材だそうだ。ドーンと狙い撃ちして、着弾した場所に災害がおきる。沼地の魔女の力を借りるからな、主に土砂崩れだ」
何を言っているのかと唖然とするエイヴリルに構わず、悪魔王子は愉快そうに続けた。
「派手で良い眺めだろうな。滑稽な人間どもが右往左往して逃げまどうが無駄だ。土に飲み込まれていく様子を肴に、美酒を飲もうぞ」
「なっ、何を仰ってるんですか。そんなことはいけません!」
「どうしてだ?」
「人を殺すなんて」
「そうか? 人の死は自然でありふれたものだ。人間は大勢いるし、放っておけば増える一方。数減らしは必要だろ」
悪魔王子は少しも悪びれず、さも正論という調子で言った。
「そうだとしても、あえてわざわざ私のルビーを使って、殺人マシーンを作るなんて。絶対に嫌です」
「なぜだ? お前も人間を恨んで恨んで、あれほどの呪いを溜め込んでいたんだろう。そうだ、狙い撃ちする場所はお前がいた都にしよう。お前をずっとあそこに縛り付け、晒し者にして笑っていた奴らに、目に物見せてやろうぞ。愉快だぞ」
悪魔王子は言ったが、エイヴリルは絶対に嫌ですと繰り返した。
「そうか。お前がそこまで嫌なら諦めよう。私は仲間の物を無理矢理奪ったりはしない」
エイヴリルはホッとした。
その後悪魔王子がしつこくルビーを欲しがることはなかった。
しかし城内では、エイヴリルが悪魔王子の頼みを断ったという話が広まった。
新入りのくせに生意気だ、トールヴァルト様のお気に入りだと思って調子に乗っている。そんなひがみ混じりの声が大きくなっていった。
魔物たちは、呪いのルビーを悪魔王子に差し出すようエイヴリルに迫った。
「でも、そうすると多くの人たちが……」
「お前も魔物なのに、人間の味方をするのか?」
「そうだそうだ、俺たちの仲間じゃないのか」
「人間に酷い仕打ちを受けたんだろ?」
「復讐してやろうぜ」
「トールヴァルト様に反抗するなど許さんぞ。助けられた身のくせに」
エイヴリルは胸を痛めた。
悪魔王子に助けられ、この城の魔物たちに優しくしてもらったことは事実だ。
仲間として迎え入れられ、とても嬉しかった。
しかしこのルビーを差し出して、あの都の人々を虐殺したいとは思わない。
悪魔王子はあっさり諦めてくれたのに、手下の魔物たちはしつこくエイヴリルに言ってくる。
城を抜け出して、逃げてしまおうか。
エイヴリルは小さな窓から外を眺めた。
城の外は黒い森が広がっていて、その先はどうなっているか想像もできない。
森からはときどき無気味な鳴き声が聞こえてくるし、城の魔物たちより狂暴な生き物が棲んでいるのかもしれない。
正直言って怖い。
今のエイヴリルは悪魔王子が認めるほどの怪力の持ち主だが、心は臆病だった。
悩むこと数日、意を決して外へ脱出した。
偵察がてら、今まで足を踏み入れたことのなかった黒い森へ行ってみようと思ったのだ。
危険そうなら引き返せばいい。
魔物たちの目を盗み、昼寝の時間に城を出て森へ向かった。
すると森の入口にある野原に、一人の男が立っていた。
どう見ても普通の人間だが、大きな剣を腰に携えており、物々しい装備で身を固めている。戦う気満々のいでたちだ。
エイヴリルは咄嗟に身構えた。
人間から見れば、動く銅像など無気味な魔物に他ならない。
もし、この者がときどき魔界にやって来るという魔物退治にきた冒険者なら、討たれてしまうと焦った。
しかし男はエイヴリルを見るなり表情を明るくし、
「幸せな王女!」と嬉しそうな声を上げた。
「やっぱりここに。魔物の仕業だったか。幸せな王女様、あなたを連れ戻しに参りました。クリフと申します。さあ、悪魔に見つからないうちに早く。いま魔法陣を出しますので」
どうやら魔法陣とやらを使えば、元の人間界に戻れるらしい。
クリフが何やら呪文を唱え始めると、野原に細かい紋様の光の輪が描かれていく。
しかしエイヴリルは迷っていた。
城からは逃げたいが、人間界に戻るとただの銅像に戻ってしまう。前に悪魔王子がそう言っていたのだ。
もうこうして自由に動いたり喋ったりできなくなる。
「さあ幸せな王女様、私の手をお取りください。帰りましょう、ここは危険です」
完成した魔法陣の上に立ったクリフが片手を差し出して言った。その身体は、足元から徐々にまばゆい光に包まれていく。
「待って。あなたはどうしてここを危険だと知りながら、やって来たの?」
「勿論、あなたを連れ戻すためです」
「それは誰かに頼まれて? あの国の偉い人?」
あの広場に戻ればまたあの台座に置かれて、愚かな王女だと人々に蔑まれ続ける。
エイヴリルを永遠に辱めるために、そうしたがっている人間たちがいるのだ。
そう想像すると、エイヴリルの鉛の心臓に再び憎悪の炎がちろちろと灯った。
「いいえ、違います」とクリフがキッパリと言った。
「私が、幸せな王女様に戻って来てほしくて。大勢の内の一人など、王女様は覚えていらっしゃらないでしょうが、私は幼い頃から毎日あの広場の王女様の前を通って、通園通学しておりました。幸せな王女様のその黄金色や美しい宝石の輝き、喜びが溢れんばかりの満ち足りた笑顔を目にするたび、とてもハッピーな気持ちになれました。憂うつな日も幸せな王女様を見ると、幸せでした。私以外にもそのような者はきっと大勢います。大人になり、今は都を離れてしまいましたが、あの広場に幸せな王女様がいないと思うと、寂しくてたまりません」
そう言って真っ直ぐにエイヴリルを見つめ、瞳を潤わせるクリフの顔に、あっと思い当たった。
今のような逞しい冒険者ではなく、小さく華奢な男の子だったが、赤茶の髪と垂れ目と泣きぼくろに見覚えがある。
毎朝毎夕、エイヴリルの前を通るときに必ず立ち止まり、挨拶をしてくれていた。
しかしある日を境にピタリと姿を見なくなり、寂しく思った記憶も年月の経過と共に風化していた。
エイヴリルはすっかり忘れていたのに、男の子は覚えてくれていたのだ。
“私以外にもそのような者はきっと大勢います”
そうだ、あの男の子の他にも他愛のない挨拶や明るい声かけをしてくれる者はいた。綺麗だと褒めてくれる者も。
なにも皆が皆、エイヴリルをけなしたり蔑んだりしていたわけではなかった。
しかしたくさんの他愛のない丸い言葉よりも、悪意のある尖った言葉は突出していて、それによって傷つけられたダメージばかりが強く残った。それはほんの一部の人間だったのに。
あの都の住人全てを憎んでしまっていた。
エイヴリルはクリフの手を取ることに決めた。
このまま魔界にいたのでは、業を煮やした魔物たちが、無理矢理にでもエイヴリルのルビーを奪ってしまうかもしれない。
それが悪魔王子の手に渡り、天災マシーンが完成してしまうと、人間界に甚大な被害が出る。
しかしこのルビーを持って人間界に戻ったところで、悪魔王子は簡単に追って来ることができるし、ただの銅像となったエイヴリルを拐うことは容易い。
「王女さま、早く。悪魔が来てしまいます!」
「戻っても同じことよ。悪魔王子は人間界にやって来れるもの」
「もっと強力な結界を張れば大丈夫です」
悪魔王子の魔力を見くびってはいけない。
どうすれば最善なのだろう。足元から徐々に光に包まれ、人間界へのワープが始まった。
エイヴリルは咄嗟の判断で胸元のルビーをもぎ取り、口に放り込んで飲みこんだ。
このまま人間界に戻って銅像になれば、ルビーの行方は謎だ。まさか身体の中に隠したとは思わないだろう。
それで諦めてくれれば良いけれど。
「そういうことか………」
月の見えない闇夜、戻ってきた『幸せな王女』像の前で呟く黒づくめの男がいた。
新たに張り直された結界越しに、エイヴリルの姿を確認し、胸元のルビーが無くなっていることで悟った。
エイヴリルの出奔の理由に心当たりがあるか、手下の魔物たちはしらを切ったが、このルビーを寄こせとエイヴリルに迫ったのだろう。
「余計なことをしおって。本当にもう良かったのに。でもまあ、これで良かったのか」
「そうですね」
ともう一人の黒づくめの男が応じた。こちらはフードを被っているが、銀色の髪がちらりと見える。
「前より良い笑顔に見えますね」
「そうだな。エイヴリルの魂は神に召された。天国で幸せに暮らせるなら、それにこしたことはない」
「トールヴァルト様。私たちはずっとお側におりますので、どうか元気をお出しになってくださいね」
「そうだな。とりあえず城に戻ったら全員、一ヶ月間おやつ抜きの罰だ」
「ええっー、私もですか?」
「当然だ。監督不行き届き」
悪魔王子とその部下のやり取りを、夜空で微かにまたたく小さな星が微笑むように見守っていた。