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一般向けのエッセイ

書評 ジム・トンプスン 『死ぬほどのいい女』 (ネタバレあり)

 ジム・トンプスンの『死ぬほどのいい女』を読みました。感想を書こうと思います。

 

 ジム・トンプスンに関しては少し前から気になっていてました。図書館で見かけて、名前だけ軽く覚えました。それから、どこで見たのかは忘れましたが、ジム・トンプスンが死後に評価された作家だと知りました。トンプスンはアメリカの通俗小説作家で、作品量がかなり多い。彼は、娯楽が少なかった時代に読者が読み流せるような面白おかしい小説を大量に作っていたようです。

 

 ウィキペディアを見ると、生前はほとんど評価される事はなく、ファンレターは一回も来なかったと書いてあります。まあ、人気はなかったのでしょう。

 

 トンプスン自体はしかし、先見の明があったのか、「自分は死後十年経ったら有名になっている」と言っていたそうです。作品に自信があったのでしょう。

 

 私は、こういう「死後に評価された作家」というのは、本物である割合が高いと思っています。また、そうした作家に、個人的に興味があります。それで、ジム・トンプスンが頭の隅に引っかかっていました。

 

 ジム・トンプスンの小説は犯罪小説です。タイトルや表紙などから、黒いオーラが放たれています。この黒いオーラ、ある種の人を寄せ付けない雰囲気なども、個人的には気になっていました。私の好きな映画監督ニコラス・ウィンディング・レフンにやや近いかもしれません。

 

 ※

 それで「死ぬほどのいい女」を読みました。代表作ではないのですが、ぱらぱらと読んで文体的に気になったので、最初に読みました。

 

 読んだ感想としては(想像していたより良かった)という感じです。特に、ラストが素晴らしい(以下、ネタバレあり)。

 

 話としては、訪問販売員の主人公が、訪問販売の過程で見かけた女に惚れ込んで、彼女を窮地から救い出そうとする所から始まります。彼はどうしようもないクズです。小説は一人称で書かれています。

 

 主人公は女を救って、女を監禁していた老婆を殺し、老婆が隠していた金を奪って楽な生活をしようとする。もちろん、現実はそううまくいかず、自分にとって最善の選択をしようとして彼は次々と犯罪に手を染めていく。そうして破滅していく。

 

 こういう小説の場合、主人公は犯罪者で、どうしようもないクズなのですが、それを作者はどういう立ち位置で書くか、というのが文学的に言えば重要なテーマとなってきます。ジム・トンプスンはかなり独特な立ち位置で、一人称小説を貫徹させています。「死ぬほどのいい女」に文学性があると考えると、この一人称の貫徹のさせ方にこそ、価値があると言えるでしょう。

 

 それでは一体、どういう点に価値があるのでしょうか? 他の娯楽小説との違いはどこにあるのか?

 

 私は、作品の終盤を読んでいて驚きましたが、この小説の主人公は時折、読者に向かって話します。しかしそういう「メタ」、要するにインテリ的なメタ的視点が強調されるかと言うと、そういう作品でもありません。ただ、主人公の破滅の過程が、一人称の語りそのものの破滅と重なっており、それ故、それは「死ぬほどのいい女」という作品そのものの崩壊とも重ね合わされている。

 

 もちろん、作品そのものが崩壊してしまえば、作者は作品を貫徹できない。そこでは、作者は作品を統御しなければならないが、同時に、一人称で語っている主人公そのものは破滅していく、その二つのバランスがどこかで取られなければならない。

 

 それではどういうにこの作品は、一人称を貫徹させているのでしょうか? 主人公そのものは完璧に破滅していくにも関わらず、作品はどうやって一つの実体として完成されるのでしょうか?

 

 ※

 「さて、親愛なる読者よ、前回の分を読み返してみて、些細な誤りをひとつふたつみつけた。わたしの責任ではない。というのは、わたし自身はめったに愚痴をこぼしたりはしないが、読者諸氏はお気づきであろう(略)」

 

 という独白が作品の終盤に入ります。しかし、「些細な誤り」という形で、彼が訂正しようとするのは実は嘘であって、彼が「誤りを正す。これから真相を話す」というのは、実際にはそうであってほしい現実、そうであらねばならない現実なのす。

 

 主人公はこの時点で、狂気に入りかけています。しかし考えてみるならば、そもそもそれ以前の叙述だって、主人公の語りを通じてしか情報を与えられていないので、それ自体(「誤り」として語られた事)が嘘である可能性もある。

 

 いわゆる叙述トリックのような問題ですが、ここでこの入り組んだ問題に入るのは面倒なので、私なりに要約します。

 

 おそらく、作者は、主人公が段々に気が狂っている過程を描いていくと最初から計画していたはずです。しかし、同時に、主人公がきちんと現実を語り伝えている、という描写の要素がなければ、そもそも小説そのものが成り立たない。我々は、「最初から最後まで夢でした」のような小説は読まされたくはありません。小説の構成には何らかの形でリアリズムがなければならない。

 

 だから、作品が終盤になるまでは、主人公の理性ははっきりしている。しかし同時に主人公の語りのところどころの歪みによって、読者はこの人物が何か異常な、病んでいる人物だと意識させられる。それが最後の狂気に向かう見えない伏線となっています。

 

 主人公は次々に犯罪を手を染めますが、それに対する良心の呵責は一切ありません。いや、もしかしたらあるのかもしれないが、それは語りの内部には示されない。

 

 犯罪の中で特に恐ろしいのは、彼が妻を殺すシーンですが、妻を殺す寸前で、この殺人者はこんな独白を読者に漏らします。

 

 「もちろん、それは事故だった。だって、そりゃそうだろうが、親愛なる読者さんよ。わたしが、できることならハエ一匹だって傷つけない人間だってことは、とうに承知の上だろう。」

 

 読者はこの人物が平気で人を殺す人間だと既に知っています。そうして、この独白の後、彼は妻をあっさりと殺してしまう。

 

 ※

 私が興味深く感じるのは、主人公が現実を確かに描写しているという、普通の小説のレベルと、主人公の語りが歪んで狂気に至る過程とが、混在するように疾走しているという、そういう作者の方法論です。

 

 先に言ったように、この方法論は、普通の作家が嫌う破綻を恐れません。むしろ、破綻に向かって一直線に走っていく。本来、こうした主人公が読者に語りかけるというのはありえない事ですが、彼は読者に向かって都合のいい話を語ります。

 

 ジム・トンプスンが描こうとしている主人公の破滅とは、ただ彼一個の破滅を外的に描こうとしているのではなく、彼の世界観そのものの破滅であり、その破滅の割れ目に、読者に向かって語りかける事が可能な、そういう場所さえも現れてしまう類のものです。

 

 作品のラストにおいては、主人公の狂気が彼の世界を完全に覆ってしまう。正常な現実は一切読者に知らされる事なく、作品は終わる。実際の所、主人公がどうなったかははっきりとはわからないし、普通の意味での事件の結末は知らされないのですが、一人の人間にとっての世界とは彼の意識そのものだから、彼の意識が完全に崩壊し、狂気に至った所が、すなわち現実の終着点となります。作者はその破滅点までまっすぐ走っていきます。

 

 小説のタイトルは「死ぬほどのいい女」ですが、これはモナという自分が救い出した女の事です。モナは作中、主人公を盲目的に信頼し続けます。しかし作品のラストでは、主人公を見限ってしまう。その後、主人公は妄想の世界に入り、架空の女を愛し、これが「死ぬほどのいい女」に成り変わる。だがその時には、主人公はもう破滅しています。彼は自殺のような事をするが、実際にはどうなったかはわかりません。

 

 この小説は、主人公の意識の崩壊過程を描いているという意味では、文学的とも言えるし、哲学的とも言えるでしょう。それは普通の読者や作者が望む結末ではありません。誰しもが一人称的にしか生きられませんが(独我論)、その一人称を内部から描いていき、その崩壊それ自体が「この」世界の崩壊であると描ききるのはどちらかというと哲学的な試みと言っていいのではないでしょうか。

 

 私がイメージするのは伊藤計劃で、タイプは違いますが、伊藤計劃の二つの長編小説でも、一人称の崩壊が内面的に考察されます。一人称の崩壊が作家によって考察されなければならないのは、作者が人間の内面の帰結、そのギリギリの限界に興味を持っているからでしょう。そしてこれは人間を知ろうとしながらも、人間の外側にあるものに近づいていきたいという作者の理想を語っているようにも思えます。

 

 ※

 そんなわけで私は「死ぬほどのいい女」を読んで(ああ、これは凄い)と思いました。

 

 直接は関係ないが、ジム・トンプスンを読む前に私は芥川賞受賞作の石沢麻依「貝に続く場所にて」を読んでいました。

 

 そうして(別に悪くないけど、こんなにこじんまりとしていいのかな)と思いまた。石沢麻依の作品は、私には作者の理想があまりにもこじんまりとしていて、小市民的というか、大学の先生的というか、そういう形であまりにも小さくまとまっており、(これが文学なのか)と思ってしまいました。

 

 「貝に続く場所にて」は、イメージ、情感、記憶、知識のようなものを繋げてある種の言語空間を作り上げるのが狙いだったのでしょうが、あまりにも小さくまとまりすぎているがゆえに、作品も小さなもので自足していて、私は不満に感じました。

 

 「貝に続く場所にて」と比べればジム・トンプスンの作品の方が圧倒的に荒削りです。しかし、ジム・トンプスンのギリギリの問題意識に比べれば、小さくまとまった成功作というのは何でも無いものだと思います。私は文学には魂に傷をつけてくれるのを期待したい。その回復過程において、読者は様々なものを想起し、吸収できます。魂に傷をつけるつもりのない作品は、優れた文学作品にはなりにくいのではないか。

 

 そんなわけで、ジム・トンプスンという極めて特異な作家の作品を読むというのは、私にはどちらかと言うと快い体験でした。その快さには、不快の感覚も混じっています。不快を捨てて快だけを得ようとする人はおそらく、浅い作品体験しかできないでしょう。


 人々はまるで自分の好悪を、世界の何よりも大切なものであるかのように扱っていますが、好悪を越えたものを目指す人もいます。ジム・トンプスンも、自分の中のある種の指針に従って、このような破滅的な物語を書いたのでしょう。

 


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