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球慕

作者: 石井 謨


「住宅金融公庫の金利も七月から五・五%と、今までより〇・二五%も下がります」

僕はモデルルームの洋室に貼られたパネルと同じ文言を繰り返した。

「三十五年ローンですと月々で約二千円、総額で八十万円もご負担が減ることになります」

「そうねえ‥‥‥家に帰って主人と相談してみます」少し首を傾げながら答える夫人に、紙袋に詰め込んだ戸建住宅のパンフレットを手渡す。

「次は是非、ご主人様とご一緒にお越しください。お待ち申し上げております」

夫人の姿が見えなくなるまで深々と頭を下げる。


もう二十五年以上も前の事なのに、少し憂いを帯びた夫人の表情、展示されたパネルの内容、洋室の壁紙の柄から勉強机に置かれた本のタイトルまで覚えている。逆に五年前の、心に残る出来事は何か、と聞かれてもすぐには言葉が出てこない。新入社員の時だったからこそ、記憶に残っているのだろう、とタクシーの車中で考えた。

元号が平成となって間もない頃、関東の大学を出て全国規模のハウスメーカーに就職した。東京で簡単な研修を受け、GW明けに辞令が交付された。最初の勤務先は大阪、かつて難波球場と呼ばれた場所だった。南海ホークスの本拠地だった難波球場は、球団がダイエーに売却され、その主を失った。都心の一等地かつ大規模な敷地は、おいそれとは次の恒久的な利用の青写真が描けない状態にあった。苦肉の策として、球場の形を残したまま、グラウンドの中におよそ三十棟のモデルルームが連なる住宅展示場という暫定的な利用に供せられた。

最初の頃は違和感しかなかった九十度のお辞儀も、ネクタイを締めるのと同様、あっと言う間に慣れた。口の悪い同期は「慣れた」では無く「飼いならされた」のさ、と首をすくめながら言う。群馬出身、難波駅の立ち食い蕎麦屋で、たぬき蕎麦を頼んだらきつねが出てきたとボヤいた彼は今、何をやっているのだろうか。

最後のお客様を見送り、モデルルームを閉めた後は、営業日誌を書き掃除をして帰る日々だった。夏の晴れた日に箒でゴミを集めていると、よく照明塔の鉄骨に反射した夕日が目に飛び込んできた。手をかざすと、本来の役割を終え、もう人が座ることの無いスタンドの上を、鳩が餌を探して歩き回るのが見えた。その向こうには紫色を僅かに差した青空が何処までも続き、雲が悠々と漂っていた。


「―ここが難波球場の跡地ですよ」

「‥‥‥」

タクシーの運転手が手をかざした方向には、大型のショッピングセンターが鎮座していた。段々畑のような造りで、各階の踊り場にはたくさんの木々が植えられ、洒落たベンチで人が寛いでいる。衣服や雑貨の店の品物には目を疑うような値札がついているが、多くの人々が買い物袋を肩に掛け、楽しそうに行き交っている。

 かつての勤務先は、豊かで、清潔で、洗練された凡百の商業空間に生まれ変わっていた。

 昼食を抜いていたので腹は空いていたが、ここで食事を取る気にはなれず、道路を跨ぎ日本橋に出た。元々狭い上に、無造作に置かれた鉢植えと店の看板によって更に狭くなった道路は昔のままで、何故か嬉しくなり、ソースの匂いに惹かれて串カツの店に入った。

中はカウンター八席のみという、こじんまりとした店だった。まだ夕方だというのに、空いているのは、NHの刺繍が入った、南海ホークスの帽子を被っている老人の横の席だけだった。

「懐かしい帽子ですね」お通しを手に取りながら、老人に話しかけた。

「これが判るということは、若くても四十代後半だね、お兄さん」老人は皺だらけの笑顔を見せ、「でも、背広でこの店に入るとは、こっちの人間じゃないね」と聞いてきた。

「ええ、お察しの通り、関東の人間です。昔、難波球場の住宅展示場に勤めていて、出張を利用して二十数年ぶりに跡地を訪れた帰りです」と答えた。

「そうだ、みんな無くなっちまった。難波、日生、藤井寺に西宮‥‥‥。つまらねえショッピングセンターやマンションになってしまった」それまで大きな声だったのがようやく聞こえるような小さな声が、老人の寂しさを表しているように思えた。

キープしていた焼酎のボトルが空になると、老人は新しいものを注文し、氷は入れず水だけで割ったグラスをぐるぐると回して、彼は南海ホークスの思い出を一方的に話し始めた。

年間九十九勝でのリーグ制覇、巨人相手の日本シリーズでの杉浦四連投、野村の三冠王‥‥‥。


やがて老人は酔いつぶれ、両肘を枕にカウンターで鼾をかきはじめた。


焼酎のボトル代を含んだ勘定を済ませ、店を出た。夏至が終わったばかりで、まだ陽が射している。帰り際、もう一度ショッピングセンターに足を運んだ。球場の選手紹介のアナウンスは店内を流れる軽快なポップスに、グラウンドに燦々と降り注いだ陽光は、雰囲気の良い間接照明に取って代わられていた。

見上げると、あれ程広く感じた空は、聳え立つ駅ビルや百貨店、高級ホテルに侵食され、随分と狭くなっていた。流れる雲も行く手を遮られ、困惑しているようだ。

歳を重ね、居場所が無くなっていくのはサラリーマンだけに限らないと思ったら、自然に笑みがこぼれた。だがその苦笑は後味の悪いものではなかった。

「もう一軒いくか」久しぶりに独り言を呟き、うん、と背伸びをした。


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