23話 取引
男は、ある呼び出しを受けていた。
窓に掛けられた黒灰色のマフラーは、男に会いたいとの合図。
男はこのことを予測していた。
呼びだした者は、つい最近まで余所の宿屋に治療のため泊まっていた。
それが今日帰っていたのだから、きっとこの呼び出しがあるだろうとそう思っていたのだ。
だから男は特に驚くことはなく、黒灰色のマフラーが掛けてある部屋へと向かった。
愚鈍と罵られ、誰からも嘲られる囮の王子が泊まっている部屋へと。
「アルト様、ドローヘンです」
「待っていました。入ってください」
質素な部屋へ招かれ、ドローヘンはいつもと同じ態度で中に入る。
中に居るのは王子一人だけ。
「――っ」
一瞬、ドローヘンはわずかだが怯んでしまった。
死線をくぐり抜けた凄みとでもいうべきか、一週間前に会ったときとは違っていた。王子の思いの外厳しい視線に彼は怯んだ。
しかしそれを悟られまいと、ドローヘンはすぐに動揺を押し留めた。
そして即座に心の中を身構える、きっと例の件が来るだろうと。
「……ドローヘンさん、お聞きしたいことがあります」
「はい、何でしょうか?」
「ウルガという狼人のことはご存じですか?」
「はい、その者のことは把握しています。面識はありませんが、それが何か?」
この嘘は見破られているとドローヘンは感じた。
目の前にいる男は、様々な悪意に晒されてきた。だから悪意や虚偽にはとても敏感だということを知っている。
この程度の嘘など見抜いてくるだろう。
だがしかし、その嘘を証明するすべをこの男はもっていない。
知らないと言えばそれは『真実』となり、たとえ『事実』と違ったとしても、証明できぬ事実など無意味だと言うことをドローヘンは知っている。
彼の尊敬する主も言っていたことだった。
圧倒的な真実の前には、誰も望まぬ事実など容易に押し潰されると。
だから彼はシラを切ることにした。
「……話は、それだけでしょうか? アルト様」
「……」
きっと次の一手が来る。
ドローヘンは次の一手に身構えた。
何か考えがあって呼びつけたはず。彼はそれを待った。
この王子は愚鈍だと罵られてはいるが、それは見た目と【固有能力】だけ。
王族としての資質はまったく無いかもしれないが、王族としての矜持、そしてそれを背負う気概は十分にある。それをドローヘンは知っていた。
それらが無ければ囮の王子などという大役をこなすことはできない。
自分の死で幕引きとなる計画に賛同などできない。
その点だけは彼のことをドローヘンは高く評価していた。
だからドローヘンは、慎重に進めつつもこの場をすぐに離れたかった。
この男は決して侮れないと理解していたから。
「……では、無いのでしたら私はこれで」
「――待ってください」
踵を返そうとした瞬間、彼はアルト王子に呼び止められた。
何を言うか腹が決まったのだろうと身構える。
「……とても、不快なので……ドローヘンさん、僕の担当から外れてください」
「ほう」
これは予想していなかった。
もっと別のことを言ってくるだろうとドローヘンは思っていた。
しかし王子は、取引を仕掛けてきた。
アルト王子は間違いなく気がついている。
自分がウルガをけしかけて、あの計画を強引に遂行させようとしたことを。
しかしそれを咎めるすべはないし咎めることもできない。
それをドローヘンは理解している。
だから彼は逡巡する。
この提案を呑むべきか、それを突っぱねて拒否すべきか。
彼の中でプライドが葛藤する。
「僕からの話は以上です。もしそれを聞き入れてもらえない場合は……」
露骨に含みを持たせた言い方をしてきた。
これは提案ではなく取引だ。彼は暗にそう言っている。
これで今回の件はそれで手打ちにするということだ。
もしこれに応じなければ、こちらの腹を探り続けるつもりだろう。
もう勝手な真似させないと、目がそう語っている。
( ――こしゃくな。仕方ないか…… )
少々業腹だが、ドローヘンは応じることにする。
あの男、ウルガを始末し損ねたことを悔やむ。
ウルガは勘の良いヤツだった。
匿うために用意した屋敷を抜け出し、追っ手を出し抜いて逃げおおせていた。
彼は自分が消されると勘づいたのだ。
腐ってもアライアンスのリーダーを務めた男。
その辺りで魔物に襲われて野垂れ死ぬといったことは期待できない。
ドローヘンは南の風とルサンチマンを派遣したが、いまだ始末したとの報告は上がって来ていない。
ここは引くのが良策とドローヘンは認める。
「はい、ご不快を与え申し訳御座いません。すぐに自分以外の者を寄越しましょう。……それでよろしいですか?」
「よろしくお願いします」
「では、これで」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「ちっ、調子に乗りおって……」
面白くない結末にドローヘンは愚痴を吐いた。
しかし暗殺を失敗したのだから仕方がないこと。その上実行犯も逃していた。
いまは甘んじて受け入れるしかないことを彼は理解している。
「……まあ、良いか」
王子は遅かれ早かれ死ぬことが使命。
本人もその必要性は十分に理解しているし、それを成さねばならないだけのことを行ってきた。のうのうと生きていけるとは微塵も考えていないはず。
そういう風に主がしたことをドローヘンは知っている。
主であるオラトリオが言っていた。あの王子は一種の怪物であり、同時に、元宰相ギームルが作り上げた最高傑作だと。
欠けた欠陥品なのに最高傑作。
何とも歪な存在だとドローヘンは思っている。
唯一心配があるとすれば、あの王子が劣った種を残すこと。
しかしこれもあの王子は十分に理解している。もし自分に子供ができれば、それは間違いなく火種となって王家を割る。
だが王族としての矜持はある。だからきっとその間違いは起こさないだろうとドローヘンは思っていた。
それに――
「……閃迅か」
ドローヘンはリティの存在を都合良いと考えていた。
どんな経緯があったのかは不明だが、とても見目麗しい狼人の娘が側に居る。
あの狼人の娘は王子を懸想している。
あのような都合の良い娘が側にいるのだから、わざわざ他の女のもとに走ることはないと考えていた。
そして王子にとっても都合の良い女。
人と狼人の間には子は成せない。何の憂いもなく遊べる女だ。
あの狼人の娘がいる限り、王子が余所に種をばらまくような真似はしないだろうとドローヘンは確信する。
だから今は心配ない。
我が主、オラトリオ様の計画は順調に進んでいるとほくそ笑む。
それよりもいまは――
「取りあえず今は……、あの逃げた男の始末が先だな」
ドローヘンはそうつぶやいて歩みを進めた。
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あと、誤字脱字なども……




