1-3 名前も知らない『その人』
夢を見た。
それは数年前までよく見ていた夢だったけれど、最近はほとんど見ることが無くなっていた。今は亡き祖母との記憶だ。
両親を交通事故で亡くしたのは、未衣菜が10歳のとき。その日、祖母の家にいた未衣菜を迎えに行く途中だった両親の車に、信号無視したトラックが突っ込んだ。
事故の連絡と、父と母が死んだという連絡は一本の電話になって祖母の家に届いた。ふたりは即死だったという。
未衣菜はその日の前日、母親と喧嘩をして家を飛びだし、ひとりで電車に乗って祖母の家に来ていた。喧嘩の理由は、確か柔道がきっかけだった。
未衣菜は8歳の頃から柔道を習っているが、なかなか上達せず、伸び悩んでいた。同じ時期に始めた男子たちはどんどん上手くなっていくのに、未衣菜は二日前にあった試合でみんなの足を引っ張るばかりで、つい嫌になってもう辞めたいと母に言った。母は『もう少し頑張ってみなさい』と励ましてくれたが、未衣菜は泣きながら『お母さんはわたしの気持ちをわかってくれない』と八つ当たった。そして家を飛びだしたのだ。
祖母にわんわん泣きつき、こんこんと慰められた。
『未衣菜が本当に辞めたいなら、お母さんともう一度話しなさい』
『ただ、本当は辞めたいなんて思ってないなら、お母さんにちゃんと謝りなさい』
さんざん泣いて落ち着く頃には、未衣菜も自分の気持ちに気付いていた。本当は柔道を辞めたくないこと。ただ上手くいかないのが辛くて、母に八つ当たってしまったこと。
早く家に電話をかけて母に謝るべきだとわかっていたのに、できなかった。母にひどいことを言って家を出た手前、未衣菜から連絡しづらかった。
そして未衣菜は母に謝ることができないまま、次の日、両親はこの世を去った。
――まるで、よくあるフィクションやドラマみたいに。
未衣菜はその日から今日まで、もう二度と解かれることのない後悔の呪縛にとらわれている。
あの日、電話をかけていたら。
母とちゃんと話をしていたら。祖母の家に行かなければ。
両親は死ななかったかもしれない、と。
それからずっと、未衣菜の行動基準は常に『後悔するか否か』だ。
そのとき辛くても、無理かもしれなくても。のちのち自分が少しでも後悔する可能性があるならば、絶対に躊躇わない。機会を逃さない。判断を誤らない。絶対に。
夢の中で、祖母が未衣菜を抱きしめて泣いている。ぎゅっと固く、きつくその身を抱きしめ、泣いている。
『お願いだよ未衣菜。お願いだから――――』
*
目が覚めて、見えた天井は自分の家のものではなかった。
ミーナはしばらく、そのまま呆然と見つめていた。長い丸太をそのまま使ったような、大胆な木造の天井。窓から差し込んでいるのだろう日の光。外……つまりこの家の四方を囲む木々から聞こえてくる、ピチチチ……というのどかな鳥の鳴き声。
ミーナは自分の状況を理解するのに、約1分の時間を要した。
「……っ夢じゃないのかよぉ~……」
昨晩のことをすべて思い出して、思わず両手で顔を覆った。異世界トリップ、夢じゃなかった。夢であってくれたらよかったのに。本当に、本当に。
うなりながらベッドの上でゴロゴロと寝返りを打つと、顔がゴツンと固いものに当たった。額をさすりながら見ると、純白のキングサイズの卵だった。
『――その卵は貴女を選んだ。それは貴女の竜です』
昨日、ローザに言われたことを思い出す。あれは一体どういう意味だろう。
確かに路地でこの卵を見つけたとき、まるで卵がミーナを待っていたかのような、そんな感覚がした。あれが、『選ばれた』ということなのだろうか。
ベッドから起き上がると、卵を膝の上に置いてそっと撫でてみた。『貴女のものだ』と言われると、途端に愛着が湧いてくるものである。この卵に異世界へ連れてこられたようなものなのでその点を多少恨みはするものの、早く産まれた姿が見てみたいという気持ちになった。
相変わらずうっそうと生い茂るアーガイルの森を窓から見ながら卵を撫でていると、部屋の扉がコンコンとノックされた。
「ミーナさん、起きてますか?」
「あ、はい! 起きてます! おはようございます!」
「おはようございます。簡単ですが朝食を作ったので、一緒にいかがですか?」
「あ……いただきます! ありがとうございます!」
「ではあちらで待ってますので、準備ができたらいらしてください」
「はい! すぐ行きます!」
ミーナは慌てて卵をベッドの上に置くと、リュックサックに入っている手鏡と櫛を出して急いで身なりを整えた。昨晩はお風呂に入らずに寝たが、臭くないだろうか。昨日見た感じだとこの家に浴室はなさそうだし、しばらく身体を洗うのは我慢しなければならないかもしれない。せめて顔くらいは洗いたいものだが……そもそもこの世界の文明レベルがどの程度かわからないので、あまり期待しない方がいい気もしてくる。
最後に手鏡でおかしなところがないかを確認して、ミーナは部屋を出た。
「お待たせしました……わあ!」
部屋の中央の机に置かれた白いお皿の上には、綺麗な形の目玉焼きとベーコン、サラダがあった。机の真ん中にはたくさんのパンが入ったバスケットが置かれている。まさに洋風の朝ごはんという感じで、ミーナは瞳を輝かせて椅子に座った。
「す、すごい美味しそう……!」
「ありがとうございます。どうぞ召し上がってください」
「はい! いただきます!」
ミーナが手を合わせて『いただきます』の仕草をすると、ローザはきょとんとした顔をした。「これ、わたしの国の食事する前の挨拶なんです」と言うと、彼は目を細めて「そうですか。では、私も」と言って同じように手を合わせて「いただきます」と言った。
ミーナはそれがなんだかすごく嬉しかった。誰かとこうして同じ食卓について、「いただきます」と言って朝食を摂るのはいつぶりだろう。
「美味しい……! これ、わたしの世界のものとほとんど変わらないですよ!」
「本当ですか? それはよかった。パンはたくさんありますから、好きなだけ食べてくださいね」
パンは小麦とバターで作られたシンプルな味だけど、生地がしっかりしていて食べ応えがあるし、バターの優しい味が大変ミーナ好みだ。目玉焼きもベーコン(よく見たらベーコンではないみたいだけど、すごく似ている)も美味しい。まさか食文化がこんなにもとの世界に似ているなんて思わなかった。食べることが大好きなミーナにとって、これほど有難いことはない。
「はあ……すごく美味しいです。幸せです」
思わずだらしない顔でえへへと笑うと、ローザは少しだけ目を見開いてミーナを見つめたあと「それはよかったです」と言って微笑んだ。
食事が終わると、また二人で手を合わせて「ご馳走様でした」と言った。皿洗いを申し出ると案の定遠慮されたが、「やらせてくださいお願いします!」と頼み込むとしぶしぶ折れてくれた。ここまでずっとお世話になりっぱなしだったミーナはようやく仕事をゲットし、張りきって皿を洗った。
「今日はこのあと、どうされますか?」
「掃除をさせてください!」
「えっ、掃除……ですか?」
皿洗いを終えて今日の予定を尋ねられ、ミーナは昨日から考えていた掃除を申し出た。
「はい! お掃除しながら今後について考えようかなと。あ、これでも一応一人暮らししてるので、家事や掃除は一通りできますよ!」
「あ、いえ、そういうことではないのですが……無理に何かしようとしてくださらなくても大丈夫ですよ。昨日みたいに、座って話をするのでも良いですし」
「お礼がしたいのはもちろんなんですけど、何かやりながらの方が思考が捗るんです」
「そうですか……。わかりました」
ローザは箒や雑巾、バケツなどの掃除用具を用意してくれた。バケツにはローザが魔法で水を入れてくれた。「火だけでなく水まで出せるなんてすごい」とミーナが感嘆すると、「たいてい皆出来ますよ」と苦笑された。確かに火も水も生活に欠かせない要素だから、魔法を軸にして生きているらしいこの世界の人間なら、皆出来て当然のことなのかもしれない。
「でもわたし、魔法なんて使ったことないんですけど……。ここで生きていけますかね。それとも、わたしも使えるようになってるんでしょうか。噂の神様とやらが魔力を授けて下さってたりとかしませんかね?」
「どうでしょう……。あいにく私はそちら方面には明るくなくて。魔術師なら、その人の【器】が見ただけでわかると聞きますが」
「【器】?」
「【魔力の器】、身体の中で魔力をつくり溜めこむ器官です。これが無ければ魔法は使えません。精霊の力を体内の【器】で魔力に変換し、人間は魔法を使います」
「せ、精霊……? 変換……?」
雑巾を絞りながら、ミーナは頭の上に『?』マークを浮かべた。リアルファンタジー世界における魔法は、ミーナの想像よりずっと複雑な行程で使われるようだ。ローザも同じように雑巾を絞りながら、目線を周囲に向けた。
「精霊はどこにでもいますよ。今もこのあたりを漂ってるんじゃないでしょうか。私はその姿が見えるほど『愛されて』いませんが」
「え、今もいるんですか? 近くに?」
「はい。精霊に愛されている人ほどその姿が見えたり、力を貸してもらいやすくなります。例えば【器】の魔力が切れたとき、すぐに精霊が力を【器】に注いでくれたりするようです」
「注いでくれたら、どうなるんですか?」
「【器】で魔力に変換し、魔法が使えるようになります」
「じゃあ、精霊に愛されてる人ほど、魔法を使うとき有利……ってことですか?」
「そういうことです。魔術師に適性があるのは、精霊に愛されていて【器】が大きい人、ということになりますね」
「なるほど……」
精霊。これまたファンタジックな単語が飛び出したもんだ、と思いながらミーナは床掃除を始めた。
『このあたりを漂っている』とローザは言っていたが、ミーナにもそれらしきものはちっとも見えない。これはつまり、『愛されて』ないということだろうか。ミーナに【魔力の器】があるとして、それがどの程度なのか、そもそも魔法なんてどうやって使うのか何ひとつわからないので、残念だが自分が魔法を使うのはまだまだ先かな、と思った。
「でも、魔法が使えないんじゃ生活できませんよね……ってローザさん!? なに普通にお掃除しちゃってるんですか!」
普段、教室を掃除するみたいに部屋の端から雑巾がけしながら何気なく振り返ったら、ローザが近くの窓枠を雑巾で拭いていた。
「え……いけませんか?」
「いけなくはないですけど! 掃除はわたしがローザさんにちょっとでも恩返しがしたくてやってるんですから、ローザさんも一緒にする必要はないんです! 朝ご飯作ってくださったんですから、どうか座って休んでてください」
中央の机と椅子を指さして訴えるが、ローザは困ったような顔で苦笑いを浮かべ、「どうかお気になさらず」と言った。
「私も掃除がしたくてやっているだけですから。それに、こうやって一緒にやりながらの方が、なんとなく話しやすい気がしませんか?」
「……それは……そうですけど」
確かに、掃除中というのは友達との会話が捗るものだ。しっかり手は動かしつつも、学校の掃除時間なんておしゃべりタイムみたいなものだとミーナは思う。
「ローザさんは……その、今日のご予定は?」
若干躊躇いはあったが、やはり気になったので尋ねることにした。もしかすると、ミーナがいるからローザは自分のことができないのではないかと思ったのだ。恩返しのための掃除で彼の予定を狂わせてしまっては本末転倒である。
ローザのプライベートに踏み込むのは少し気が引けた。あえて村ではなくこんな森の中に一人暮らしというだけでも、十分彼が訳ありであることはミーナにもわかる。どこまで聞いて良いことなのかわからなかったため、とりあえず予定を尋ねることにした。
どのような反応が返ってくるかと不安げに見つめるミーナだったが、「私ですか?」と聞き返すローザの表情は特に変わらなかった。
「私は……特に毎日、決まった予定はありませんね。日中は森で魔物を狩っていることが多いです。たまに村へ行って食材と魔物の素材を交換したり、森を抜けた先にあるメリルという街で素材を売ったりしています」
「な、なるほど……。だからあんなにお強いんですね」
普段から魔物と戦っているなら、昨日一発で巨大鳥を仕留めたのも不思議ではない。不思議なのは、何故わざわざこんなところでそんな生活を送っているのか、ということだ。あんなに強いのだから、こういうファンタジー世界にありがちな冒険者とか騎士とか、そういう職業に就いていそうなものだが……。
「……何故こんな生活をしているのか、疑問に思っている顔ですね」
穏やかな表情で言い当てられ、ぎくっとした。雑巾がけの手を止め、ちらりとローザの方を見る。
「……そんなにわかりやすい顔、してましたか?」
「いえ、そんなには。でも疑問に思って当然だと思いますよ。怪しいと思われても仕方ありません」
「あ、怪しいなんて、思わ……なくはなかったですけど。最初に、ちょっとだけ思いましたけど……」
「正直ですね」
気まずげに言いよどむミーナを見て、ローザがくすくすと笑う。美しい黒曜石の瞳を細め、彼はミーナを見つめた。
「――人を、待っているんです」
開けた窓から入ってきた風が、さわさわと彼の黒髪を揺らす。その隙間からのぞく漆黒はまっすぐにミーナをとらえていて、彼女は動けなくなった。
「人……ですか?」
「ええ。もうすぐ10年になります。『その人』に会うため、ここに住み始めてから」
10年。ミーナはたった16年しか生きていないが、だからこそその年月の長さが理解できた。この人は、10年もたったひとりを待ち続けているのか。
「それはその、例えばですけど、恋人とか……?」
「いいえ。姿も、名前も知りません」
「え……?」
「でも、必ず『その人』は来ます。だからそれまで……私は何年でも、ここで待つつもりです」
「…………」
彼の目は、ふざけてなどいなかった。そして、少しも諦めていなかった。絶対に『その人』は来ると確信しているのだ。姿も名前も知らない、『その人』を。
ミーナはなんと言葉を返したらいいのかわからなかった。自分には想像もできない時間を過ごしている彼を前にして、たった16年生きただけの小娘が何を言えるだろう。10年もの間、こんな森でたったひとりで知らない誰かを待ち続けるなんて。一体、どんな思いで。
何故そんな人を待っているのか、どうして必ず来ると確信しているのか。まだまだわからないことはあったけれど、ミーナにはこれ以上聞くことができなかった。気軽に聞いていいことではないと思ったのだ。
「……そんな顔をさせてしまって、申し訳ありません。私のことは、どうかあまりお気になさらず。……午後は、村へ行ってみましょうか」
何も言えずに動揺するミーナを見て、彼は申し訳なさそうにそう言った。
気を遣わせてしまった。彼の言う通り、彼の事情はミーナには関係のないことで、ミーナが気にする必要はない。『お気になさらず』と言われたのだから、いつまでも引きずる方が失礼だろう。ミーナは「わかりました」と言って雑巾がけを再開した。
当然のことだが、ミーナはローザについて、知らないことだらけなのだなと思った。自分が知っているのは、ローザという名前と、ここで魔物を狩りながら人を待っているということだけ。ミーナ自身も自分のことはほとんど話していないし、彼にもこれ以上尋ねることができない。
ローザは法律で決まっているからミーナを保護してくれているだけだ。あくまで王都に送ってもらうまでの関係。ミーナを王都へ送り届けたら、きっと彼はまた、ここで『その人』を待ち続ける生活に戻るのだろう。
なんだかそれを、寂しいと感じてしまうのは――たったひとりでこんな異世界に放り出されて、最初に親切にしてくれたのが彼だから、だろうか。