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魔王なメイドと、勇者な執事。

作者: 藍槌ゆず

リハビリ/気軽に読んで頂ければ幸いです


 吾輩は魔王である。

 前世の名前はアガーフィヤ・ヴィターリエヴナ・ロゴフスカヤ。蒼き海に囲まれし唯一の地――イズリッジ大陸を統べる魔王であった。

 今生の名前はアンナである。


 前世では世を統べる絶対の王として君臨していた吾輩だが、今生ではとある伯爵家でメイド長をやっている。なにせ、体が人間なものでな。

 この身に宿した絶大な力は未だ健在だが、如何せん、全ての力を発揮するにはこの体は脆弱が過ぎた。娼婦の母に産み落とされ、捨てられた際に野犬に襲われ、初級の炎魔法を使おうとしただけで半身が焼けてしまったのである。以来、吾輩はごくごく普通の人間のふりをして生活する他なくなった。


 十八年前、赤子だった吾輩の泣き声(無論、気づかせる為にわざと出したものである)を聞きつけ、酷い火傷を負っていた吾輩を拾い上げてくれたのが、件の伯爵家、クリフトン伯爵家の先代メイド長である。

 フローラ、という名のその女は子を成すことが出来ぬ体質だったようで、これも神の思し召しだと、吾輩を養子にしたいと願い、そのようになった。

 魔王が神に救われるなどという巫山戯た事象が起こる訳がないので、吾輩は再三、吾輩を救ったのは神ではなくフローラである、と言い聞かせてやったのだが、今生の我が母は最期の時まで吾輩を「老い先短い私の為に神が遣わした子」と言い続けた。とんだ馬鹿者である。子を成せぬと夫に捨てられた哀れな女に半身焼け爛れた赤子を押し付ける神がどこに居るというのだ。吾輩が拾われたのは、吾輩が拾われるための努力をしたのと、フローラが吾輩を拾って育てようと決めたからである。クソッタレの神など微塵も関係はない。


 吾輩は大馬鹿者のフローラを看取った後、『育ててくれた恩に報いるため』と嘯き、若干十五歳にしてメイド長の座についた。

 吾輩の有能ぶりを見れば当然の采配である。文句を言う輩は拳で黙らせてやった。

 無論、目的は恩返しなどではない。屋敷内での『教育方針』を私が取り決めることだ。吾輩の仕事ぶりと、伯爵夫妻から信頼の厚いフローラが手塩にかけて育てた娘である、という事実が吾輩の発言力を極限まで高めていた。


 吾輩の目的。それは、この伯爵家の長女であるイザドラ・クリフトン伯爵令嬢を、次代の魔王に育て上げること。ただそれだけである。


 前代魔王――吾輩の没後百年。新たな魔王が生まれる気配は微塵もない。平和そのものである。

 いつまた現れるか分からぬ魔王の脅威に備え王立魔法学院なるものが発足し、創立百周年を迎えたが、当初の戦闘特化の学術内容はどこへやら、今や貴族の男女が互いに研鑽し、ついでに見合い相手を見繕う場になっている。けしからん。まことにけしからん。


 無論、大陸内でも有数の魔力保有量を誇るクリフトン家のご令嬢、イザドラ・クリフトンも王立魔法学院に入学している。御年十八歳、今生の吾輩と同い年であるので、今年で卒業だ。毎年主席で進級なさっているためこのまま行けば主席卒業、教育係の吾輩も鼻高々だ。


 吾輩が彼女に目をつけたのは、イザドラ・クリフトンの類まれな魔力保有量、加えてその性質が圧倒的に『冥』に寄っていたことにある。

 魔法には『火/水/風/土』の四大属性に加え、『煌/冥』という性質の偏りがある。その性質の偏りを極めることにより、『光/闇』の属性を得るのだ。かくいう吾輩の魔力性質も圧倒的に冥に寄っている。吾輩は四属性持ちの大魔法使いであるが、その全てが闇魔法として極めて高度な術と成っている。一国は容易く滅ぼせる程度だ。フフ、畏怖してよいぞ?


 冥に寄った性質を持つ者は極めて少ない。これが、次代の魔王が生まれぬ原因とも言えよう。

 優れた魔力保有量、魔力適正を持つ者を先達が導き、冥の性質を寄り強め闇へと昇華せねば、次代の魔王が生まれることはないのだ。

 よって、吾輩は類稀な才能を持つ当家のご令嬢、イザドラ・クリフトンこそ魔王に相応しい、と教育に力を入れることにした――――のだが、ここで重大な問題が発生した。


 問題、というより、障害だろうか。障害が発生した。突如降って湧いた、と言っても良い。


「おお! お嬢様! 素晴らしいです!! 卓越した技術とセンスによって圧倒的なまでに洗練された『光魔法』でございますね!!」


 それがこの男、ヘンリー・ソマーズであった。

 細くなよっちい金色の髪に頼りない丸メガネ、着古した執事服に身を包んだ、十代後半のその男はわざとらしいまでの驚嘆の声を上げながら、イザドラ・クリフトンの傍らで白々しい拍手を送っている。


「そ、そうかしら? 初めてだし、あの女のように上手く行っているようには思えないのだけど……」

「何をおっしゃいますかお嬢様! 素晴らしいです! お嬢様は光魔法の天才でございます! 私が百年かかっても覚えきれない技を、いともたやすく! 感服いたします!」

「まあ、百年かければ貴方もこれくらいは出来るのではなくって? でも、そう、わたくしにも光魔法の才能がありますのね!」

「ええ、勿論! お嬢様の才能を持ってすればいずれは次代の勇者を担うのも――――」

「ヘンリー・ソマーズ」


 我ながら地を這うような声が出ていたように思う。なにせ、横に立つイザドラ・クリフトンがヒッと怯えた声を出したので。

 ええ、お嬢様。無論、貴方にも後でお話があります。午後は占術の自主学習だった筈が中庭にいるのだからな。しかも、こんな男と共に。

 

「こんなところで何をしているのです? 貴方の役目はアレクシス様の付き添いだと聞いておりましたが?」

「ええ、ええ、その通りでございます、メイド長。ですがお嬢様が何事かにお心を痛めておられる様子でございましたので、クリスに役目をお代わりになられていただきまして、お嬢様のご相談に乗ってあそばした次第でございます」

「その頭が痛くなるような言葉遣いをやめなさい、聞き苦しい。お嬢様、後でお話がありますので宵の刻にお部屋に伺います。ヘンリー、此方に来なさい」


 今にも舌を打ちそうになる衝動を抑え、にっこりと笑顔を浮かべてヘンリー・ソマーズを呼びつける。吾輩に負けず劣らずの笑みを浮かべたヘンリーは何とも軽い様子でイザドラ・クリフトンに断りを入れると、のこのこと吾輩に着いてきた。

 立派な庭園をぐるりと周り、古びたガゼボへとヘンリーを連れ込む。此処は主に説教用に使われている為、近づく者はほとんどいない。

 未だへらへらと笑みを浮かべるヘンリー・ソマーズを睨みあげ、吾輩は行儀が悪いと知りつつも靴の踵で地を叩いた。


「ヘンリー・ソマーズ。貴様、これで何度目だ? とうとう、お嬢様に光魔法の片鱗まで掴ませおって!!」

「正直、私も驚いております、メイド長。かなり冥寄りの性質だと感じられておりましたところですので、よもや煌修正が効くなどとは思いもよりませんでしたでございます」

「その! 頭の痛くなる! 喋り方を! やめろと言っている!!」


 古風だが味のあるガゼボを支える柱の内の一つを勢いよく殴りつけた吾輩に、ヘンリー・ソマーズ――――『不死身の体を持つ勇者』はやはりへらへらと笑いながら首を傾げて言った。


「あっはっは、敬語って難しいなあ? 俺、平民の出だからさ」

「そこらの庶民の方がまだマシな喋り方だぞ、クサレ勇者」


 この男こそ、前世で吾輩を打ち倒した勇者本人であり、今生でも吾輩の目的の障害となる厄介者であった。

 不死身の体と寿命を持つ勇者は、吾輩を打ち倒したのち、平民に紛れて生活をしていたらしい。それが何の因果でこんなところにいるのかと言えば……

 

「お前こそ、元支配者とは思えないほどの態度で毎度感服するよ、ポンコツ魔王」

「誰がポンコツだ!!」

「アガーフィヤ・ヴィターリエヴナ・ロゴフスカヤことお前さまですよ、メイド長」

「うるさい! フルネームを一字一句間違えずに呼ぶな!!」


 魔族にとって真名はあまりにも重い楔となる。相手が強い力を持てば持つほどそれは重く、身を縛る枷となるのだ。

 前世の吾輩は迂闊にも、この先代勇者であるヘンリー・ソマーズに真名を知られてしまっていた。先の戦いで勇者に敗れた吾輩の遺物に書かれた名前を、あろうことかこいつは己の手帳に書き留めていたのである。気色悪い。


 そのせいで、吾輩は腰をやって引退する執事の代わりを雇う面接の際、吾輩を魔王と看破した挙げ句へらへらと笑うこいつを採用せざるを得なかったのである。たとえそのせいで吾輩の身が破滅するかもしれないとしても、だ。

 『体が人間である以上、殺しはしない。ただちょっと職が欲しくて』などとは言っていたが、今はそのつもりでも、今後どうなるかは分からない。よって早急にこいつを始末する必要があるのだが、どういう訳かこのヘンリー・ソマーズ、イザドラ・クリフトンに妙に気に入られているのだ。


 伝説として広く伝わっている勇者の姿は美化を重ねたせいで今のこいつとは似ても似つかんし、名前も偽名である以上、勇者云々は関係なく単純に物珍しくて気に入っているだけだろうと軽く見ていたのだが……その結果がこの有様だ。

 闇魔法へと傾倒していたはずのイザドラ・クリフトンは、今や光魔法の片鱗さえ見せている。あんなのは初歩も初歩、子供のお遊びに違いないが、それでも光魔法は光魔法だ。悪い芽は早急に摘まねばならない。


「いいか、クサレ勇者! 今後、お嬢様に光魔法を使わせるような真似をしてみろ! 我が身が焼けようと貴様を焼き滅ぼしてくれるわ!」

「いやー、でもさあ、聞いてよ魔王。お嬢、今かなり悩んでるみたいなんだよね……ホラ、学院に転入生が来ただろ?」

「フン、あのイカれピンク頭のカレン・オールストンのことだろう?」

「あれ、知ってたんだ」

「吾輩を誰と心得る。その程度の情報はとうの昔に耳に入っておるわ」


 貴様のような愚鈍と違い、吾輩の耳は早いのだ。馬鹿にしたように鼻を鳴らしてやるも、ヘンリーは「まあ俺はお嬢から直接聞いたんだけどね、信頼の違いってやつ?」などと宣いおった。腹が立つ。足を踏んでやった。


 カレン・オールストン。孤児院で魔法の才を見出され、オールストン男爵家に養子に入った令嬢だとかで、今年度から王立魔法学院に編入した女だ。胸元までのピンク色の髪をふわふわと揺らした頭の悪そうな女だと記憶している。

 勉学はそこそこ、突出した魔法の才でそれをカバーし、平民出故の人懐こさで学院内の実力派の男どもの関心を引いているそうだ。宰相・騎士団長・魔術省長・貿易商の息子に加え、イザドラ・クリフトンの婚約者であるアルストル国第一王子すらも骨抜きされてるだとか、なんだとか。けしからん。


 どうやら一目見た瞬間に、「いかにも光属性なアッパラパーが好きそうな頭の抜け具合だな」と思った吾輩の印象に間違いはなかったようだ。

 夜空を溶かしたような漆黒の髪に、紫水晶が如き輝きを放つ瞳を持つ当家自慢のご令嬢、イザドラ・クリフトンとは大違いである。高貴さが、麗しさが、溢れ出る気品のレベルが違う。比べることすら不遜に値する。クリフトン家の令嬢だぞ、吾輩が幼少の頃より側に付き、磨き上げた一級品だぞ。比べた挙げ句、あんなぽっと出のイカレポンチピンク頭を取るなど世界がひっくり返っても――――、


「魔王、おい魔王。顔が凄いことになってるぞ」

「そうか。今少し憎しみを燃やしていたところだ」

「……お前結構そういうところあるよな」


 歯軋りの音を響かせながら答えた吾輩に、ヘンリー・ソマーズは何やら呆れたような、少し微笑ましいものでも見るかのような顔で笑った。何だその顔は。気色悪い。


「ともかく! お嬢様の件は吾輩に一任しろ。必ずや良き結果へと導いてみせる」

「その結果ってどんな?」

「無論、お嬢様を次代の魔王へと育て上げ、お嬢様を傷つける者全てを根絶やしにするのだ」


 イカれピンク頭だとか、第一王子だとか、第一王子だとか、第一王子をな!

 高笑いを響かせかけ、必死に堪えて変に噎せた吾輩に、ヘンリー・ソマーズは首を傾げながら唸った。

 

「うーん、俺ちょっとそれは看過できないわ」

「何故だ!? 力を持つ者には選別の権利がある!! 研鑽を積み、努力によって成し得たお嬢様の『今』を脅かそうとする者だぞ!! 滅びて当然であろう!!」

「だってお嬢、まだ王子のこと好きなんだぜ? 可哀想だろ」

「フン、あんな軟弱顔だけ男などいずれはお嬢様の方から見限るだろうよ。このまま冥の性質を強めていけばそんなことは気にも留めぬようになる」

「その間お嬢が苦しんでることは無視すんのか? 俺は、お嬢の『今』の苦しみを取り除いてやりたいね」

「…………それもまた試練だとも、上に立つ者の辛さよの。貴様には理解出来ぬかもしれんが、お嬢様はいずれ魔王と成り世を統べる身だ。そのような些末な苦しみなど頂点に君臨すれば消えてなくなる」

「お前はそれで、消えてなくなったの?」


 言葉を返そうとしていた吾輩の口が、開いたまま固まっていた。

 ヘンリー・ソマーズの目が、真っ直ぐに吾輩を見つめている。こやつが今しがた口にした文言を理解できずに硬直していた吾輩の脳が、徐々に言葉の意味を噛み砕き始めた。


 『お前はそれで、消えてなくなったの?』


 何がだ? 虚しさや、苦しみがか? 研鑽を積み頂点を目指し、自身よりも周囲に愛される者を妬み、嫉み、挙句の果てに苦しみに耐えきれず追放し、力のみで君臨し続けた『魔王』の苦しみが、頂点に立つことで消え失せたかを聞いているのか?

 馬鹿が。大馬鹿が。クソッタレのクサレ勇者が知ったような口を。

 ああ、そうだとも。名家に生まれ、ただ冷徹に上を求めたが為に、吾輩の周りには誰も居なくなった。でなければ勇者に一人で相対する訳がなかろうが。たかが、死なぬ程度の人間一人に魔族軍が敗れるはずがなかろうが。


 吾輩は滅びるべくして滅びたのだ。誰にも愛されなかった王の末路としては酷く正しい。


「俺は、お嬢には幸せになってほしいと思うよ」

「ハッ、吾輩とは違ってか」

「うん。まあ、お前にも幸せになってほしいんだけど」

「ハ?」

「だからさ、お嬢には違った道を歩んでもらいたい。他人を糾弾して追い出して自分の立場まで危うくしたりしないでさ、大団円のハッピーエンドを迎えてほしいんだよな。お前だって、お嬢に不幸になってほしい訳じゃないだろ?」

「…………それは、……うむ、……そうだが」


 クリフトン家は名家である。故に当主であり外交官であるイザドラ・クリフトンの父も、それを支える母も多忙かつ、幼少の頃より娘であるイザドラ・クリフトンにも息子であるアレクシス・クリフトンにも厳しく接してきた。

 それはある種の愛情であるとも言えたが、しかし幼子が求めるものかと言えば少し違った。イザドラ・クリフトンは、両親の愛情に飢えている。より完璧で、高みを目指せば、いつか手放しで両親に褒めてもらえると信じている。信じて突き進み、その結果、僅かに歪んでしまった。


 実力と美貌を兼ね備え、それに見合ったプライドを持つお嬢様は、家の外では冷徹な仮面を被る。その仮面は畏れ敬われこそすれど、親しく思われたりはしない。

 出来が良いとは言えない第一王子が癒やしを求めてイカれピンク頭に逃げるのも、分からなくもなかった。イザドラ・クリフトンの輝きは、並のものには強すぎるのだ。


 イザドラ・クリフトンは孤高であればあるほど美しい。そう育てたのは吾輩だ。かつて吾輩が歩んできた道を、過ちだとは認めたくなかったが為に、彼女に同じ道を歩ませようとしている自分には気づいていた。

 だが、同時に、イザドラ・クリフトンが沢山の友人に囲まれ、幸せそうに暮らす様を見たい、とも思っていた。魔王らしからぬ思考だ。けれども、吾輩はもはや魔王ではないのだ。ただのアンナである。ただ、ちょっとばかり四大属性魔法を冥性質に極めたメイドである。


 それ以上言葉が続けられずに口ごもった吾輩に、ヘンリー・ソマーズは再び笑った。


「別に本気で勇者にしようとか考えてないからさ、ちょっとだけ俺に任せておいてくれよ」

「…………だが」

「お嬢が笑ってんのが一番だろ?」

「…………分かった」


 恐らく、吾輩の選ぶ道はイザドラ・クリフトンにとって破滅の道となるのだろう。薄々、感じ取ってはいた。

 渋々ながら頷いた吾輩に、ヘンリー・ソマーズは何やら満足げな顔で笑みを深めていてムカついたので、とりあえず指示の無視への罰として屋敷中の装飾磨きを命じておいた。






「――――お嬢様。アンナでございます」


 宵の刻。宣言通り自室を訪ねた吾輩に、イザドラ・クリフトンは少しばかり緊張した声で答えた。学院の誰も、彼女のこんな声を聞いたことはないだろう。

 高貴にして冷血、逆らう者は氷の微笑で黙らせ、噛み付く者には血を見るより恐ろしい反論を紡ぐイザドラ・クリフトンが、ベッドの上で両手を組み、所在なさげに座っている姿など、学院の誰も――――否、吾輩以外は見たことがないに違いない。


 艶めく黒髪を絹のリボンで一つに結び、その毛先を頼りない手付きで弄るイザドラ・クリフトンは、吾輩の顔を見るやいなや、言い訳じみた声で呟いた。


「きちんと、今日の分は終わらせておきましたわ」

「ええ、そうでしょうとも。私の自慢のお嬢様が、よもや勉学を蔑ろにするなどという愚かな真似はなさいません」

「…………」


 別に、責めたつもりで言った訳ではなかったが、思っていたよりも責めた口調になってしまった。項垂れるイザドラ・クリフトンに、妙に落ち着かない気持ちになりながらハーブティーを淹れる。

 サイドテーブルに置けば、緩慢な動作ながらも優美な所作でもって指先がカップを持ち上げた。


「……アンナ」

「はい」

「……怒ってる?」

「何を怒ることがございましょう」

「…………やっぱり怒ってるのね?」

「誓って怒ってなどおりません。それに、私めが『怒る』時はお嬢様が尋ねるより早く怒り終わっております」

「そ、それもそうね」


 何やら納得したらしいイザドラ・クリフトンがほっとした様子でハーブティーに口をつける。此方はなんだか納得がいかなかったが、別に本当に怒っている訳ではないので言葉にはせずに流した。

 美味しいわ、と微笑みと共に頂戴した賛辞に礼を取る。イザドラ・クリフトンは、先程よりは気の抜けた様子で息を吐くと、いつものように隣に腰掛けるように私を促した。


 生まれた時からの付き合いである。固辞するような間柄でもなく、素直に腰を下ろす。

 そのまましばらく言葉を待てば、数分の間を空けたのち、イザドラ・クリフトンは恐る恐るといった様子で語り出した。


「もうヘンリーから聞いてしまっているかもしれないけれど……わたくしがあんな真似をした理由を話してもいいかしら……」


 正確にはヘンリー・ソマーズから聞いてから知っていた訳ではないが、特に否定することもなく了承の意を返す。

 おおよそ二十分をかけて語られたのは、要約すれば吾輩が掴んでいた情報とさほど変わりない話であった。ただ、そこにはイザドラ・クリフトンの――お嬢様の思いがあった。


 自分が努力を重ねれば重ねるほど、第一王子の心が離れていくのが分かること。だが態度を今更変えるような真似は出来ないこと。周囲は勉学や魔術に関しては頑張れば認めてくれるのが常だったが為に、どうすればいいのか分からないこと。

 学友は居れども、心を打ち明ける友人は作れなかったこと。カレン・オールストンが周囲に愛される理由は痛いほど分かるということ。自分が持たないものを持つ彼女が羨ましく、何度か意地の悪い物言いをしてしまったこと。

 もしかしたら彼女のように煌性質の魔法を得れば、自分も周囲に愛されるのではないかと考えたこと。ヘンリーが煌の性質に詳しいと聞いて、相談に乗ってもらったこと。長年教育係として側に居た吾輩には、申し訳なくて言い出せなかったこと。カレンが羨ましくて、でも彼女のようにはなれないと分かってしまって、苦しくて仕方がないこと。


「……わたくしも、多くのものを持っていますわ。わたくしはとても恵まれていて、わたくしが今こうして持っている物を得たい、と望んでやまない方がいることも分かっております。それは深く理解しているし、そう育ててくれたお父様やお母様、アンナにも感謝しているの。本当よ。……でも、たまに思ってしまうの。あの方のような人間だったのなら、わたくしも愛されたのかしら、と」

「…………お嬢様、それは」

「分かっているのよ。本当に。あの方はあの方、わたくしはわたくし。無い物ねだりをするなんてはしたないことよね」


 俯き、そう呟くお嬢様の声は少し震えていた。いつ何時も、感情を表に出さぬように努めているお嬢様が、声に出るほどの悲しみを覚えている。

 そうしたのが、吾輩なのだと思うと、胸が締め付けられる思いだった。


「……申し訳ありません、お嬢様」

「? どうしてアンナが謝るの」

「教育係としてお嬢様の最も近くにいたのはこのアンナです。お嬢様が、高みへ立つ者として望ましくあるよう、お嬢様の意に沿わぬ事柄も多く伝えて参りました。お嬢様には人々に愛される才がある、と知りながら、周囲を退けるような指南をしたことさえあります。お嬢様の周りに、信頼できる者がいないというならば、それはこのアンナの責にございます。私にはその自覚がありました。分かっていてそうしたのです、お嬢様。どうかアンナに処罰を」

「…………アンナ」


 心の底から頭を垂れたのは、初めてだった。

 そうでもしなければ、胸の内から湧き上がる罪悪感に押し潰されそうだった。吾輩の、時に常軌を逸した指導に泣きながらもついてきたお嬢様。気づけば最も近くで、最も長い時を共に過ごした吾輩が、よもやお嬢様を裏切っていたなど、どれほどの苦しみだろうか。


「…………アンナ、顔を上げてちょうだい」

「ですが、」

「わたくし、信頼できる者が一人も居ないだなんて言っていませんわ。だってアンナがいるもの」


 顔を上げた先には、笑顔のお嬢様が居た。


「だからいいの、貴方が気にするようなことじゃないのよ。ただ、少し弱気になってしまっていただけで」


 お嬢様は、半身を隠すべく包帯で覆われた吾輩の頬に手を添えると、明日になればきっといつも通りのわたくしになるわ、と少し眉を下げて笑った。

 胸の内に炎が灯ったような錯覚。彼女の、こういう、どれだけ冷徹に、孤高に見えても、その身には柔らかく暖かい心が宿っているところが堪らなく好きだったのだと、今更ながら気づいた。

 大馬鹿者のフローラが、「アンナは本当にお嬢様が好きね」と呆れながらも嬉しそうに笑っていたのを、今更、本当に今更思い出したのだった。


「それに、ヘンリーもいるもの」

「あやつのことはお忘れ下さい、お嬢様」


 じん、と痺れるような胸の熱が一瞬で掻き消え、真顔になった吾輩に、お嬢様はくすくすと楽しそうに笑った。




  ◆◇◆



 それから、暫くの間はまったくもって平和な日々が過ぎていった。

 お嬢様は順調に勉学に励み、たまにヘンリーがそれを邪魔しに行き、二人でこっそり光魔法を練習しているのを吾輩が見つけ出して怒る、というのがお決まりになりつつある。メイド長が前よりも表情豊かになった、などと言われているが、吾輩は元から表情豊かである。なんだ貴様ら、文句があるのか。

 噂話に花を咲かせるメイド達の尻を叩き、業務を円滑にこなす。そんな日々を幾ばくか繰り返し、卒業が近くなったころ、妙な噂が吾輩の耳に入った。


 イザドラ・クリフトンが、カレン・オールストンに陰湿な嫌がらせをしている。


 学院内で囁かれるそれは日に日に大きくなっている。最初は些細や嫌がらせだったが、今や器物破損や軽度の傷害事件にも発展しつつある、などという、根も葉もない噂だ。

 何か胡散臭い動きがあるのは確かだった。お嬢様は後ろめたく思っていた吾輩に悩みを打ち明けたことで安心したようで、王子への不安こそあれど落ち着きを取り戻していたし、そもそもお嬢様に嫌がらせをする時間など無い。主席卒業を目標に掲げるお嬢様のプライベートはほとんどが勉学で埋まっているのだ。休日など、朝起きて勉強、朝食後に勉強、昼食後に勉強、ヘンリーと光魔法の練習、吾輩がそれを張っ倒し、就寝前にはまた勉強、である。

 無論、学院内でも図書館に入り浸っての勉強の日々である。


 こんなスケジュールで一体どこで嫌がらせだの器物破損だのをやらかす時間が取れるというのか。


「どう考えても何者かが悪意を持って噂をばら撒いていると思うが、どうだ?」

「私もそう思う次第でございます。恐らくはカレン・オールストンの一味かと思われますでございます」

「まだ殴られ足りないのか貴様」

「滅相もございませんです」


 ガゼボの中での緊急会議にて近頃の不穏な動きについて指摘した吾輩に、ヘンリーはいつものように舐め腐った敬語で答えた。全くこの勇者、いつまでたってもろくな敬語が使えない。吾輩が直々に教えてやっているのに、だ! どっちがポンコツか、と問い質してやりたい。


 我々は今現在、なぜだか知らぬが近づく者がとんと無くなったガゼボで、休憩ついでに遅れていた昼食を取っている。

 前は少しは人が通ることもあったというのに、最近は人っ子一人通らなくなった。謎はあるが、好都合なのでそのまま使ってる。用途は主にヘンリーへの説教と、お嬢様の様子についてと、前世時代の雑談だ。

 そして、今回は先程上げた『不穏な噂』に対する緊急会議である。だというのにこいつと来たら。


 苛立ちを込めて強く拳を握ると、対面に座るヘンリーはいつものようにへらへらしながらも、幾分真面目な声で答えた。


「どうも、オールストン男爵家が魔力保有量による家格の差を埋めて勢力図を変えようとしてるみたいだな。ついでにごっそり有力貴族の息子ともパイプを作ろうって感じだろうけど、やり口がすげー雑。魔力の才でゴリ押してるっていうか」

「全く、弱小貴族の浅知恵は見苦しいものだな。だが、表向きは政略不可侵の学院内の揉め事を家の力で収めるのは難しいか……面倒で、厄介で、不愉快だ」

「まあでもそれだって卒業までのルールだろ? 卒業してからの家の付き合い考えたらフツーそんなことしないと思うんだけど」

「……卒業後もクリフトン家からの報復が無い、と考えて行動している、とでも?」


 苦々しい顔で紅茶を口にした吾輩に、ヘンリーは肩を竦めて苦笑した。思わず、カップにヒビが入ってしまった。不味い、後で買い直しておかねば。


「おい、まさか、あのボンクラ王子はお嬢様に恥をかかせる気でいるのか?」

「だろうね。多分、卒業式で」

「ハッ! フ、フフ、ハハハハハッ、冗談だろう?」

「いや、多分本気」

「あのクサレ王子!! 我が滅却の炎で消し炭にしてくれる!!」

「はいはいどうどう、落ち着けー、美味しいマカロンだよー、さあ魔王ー、落ち着きたまえー」


 勢いよく立ち上がった吾輩の口にマカロンが放り込まれた。クリフトン家のメイド長たるもの、咀嚼中には喋る訳には行かない。食べ歩きなどもっての他である。

 顔をしかめつつも座り直した吾輩を見て、ヘンリーは顎に手を当てながら少し悩むように言った。


「暗黙の不可侵ルールさえなければ蹴散らしにいってもいいんだけどさ、それでお嬢が面倒なことになるもの嫌だし、そもそもお嬢から報復って形になること自体あんまり望ましいことじゃないよな。出来たら向こうの自爆がいいんだけど、どうもカレン・オールストンの猫は二、三匹剥いだところで破れそうにもないし」

「……自爆、か。ふむ」

「おっ、なんかアイデアあんの?」

「あるとも。吾輩を誰と心得る」

「大陸覇者にして業火の魔王、アガーフィヤ・ヴィターリエヴナ・ロゴフスカヤ?」

「ただのアンナだ」


 クリフトン家メイド長でお嬢様の教育係の、ただのアンナである。だが、ただのアンナにも出来ることはあるのだ。






 向こうがその気ならば、此方もその気で迎え撃ってやろう。作戦の決行は卒業式の後に開かれる卒業パーティに決定した。

 基本的に学生と学園警備の者以外は入れない学院内だが、パーティともなると別だ。吾輩のようなメイドであっても、お嬢様の許可証があればパーティに入り込むことが出来る。

 とはいえ、従者を連れて歩く者は思っていたよりも少ない。有力貴族の数人が連れている程度だ。


「……なんで貴様まで来ているのだ、ヘンリー。家でおとなしくしていろ」

「メイド長とお嬢様が何か危険な目に遭われますようなことはいけませんので」

「もういい、喋るな」

「承知しました」


 うんざりしながら言えば、ヘンリーは意外にも素直に従った。丸メガネがどうにも野暮ったいが、黙っていればそれらしく見えないこともない。

 お嬢様は努力のかいあって主席での卒業だった。他国への仕事で留守にしている伯爵からも流石にお褒めの言葉が届いたようで、薄っすらと頬を染めて嬉しそうにしていた。お嬢様が幸せならば何よりである。そして、その幸せをぶち壊す輩は確実にぶちのめす所存である。


「イザドラ・クリフトン! この場を借りて、貴様の罪を暴かせてもらう!!」


 そう、例えばあのような輩のことである。

 学長の挨拶も終え、各々が卒業への祝の言葉と門出への祝福を送り合っていた中で響いた声は、何とも不愉快な棘を持って広間にいる全員の耳に届いた。

 ホールの中央に居るのは、件の集団――カレン・オールストン一味である。華奢なイカレピンク頭を守るようにして五人の男が囲んでいる。その先頭に立つのは、あろうことかこの国の第一王子であった。


 氷の微笑を携えたお嬢様が、シャンパングラスをヘンリーに渡して六人組へと視線を向ける。折角父上に褒めていただいて良い気分だったのに、という怒りが、冷えた視線に乗って王子を貫いていた。

 吾輩が冥の性質を強めるまでもなく、お嬢様は大分前に第一王子を見限っている。どう考えても付き合いを続けることにデメリットしかなかったというのもあるし、最近のいざこざでお嬢様の心はすっかり冷え切ってしまったようだった。どちらかというと、最近はヘンリーと仲が良いようにすら見える。しかしあやつはダメだ、他のにしてくれ。


「このような場で迷惑になる程の声量で話すなど、マナーに欠けます。教育係の顔が見てみたいですわね」

「マナー? 貴様が語るな! 下劣な手段でカレンを貶め、追い詰めた女が!!」


 我が身が焼けようと構わぬ、と爆炎魔法の準備を始めた吾輩を、ヘンリーの手がやんわりと制した。ええい、放せ。あやつら全員吹き飛ばしてくれる。

 表面上は薄い笑みを浮かべつつも奥歯を噛み締めていた吾輩に、ヘンリーは小声で囁いてきた。作戦、の二文字に、そうだった、とゆっくりと深呼吸する。


「失礼ですが、全く心当たりがありませんわ。わたくし、ここ数ヶ月ほど勉強しかしておりませんの。遊び呆けていた貴方方と違って」


 からかうような声音で告げたお嬢様に、一味の顔がさっと赤くなる。お嬢様の言葉は正真正銘の事実だ。前年度は成績上位者だった彼らは、指摘どおり遊び呆けていたが為に成績を著しく落としている。

 各家の人間も散々指摘したようだが、一度甘い蜜を知ってしまった人間がそこから自身を立ち直らせるのは酷く難しいことだ。人間は堕落に弱い。堕ちる時はどこまでも堕ちていくものである。


「『勉学に励む』という大義名分で人前に姿を見せぬことでアリバイを作ったのかもしれないが、我々の目はごまかせんぞ」


 一番早く立ち直ったらしい宰相の息子が口を開き、何やら集めていたらしい証拠を列挙し始めた。が、思い込みと容疑者憎しで集められた証拠の類はどれもこれもが不確かで、お嬢様も、聴衆も納得させるには至らない代物ばかりだった。

 後方で、「あら、五十年ぶりかしら、こういうの」という老婦人の楽しげな呟きが聞こえた。そうねえ、と同意の声が続き、見世物を見るような視線が増えていく。



 お嬢様がその中心にいるのは不愉快だったが、ひと目が多くあるのは好都合と言えば好都合だった。


「――――これらの悪行をか弱い女生徒に行い、精神的に追い詰めたことの罪深さは語り切れない! よって、私はこの場でイザドラ・クリフトンとの婚約破棄を宣言する!」

「それで? そこに居られるカレン・オールストンさんと婚約なさるおつもりなのかしら?」


 凪いだ瞳には一瞬の動揺も浮かぶことはなかった。

 もはやお嬢様の心は王子にはない。安心して叩き潰せるということだ。


「ああ、そうだ。父上に許可を取り、教育係をつけ十分な知識を得た後で正式な婚約をする。オールストン家は男爵だが、カレンは稀有な才能の持ち主だ。光属性の魔法――勇者となりうる神聖な力の持ち主であるカレンを王族を迎え入れることはこの国のためにもなる!」

「お待ち下さい」


 もはや言っていることが滅茶苦茶だったが、恋に溺れる若造には目の前しか見えていないのだろう。大方、横に立つ少女が天使か何かのように見えているのかもしれない。ハッ、天使だと? 吾輩の炎で焼き尽くされる程度の脆弱な存在よ。

 本来ならば立場上発言を許されることはない吾輩だが、お嬢様が断りを入れたことで幾分空気が和らいだ。無論、六人組以外のだが。


 なんだこのメイドは、という顔を隠しもしない六人組の前で、私は懐から記憶石を取り出した。これは容量に見合った映像・音声を文字通り記憶できる石で、魔法との併用により空間への投影も出来る優れ物だ。学院の授業でも使われているが、使用する魔力量が尋常ではないので一般で使われることはまず無い。


「カレン・オールストン様の神聖さ(・・・)に関する証言です。御覧ください」


 そう言って、記憶石の映像を投影し始めた吾輩の前で、とうとう、青ざめた顔で立ち尽くしていたカレン・オールストンがへたりと地面に座り込んだ。横に立つ男どもが彼女の身を案じて声を掛ける。

 こういう場では真っ先に声を上げて主張しそうな彼女が何故、今の今まで真っ青な顔で立ち尽くしていたのか。その答えがコレだ。


『カレン様! カレン・オールストン様でございますね?』


 映像は街並みを移している。どうやら従者をつれて買い物中のカレン・オールストンに、体の大半を包帯で覆った醜い女が駆け寄った。惨めに、地にへばりつくようにして声をかけた女に、カレン・オールストンは一瞬、ほんの一瞬顔をしかめたのち、にこりと笑顔を浮かべた。


『はい、私がカレン・オールストンです。貴方は?』

『わたくし、ヘンリエッタと申します。失礼を承知でお願いがあって参りました』


 なんで俺の女性名なの?とヘンリーが呟いたが、無視しておいた。映像は進む。


『なんでしょう? 私に出来ることなら何でもおっしゃってください』

『此処ではひと目が多いので……向こうの路地でもよろしいでしょうか……?』

『ええ、もちろん。ルドルフ、ついてきて』


 心優しい、美しい天使のような笑みを浮かべてみせたカレン・オールストンが、従者をつれて路地へと赴く。いつどこで誰に見られているか分からない以上、その微笑みは崩れることがなかった。

 しかし、鉄壁の仮面も、路地に入り、這い蹲るようにして頭を下げた女が包帯をめくり肌を晒し始めると、様子が変わり始めた。客観的に見て、女の――吾輩の熱傷の痕はあまりにも醜い。当然だろう。魔王が操る炎に焼かれたのだ、二目と見られない醜さであり、どんな聖人でも顔をしかめて目を背ける。

 カレン・オールストンとて、その例には漏れなかった。


『カレン様は光魔法の使い手と伺いました。私のこの傷は、闇魔法の使い手に負わされたものでございます! どうか、私の傷を癒やしの魔法で治しては頂けませんでしょうか?』

『え……? で、でも、その……私、の、魔法はまだ、未熟で……』

『煌の性質に触れるだけでも良くなると聞かされたのです! お願いします! 謝礼はあとで幾らでも御用意いたします!』

『ご、ごめんなさい! 無理です!』


 顔をしかめ、おぞましいものから目を逸らしながら踵を返しかけたカレン・オールストンに、女は更に縋り付いた。


『お願いします! どうか、どうか!』

『きゃっ……! もう、やめてよ!! いい加減にして!!』


 我ながら惚れ惚れするほど惨めな有様だった。特に、突き飛ばされてゴミ箱にぶつかった所なんて名シーンと言ってもいいだろう。

 しかし見てほしいのはこの先である。ここまでなら、『妙な女に力目当てに擦り寄られて逃げ出したか弱いご令嬢』である。見ている者たちもそのような反応だ。だが、吾輩は知っている。吾輩と、カレン・オールストンは知っている。

 このあと、彼女と従者が何をしたのか。


『もう! 変な女のせいでドレスが汚れちゃったじゃない! ルドルフ、そいつ始末しておいて!』

『……よろしいのですか?』

『大丈夫よ、ひと目もないし、そんな女死んでたって誰も気に留めないでしょ。あーあ、光魔法ってこういう面倒ごともあるんだ……うんざりしちゃう!』


 女に掴まれた部分を、汚らわしいものでも払うかのように叩きながら路地を出るカレン。従者であるルドルフはそんな彼女を少し呆れたように見やったあと、未だに転がっている女の頭を数度蹴り潰し、ゴミを被せてから後に続いた。

 映像のラストは、ゴミ溜めで転がる惨めな女を数十秒映し続けて、終わった。ぶつん、と記憶が途切れる時に響く音がやけに大きく聞こえるほど、ホールは静まり返っていた。


 痛いほどの静寂の中で、聴衆の視線はカレンに注がれている。

 稀有な才能を持ち、無垢で美しい天使のような少女。その評判に恥じぬ美貌は、今や絶望に染まり、蒼白というより土気色に変わっていた。


「――――厚かましいお願いの為に命を落としかけた己の愚かさは重々承知しております。ですが、私の願いはここまでされねばならないものでしたでしょうか?」


 静まり返ったホールに、問いを投げる。答えるものはいなかった。

 内心、使用人ごときが他家の令嬢に頼み事など、と思っている者は居るだろう。だがこの場で口に出す者は居るまい。なんたって、映像の妙な女はイザドラ・クリフトンのお付きの者であり、滅多に表にこそ出ないもののクリフトン家のメイド長なのだから。


「…………う、うそよ」


 誰一人、何も答えないホール内に、掠れた呟きが響いた。


「うそよ、こんなの、ちがうわ、ぜんぶあの女がやったのよ! そうに違いないわ! 映像だって全部偽物よ!! だってクリフトン家の人間でしょう!? その女が私を追い詰める為にやったのよ!!」


 絞り出すような吐息混じりの声が、徐々に勢いを増す。脇に立つ男どもに支えられ、なんとか立ち上がったカレン・オールストンは、怒りを滲ませた声で怒鳴り、お嬢様を指差し、そして、


 ――――悍ましい怪物でも見たかのような顔で固まった。


 せっかく立ち上がった両足ががくがくと、子鹿のように震えている。見れば、他の輩もそうだった。というか、怯えているのは一味だけではなかった。

 確かに『令嬢が躊躇いなく従者に殺人を命じる』というのは恐ろしい光景だろうが、此処まで怯えるほどだろうか?と首を傾げかけた吾輩は、次の瞬間、隣から聞こえてきた音にびくりと体を強張らせることとなった。


 金属がひしゃげたような音がする。それは隣の、お嬢様の方から聞こえていた。

 正確には、お嬢様の手の中の、扇子から聞こえていた。溢れ出た魔力が肉体を強化し、彼女の手は傷一つ負うこと無く、美しい扇子をただの曲がった金属の残骸へと変えていた。


 渾身の力でもって扇子をへし折ったお嬢様はしかし、何一つ変わらぬ氷の微笑を浮かべている。だからこそ恐ろしかった。


 とうとう、ひしゃげて原型の分からなくなった扇子を、お嬢様が床へと叩きつける。甲高い音に、フロア中の人間がびくりと硬直した。


「――――貴方方の言い分はよく分かりました」


 肌を刺すような冷気が漂い始めた。冥の性質を持つお嬢様の水魔法は、体の芯まで凍りつくような冷気を帯びる。


「その、愚か者で、恥知らずな女に誑かされ、道を誤った貴方方の処分は、国王様にお任せすると致しましょう」


 ヘンリーが持ったままのグラスに注がれたシャンパンは、すっかり凍ってしまっていた。

 不味い、よくわからないがお嬢様が酷く怒っていらっしゃる。このままではフロア中を凍りつかせ、聴衆を生きながら氷像へと変えかねない。

 そう思って止めようと口を開きかけた吾輩は、今までに見たことがないほど冷えたお嬢様の視線に、そっと静かに唇を引き結んだ。恐らく、そうするのが正しいと思った。吾輩は魔王だけれど、怖いものは怖い。


「ですが、カレン。カレン・オールストン! 貴方の処罰はわたくしが定めます。誰にも文句は言わせません、口を出す者はどんな手段を使ってでもわたくしが直々に手を下して差し上げましょう。たとえ、それがお父様であっても」


 本気だった。イザドラ・クリフトンは本気で怒っていた。紫水晶の瞳には明確な殺意が乗っていた。

 異論はございませんね?と見回すお嬢様に、カレンを除き、その場の全員が頷いていた。






 その後、カレン・オールストンは男爵家が持つ領地の一つであり、王都から遠く離れた地に『療養』しに行くことが決まった。「早くあの女の居ないところにいかせて!」と半狂乱で喚いていたが、一体何をされたのか知るものは居ない。

 第一王子は今回の騒動の責任を取る形で継承権を剥奪、その他の男どもも各家からそれ相応の処罰をくだされたらしい。まあ、どうでもいいことだ。

 あの一件で、『アンナが自分の傷を気に病んでいる』と誤解したお嬢様が必死の思いで光魔法を習得し、吾輩の傷を治すまでの光魔法の使い手になったことに比べれば、大抵の事態は些末なことである。


 幼少の頃、吾輩の厳しい教えに限界を迎えた時以来の大泣きで吾輩を抱きしめたお嬢様は、「必ず、わたくしがなんとかしてみせますわ」と決意の炎を燃やし、宣言どおりに光魔法の使い手となって吾輩の傷を綺麗さっぱり治してしまった。

 冥性質の光魔法使い、などという、歴史上でも類を見ない稀有な存在が爆誕してしまった訳である。

 無論、こんな才能を王家が逃すはずもなく、お嬢様は第二王子と婚約を結び直し、しっかりと愛を育んだ後に盛大な結婚式を挙げられた。


 『恐ろしいが、使用人思いの頼りになる奥様』というのが皆の評価であるらしい。お嬢様の周りにはいつでも笑顔が絶えなくなった。


「いやー、いい感じの大団円でよかったな、魔王」

「ああ、そうだな」

「これで何も心配することはなくなったって訳だ」

「そうとも言えるな」

「じゃあ、俺はそろそろ行くわ」

「…………どうしても行くのか?」


 お嬢様が結婚式を挙げ、盛大なパーティが開かれたその夜。ヘンリーはてきぱきと荷物をまとめると、まるで近場の酒場にでも行くような気楽さで退職を申し出た。

 冗談か何かだと思っていたのだが、どうやら本気のようだった。どうしても引き止めたい訳ではないが、門へと向かうヘンリーに、つい声をかけてしまう。


 『不死身の体を持つ勇者』ヘンリーは、その名に恥じず、不老不死である。生まれた時には既にそうで、原因も理由も分からない。

 ただ、殺しても死ぬことがなく、十九の頃から老いたことがないヘンリーはひとところに留まることが出来ないのだという。

 老いることも死すこともない存在が人間のコミュニティに属するのは、数年で限界が来る。怪しまれる前に去った方が、俺にとっても、お前らにとっても良い、と語ったヘンリーの目はどこか寂しそうだった。


 引き留めたいのか、引き留めたくないのか。分からないまま声をかけた私に、ヘンリーは困ったように笑った。


「そりゃ、俺だってずっと此処にいたいよ。魔王は面白いし、執事の仕事も楽しいしな」

「…………なら、いればいいじゃないか」

「そのせいで辛いことになる方がもっと悲しいから、行くよ」

「…………そうか」


 それ以上声をかけることが出来ず、立ち尽くしたまま見送る吾輩の視界で、ヘンリーの背がだんだんと離れていく。

 その背が門を潜りかけたところで、吾輩は思わず叫んでいた。


「おい! ヘンリー・ソマーズ!」


 ヘンリーが振り返る。


「百年後にまた来い! 雇ってやるから!」


 何の確証もない言葉だった。だが、予感は在った。吾輩は次の人生もメイドをやるだろう。だって堪らなく楽しいのだ。一人ぼっちで魔王をしていたときより、何倍も楽しくて、面白い。

 魂に刻まれた感情は、必ずや吾輩に人の身を与え、仕えるべき主人を授けるだろう。神の思し召しなどではなく、心優しき人間の流れによって。

 だから、もし吾輩がメイド長をしている屋敷にお前が来たなら、その時はまた雇ってやっても良い。


 そう思って叫んだ吾輩に、ヘンリーはくしゃりと笑ってから応えるように手を振った。







 百年後、異郷の地で過ごしたが為に敬語どころか言語を忘れかけたヘンリーの教育に四苦八苦するのはまた別の話である。





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[良い点] 設定とキャラがとてもよかったです。 なろうで在りそうで無かったお話。もっと読んでいたいと思いましたが、うまく終わっていてエピソードもきれいで結果、読感が心地よいものになったと思います。パッ…
[良い点] 魔王や勇者、お嬢様のキャラクターだったり、会話の掛け合い、そのテンポやユーモアだったり、展開だったりと。 「こういうお話が読みたかったんだよぉおおおおおお!」をすべて満たしてくださって、読…
[良い点] 心優しすぎて魔王にはなれそうにないなぁどっちにしろw 勇者が野獣と化してたのか…(´・ω・`) コレハノクターンイクシカアリマセンネ
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