出会い
森に足を踏み入れる。
ここ、フリードリッヒ大森林は非常に奥深い。故に、地域によって見せる顔は全く異なる。ニルヴァーナが自生していたエリアは、温暖で、穏やかな地域だ。水源も、一つ一つは小さいが豊富であり、肥沃だ。災害にも見舞われない。
鬼が近くに里を作った理由でもある。
結果、この鬼の脅威によって力あるものはより近寄らなくなり、また、同時に人里からの強力なバリケードとなっており、ある種の平穏が保たれていた。
ニルヴァーナはそんな土地を捨て、新たな土地を求めて自ら危険なエリアへ入っていた。
見たこともない動植物の宝庫。
だが、麒麟によってもたらされた知識のおかげで、ニルヴァーナとたった一人の眷族は対処できていた。同時に、夥しい経験値が二人に蓄えられていく。
実践に勝る経験はない。
「グルガァァアっ!」
黒みがかった草影の中、飛び出してきたのは黒狼だった。
大森林の中でも特に暗いこの一帯――ダークロウ森をテリトリーにしている獣だ。その鋭い牙と爪は、易々とニルヴァーナの皮膚でさえ切り裂くだろう。
ニルヴァーナの背丈を遥か超える跳躍力と、突進力。
《直撃を受けると、まずい》
その猛威を、ニルヴァーナは冷静に見て、瞬時に判断する。
「――はっ!」
ニルヴァーナは腕を強靭に変化させる。
硬い植物のツタを絡ませ、腕を肥大化させながら、指先に鋭い爪を呼び出す。
それは、黒狼を模していながらも、より強い。
「ガァッ!?」
鋭い踏み込み。しなやかな腕。
カウンターで放たれた一撃は、あっさりと黒狼の喉仏を突き立て、そのまま胴体を縦に切り裂いていく。飛び散る、夥しいまでの血。
むせ返る程の生臭さ。
瞬間だった。
左右から同時に飛びだしてきたのは、黒狼の群れ。斥候の一匹がやられたことで、同時に攻撃を仕掛けてきた。左から三、右から五、と、瞬時に数を見極め、ニルヴァーナは足を変化させる。
足裏から鋭い根を産んで地面に沈み込ませ、黒狼の真下まできたところで地面を飛び出させ、槍のように串刺ししていく。
「「「ぎゃんっ!!」」」
重なる断末魔。
だが、その攻撃をすり抜ける狼が、二匹。
瞬間、飛んできた爪が狼の側頭部が貫き、撃墜する。
「主様だけと思わないことだっ!」
ニルヴァーナは微笑む。
フォローがなくとも対処はできたが、ニルヴァーナはあえて受け入れた。
「助かった」
「い、いえ。余計かと思いましたが……つい」
「構わない。見事だった」
そもそも、ニルヴァーナの攻撃の精度がまだ不十分だったからこそ、そういった隙を生み出したのだ。
ニルヴァーナは反省する。
王になるとは誓った。だが、今は裸の王様同然だ。頼れるのは眷族のみであり、しかも今は新たな土地を見つけなければならない。そのためには戦闘は不可避であり、単純な話、その一帯で最強になれなければ王になれない。
だからこそ、ニルヴァーナは強さを求めていた。
より強い仲間を得るためには、自分が強くならなければならない。
それは、この森林の摂理といえた。
魔物や精霊が跋扈する森だからこそ、強さは絶対的な指針だ。
「グル、グルルルルルル……」
草影の奥で、まだ幾つもの黒狼の気配がある。
ニルヴァーナは油断なく察知し、思案した。
黒狼の攻撃など歯牙にもかけず、反撃で仕留めた。圧倒的な力の差は相手も感じ取っているはずだ。本能的な側面が強い獣であれば、尚更。
にもかかわらず、引かない。
つまり、獣は自分たちだけの意志では動いていないことを意味する。
「命令主は、この辺り一帯の、長……王ということか」
本能的に嫌な予感だした。
直感に優れているはずの黒狼が、後ろ向きな威嚇をしながらではあるが、攻撃の意志を見せているのだ。つまりこれは、ニルヴァーナよりも、その王の方が強いことを示唆している。危険信号だ、と判断した。
《ここを住処にするのは、よくなさそうだな》
ニルヴァーナは退却を選ぶ。
今は争いよりも、自分たちの眷族を安全に増やせる場所を探すことが優先だ。
「いこう。ここはよくない」
「はっ。分かりました」
眷族が素直に従う。
魔力だけはしっかり奪ってから距離を取り、ニルヴァーナは黒さの強い一帯を抜ける。逃げる意思を悟ったのか、襲撃はやってこなかった。
実にきな臭い。
「ここから脱出して、正解ですね。たぶん、我々は誘い込まれていたのではないかと」
その様子と周囲の気配を分析したのだろう、一帯を見渡してから眷族はニルヴァーナにだけ聞こえる声でいった。
「可能性は十分にあるな。おそらく、この一帯の支配者は精霊クラスなのだろう」
「同意ですね。主様は凄まじい力を内包してらっしゃいますから、もしかしてそれを狙ったのではないかと……」
「戦った場合、どうなると思う?」
「主様の必殺の一撃を使えば、どうにでもなるかと」
眷族の答えは早かった。
「ですが、その後が不安なので……」
「うむ。戦うにしても、もっと仲間を増やしてから、だな」
少なくとも、安全に撤退できるマージンを取れなければならない。
内心で目標を設定しつつ、ニルヴァーナはダークロウ森のエリアから抜けた。今度は薄っすらとだが、霧がかっている。
というか、水分が異常に多い。
息を吸うだけで肺が湿る感覚を覚えてしまう。元々が植物なので、豊富な水分は嬉しい限りなのだが。
暗い森とは違って周囲の木々の密度は低く、また生い茂る雑草も背丈が低い。その割には種類が多く、土地は肥沃のようだ。今は霧で日当たりこそ悪いが、霧がなければ日当たりは上々だろう。
耳を澄ませば、水源の音がした。
《ここは、確か》
体内の感覚と、太陽の角度。そして自生している草たち。さらに頭にある知識を頼りに、森林の位置を確認する。
近くにある朽木を確認すると、かなりの量のキノコが生えていた。
「む、ここは……」
眷族も気付いたらしい。
「ランタンの森ですね」
「そのようだな」
麒麟から授かった知識とは、齟齬が位置的にでているが、間違いなくランタンの森だろう。ダークロウの森とはまだ距離があったはずだが、ほとんど隣接している。
これは、ダークロウの森が侵食してきていると考えた方が正しいようだ。
どうもこの辺りは、異変が起きているらしい。
警戒をしつつ、ニルヴァーナはさらに森の奥へ二キロほど進み、ちょっとした広場に出た。周囲は霧が特に薄く、せせらぎの音も聞こえた。気配を探るが、周囲に驚異的なものは感じられない。
絶好の位置だった。
確認のために眷族を見ると、眷族もいたく気に入っているようだ。
ここは、本拠地にするに相応しい条件だった。あの土地を後にして三日目、これ以上の条件を見つけるのは難しいだろう。
「よし、ここに居を構えよう」
「素晴らしいですね、主様!」
「うむ。早速眷族を増やそう」
足裏から根を伸ばし、メリメリと地面に潜り込ませていく。
土も固くもなければ柔らかくもない。いい塩梅だ。
ニルヴァーナは目を閉じて、ゆっくりと眷族を生み出していく。
三日間、ニルヴァーナはずっと考えていた。第一ステージという脆弱な眷族をどのように生み出していけばいいのか。このステージの眷族は能力は低く、複雑な役割は求められない。だが、たった一点に特化させてやれば、それなりの力にはなりそうだった。
ニルヴァーナは、目的を設定していた。
まずは、自分の領土の確保と、安全の確保。このためには多くの眷族が必要であり、また、ここを護る王たる自分も強くならなければならない。
短期的に即戦力的な仲間を探すこともするが、自分の強化も必須だ。
故に、ニルヴァーナは三種類の眷族を生み出すことにしていた。
一つ目は、魔力生産に特化した種。
最も植物的な見た目をしており、魔力を溜めにため込んで、花を咲かせて種子を作る。ニルヴァーナや、眷族が摂取するためのものだ。こうすることで、精神を練磨していく。
二つ目は、戦闘特化の種。
こっちはもっとも禍々しいフォルムをしている。植物、というよりもツタと形容するが正しく、ネズミさえ捉えられる素早い動きと、棘という攻撃性を手にしている。集団にさせることで、堅牢な盾にもなれる。単純な命令しか受け付けしないのが難点だが。
三つ目は、索敵特化の種。
こちらはより大きな花をつける、大きな種だ。広場の外周に芽生えさせ、常に侵入者を見張る役割を持つ。魔力感知に特化していて、強い種を見つけるとニルヴァーナに報せるシステムを有していた。
これにより、敵の早期発見による迎撃対処を目的とした、防衛ラインが形成された。
ニルヴァーナの生み出した種は、あっという間に周囲の雑草を蹴散らし、その姿を増やしていく。
恐ろしい勢いで塗り替えられていく植物の勢力図。
それを感知したのか、たまたまなのか。
まだ防衛ラインが完全に構築しきるより早く、強大な気配はいきなりやってきた。
「――ここで何をしている、そこの鬼のなりそこない」
低く、敵意に満ちた声。
ニルヴァーナと眷属は反射的に身構えた。
携える、焔の揺らぎのような赤い剣と、真っ赤なサンゴ礁のような髪。ややタレ目ながらも、鋭い意志を携えた瞳。
《――強い》
ニルヴァーナは、そう確信した。