ニルヴァーナ
ずかずかと粗暴極まりない足取りと、周囲を遠慮なく怯えさせる傍若無人極まる魔力と。まさに、鬼。
意識あるものなどいないはずなのに、どうしてか畏縮の雰囲気が漂う中、《雑草》だけは敵意を剥き出しにしていた。
《コイツだけは、コイツらだけハ!》
だが、《雑草》には攻撃手段はおろか、まともに動くことさえできない。たっぷり時間をかけて、葉の向きを動かせる程度だった。
悔しさが滲む。
《雑草》が強力に進化させたのは、根のみだ。それでは、憎き鬼どもに復讐することなどできやしない。《雑草》は己を呪った。
「おや、なんだこりゃ」
「死体がどうなったのか見にきたら、こんな状態になってたのかよ」
そんな《雑草》の葛藤に気付かず、鬼は無遠慮に足を踏み入れた。
もしこれがただの草であれば、根絶やしにしてやれるのに。
《コイツらヲ……! 許せナい!》
激情に身を揺らすが、鬼は気にすらせず、《雑草》の分身をむしった。
《……っ!? ……――――っ!?》
電撃が駆け抜けて、衝撃の激痛が全身を襲う。
自分の身が、初めて削がれたのだ。焼き切れるような痛みに、思考回路がズタズタにされる。それでも、鬼が自分の分身を喰らうのを、目の当たりにした。
今度は、とてつもない喪失感に見舞われる。
悲しみに打ち据えられ、《雑草》はうなだれてしまった。
「ほう、予想通りだ。魔力が回復する」
「へえ、すごいね! あのバカの地を浴びて突然変異したんだね、雑草が」
ニタニタしながら、鬼はまた別の分身をむしり、豪快に貪り喰らう。
「ふふん、根分けして分身を増やしてるんだね」
「だとしたら、親株さえ残していれば、また食えるってワケか」
互いに顔を見合わせ、鬼は《雑草》を蹂躙した。
その悲鳴も苦痛も悲痛も、何ひとつ聴こえないまま。
《あア、アあ、やメろ……どうシテ……ドウ……しテ!》
攻撃手段を。
ただ、攻撃手段を。
こいつらを、こいつらを、ただちにどうにかせねばならない。
それだけを願って、《雑草》はまた進化していく。だが、あまりにも時間が足りなさ過ぎた。鬼はものの数分で、一ヶ月かけて育てた《雑草》の分身をほぼ駆逐したのである。
茫然自失。
ただただ蹂躙されるしかなかった《雑草》は、絶え間なく襲われた激痛からの疲労と己の無力さと、鬼への恨みがごちゃごちゃになっていて、動けなかった。
物理的ではなく、思考的にも。
見えない涙を《雑草》は流す。
すっかり荒れ果てた土の地面の中、ただ一人ぽつりと佇むしかなかった。
「お前が親株だろ。うまかったぜ、魔力」
「またくるから、その時までに数を増やしていろよ。一ヶ月もあれば十分だろ」
そんな《雑草》に、鬼は残虐な笑みを浮かべながら恫喝してくる。
だがそこに《雑草》へ語りかけるというイメージはない。鬼にとって、聴こえていようがいまいが関係がないのだ。
徹底的なまでの嘲りに、《雑草》はさらに激情を宿す。
「あーっははははは! それにしても、あのアホな子、死んでようやく役にたったね」
「たまたまだろうけどな。はっはっは!」
親とはとても思えない発言を残しながら、鬼は去っていった。
あの時と同じような、ふてぶてしい足取りで。
憎い。憎くてたまらない。
憎悪の対象でしかない後ろ姿を見ながらも、《雑草》は思考する。
《アの時――? いツの時なんダ? いヤ、今はどうデもイい。今は――……》
深い絶望と、痛嘆の消沈。
《強クなりタい。そレこソ、鬼なンて、歯牙にモかけナいくラい!》
そして、激情。
黒い恨みの焔は渦を巻き、ひたすらに彼を焼き払う。
《そノたメにハ、もっと、もっト、早く――強く――高く――》
イメージ。
どうしようもない心を、《雑草》は吐き出す術を知らない。叫ぶことも、泣くことも、誰かに縋ることも知らない。だからこそ、ただひとり、恨みを晴らすことだけを思考した。
結果、導き出されたのは、鬼のような姿になることだった。
鬼――人型には、高い汎用性がある。攻撃できる手と、足がある。何よりも早く、何よりも強く、何よりも。
深い恨みがあるからこそ、《雑草》は強いイメージを描く。
「……ァ、アアあアあああアアあ、ああ、ア、ああああっ!!」
黒い炎が全身を覆い、生々しい音が響き渡る中、《雑草》は声帯を得た。
ぎょろりと世界を睨む目を得、世界に轟く口を得、世界を噛み切る牙を得、世界を切り裂く爪を得、世界を掴む手を得、世界を駆ける足を得、世界を構築する頭を得、世界の器となる胴体を得――より、生体活動を高速に、激しい熱を保てるよう、高度に専門化させ――各種内臓器官を得。
そのために必要なエネルギーは、全て周囲から賄った。
およそ周囲十メートル四方の草は当然、木々さえも朽木になるほどのエネルギー量。
それほどの代償を払って、《雑草》は、鬼となった。
気付けば、周囲は焼け野原同然――真っ黒にすすけた大地、焦土と化していた。
大地に深く刻んでいた根を足裏に収納し、一歩踏み出す。
だが、その一歩で《雑草》は大きくぐらつき、倒れこんだ。どうして歩けないのかが理解できず、《雑草》は大きく混乱する。
そこへ、気配が現れる。
強大すぎるが故に、むしろ静謐に感じる、恐ろしいほどの魔力。全身を、恐怖や怒りとは違う意味で震わせ、《雑草》はそれを見た。
『――驚嘆に値する』
視線があうと同時に、それは男、あるいは女、もしくは老人、はては子供の声で《雑草》を端的に称賛した。
鹿の身体に、龍の顔と、眉間から猛々しく伸びる黄金の麒角。馬の足に、牛の尾。そんな体躯を覆うのは、黒美に光る鱗。馬のように壮麗と揺れる背毛は五色。
あまりの神々しさに、《雑草》は息さえできなかった。
『名乗っていなかったな。我が名は麒麟。この世界の光と命を冠する星獣である』
麒麟の言葉の意味を理解して、《雑草》は畏怖した。
魂から抵抗を許されない。
正しい神を、今、目の当たりにしているのだ。
『鬼の子の恨みから自我を得、再びの痛みを経て精霊と化した様、見ておった。一〇〇年、いや、一〇〇〇年に一度、出現するかどうかの奇跡。まさに麒角鳳嘴といえよう』
麒麟はゆっくりと歩を進める。
それだけで、焦土だった大地に命が宿り、薄く光る。
『その根底は恐ろしく黒い激情。されど、その身は白い清浄。相反するが故に、成立したその魂。凄烈だな。その身を焦がすか、変革をもたらすか――興味を持った』
無秩序に、無尽蔵に大地へ力を与え、《雑草》が見たこともない新しい草木が芽吹く。草木はどんどんと成長し、麒麟と《雑草》を守るように囲っていく。
異様な状況下を無視し、麒麟は《雑草》にその角で触れた。
『お前に足りぬのは、骨だ。その身を支える骨。その心を支える骨。それは見えぬもの。故に再現できなかった。なれば、我がそれを与えよう』
「……あ、アあぁア」
違和感。
自分の中で、何かが芽生え、成長していく。
『さぁ、永久の私の力を宿し、その魂の燃えるがまま生きるがよい』
《雑草》の全身が輝く。
恐ろしいまでの、光。湧き上がる、活力。恨みといった激情の奥とは違う、清廉な流れ。
とてつもない力の奔流の中、《雑草》に流れ込んできたのは、知恵の源だった。紐解かれ、次々と知識が弾けていく。
『お前の名は《ニルヴァーナ》だ。今日、たった今からそう名乗るがよい!』
告げた麒麟が眩い光に包まれ、刹那にして消える。
暗くなる。
麒麟の力で異常に成長し、互いに絡み合った草木はニルヴァーナをドーム状に包み、光さえ通さなくなっていたのだ。漂ってくる濃厚になった緑の匂いの中、《雑草》――否、ニルヴァーナは静かに起き上がる。
今度は、転がらなかった。
しっかりと地面を踏みしめる。
子供と差し支えない大きさながらも、確かな鬼の体躯に、薄桃色の肌。長い植物の髪。それが、彼だった。
「……俺は……ニルヴァーナ……」
ぽつりと、声を出す。声変わりの迎えていない、子供のそれだった。
「はじまりの……子」
ニルヴァーナは自覚していた。自分が、ただ一人の種の始祖であると。
だが、やるべきことは消えていない。
自分の源となった鬼を殺し、また、自らの眷属をも喰らった鬼どもへの復讐だ。
「……邪魔だな」
ミシミシ。
軋む音を立ててニルヴァーナの全身に絡みついてくるのは、ニルヴァーナをドーム状に囲う草木の壁だった。おぞましい程に蠢き、光さえ通さない命の牢獄は、ニルヴァーナを取り込もうと迫ってくる。
その中で、ニルヴァーナは自分の内側で煌々と輝く光を掴む。
ニルヴァーナの腕に、一振りの黄金の、無骨な直刀が出現した。
それは、麒麟から与えられた、麒麟の角が変質した剣。ニルヴァーナだけが持つことを許された、世界で唯一の、剣。
ニルヴァーナは、その名をただ叫んで、力を解放した。
「――薙ぎ払え、丙子椒林剣っ!」
轟。
ただその一振りで、自分に纏わりついていた全てが消し去った。
塵さえ残さず、そして大地を再び焼き払う。
生まれた静かな衝撃波は、その残滓ともいえる葉を舞い散らすのみ。
ニルヴァーナはまた剣を振るう。すると、再び焦土と化した大地から、今度はゆっくりと若芽が現れる。それは、ニルヴァーナが雑草の頃だったものと同じものだった。
その草むらに向けて、ニルヴァーナは気を失って倒れこんだ。
次回の更新は明日の朝です。