緋眼の姫侍 前
俺と魅狐は、仲間になってくれるかもしれない緋澄なる者を訪ねて藤林城の近くまで来ていた。
鬼の王と人間の妻との間に産まれし子……人姫緋澄。
魅狐曰く、彼女はここの城主の姪に当たるのだという。
てっきり城にいるのかと思いきや、聞き込みをしたところ城下町の外の畑にいるのだという。
なので町の外へ引き返し、畑に囲まれたあぜ道をふたり並んで歩いていくこととなった。
「あの城の姫様なのだろう? 畑にいるとはどういうことだ」
「畑仕事でもしとるんじゃろ。幼い頃も植物を育てたりしとったからのう」
魅狐はさらりと言ったが、俺にはどうも信じられなかった。
えてして姫様というのは城の中に篭って贅沢暮らしをしているものだ。
畑仕事をするなど以ての外ではなかろうか。
「はぁ、しかし歩き疲れたのう」
魅狐が大きなため息をついた。
「少し休んでいくか?」
「ふむ……仁士郎よ、ちょっとここで四つん這いになるのじゃ」
足元を指差す。
「何故だ?」
「黙ってやってくれたら、わらわの尻を触らせてやるぞ?」
「……やむを得まい」
その誘惑には抗えない。
俺は何も聞かずあぜ道の真ん中で四つん這いになった。
「どっこいしょなのじゃ」
次の瞬間、背中に柔らかな重みが乗せられた。
魅狐が俺の上に座っていたのだった。
「……何をしている」
「休憩じゃ」
「道端に座ればいいだろう!」
「着物が汚れるから嫌なのじゃ」
俺の袴は汚れてもいいと言うのか。
「ほれほれ、背中に意識を集中して、尻の感触を堪能するといいのじゃ」
しかも触らせてやるとはこういう意味か。
騙されたっ……!
男を尻に敷くという言葉はよく聞くが、実際に敷き物代わりにする奴は初めて見たぞ。
こんな屈辱的なところを他人に見られたら武士の尊厳も何もあったものではない。
どうか今だけは誰も通りかからないでくれ……。
地面しか見えない視界の隅に、土だらけの足が映り込んだ。
「……おめぇさんがた、こんな道のど真ん中で何やってんだ?」
思いきり他人に見られたっ……!
さらばだ、俺の尊厳よ。
「休憩しとるんじゃよ」
ちなみに俺はぜんぜん休まらない。
「おぬしも座っていくか?」
「薦めるなっ!」
我慢の限界が来て、俺は無理矢理体を起こした。
「ぬわっ!」
魅狐は弾き飛ばされたように前のめりになってよろめく。
倒れはしなかったが、すぐに恨めがましい目が向けられた。
「椅子のくせに急に動くでないわっ!」
「椅子になるのを了承したつもりはない……!」
「そんなことを言って、内心喜んでいたのじゃろう助兵衛めが」
尻に釣られたのは事実なので一瞬だけ言葉に詰まってしまった。
「世の中には変わった人たちがいるだなぁ……」
農夫らしき男性がしみじみとした呟きをこぼす。
俺まで変わった人扱いされてしまったようだった。
「それはともかくとして……」
気を取り直して、本来の目的に立ち戻るとにした。
「お尋ねするが、俺たちは緋澄という者を捜している。この畑にいると聞いたのだが……」
「ああ、おひい様ならあそこに」
と農夫は畑の中を指差す。
野良着で鍬を振っている若い娘が見えた。
「ほう、大きくなったのう」
年寄りくさいことを言う魅狐だった。
「うちのせがれなんかよりもよっぽど熱心に手伝ってくれて。ありがてぇことです」
「あれが緋澄……?」
鬼の血を引く女……。
遠くから見た限りでは至って普通の人間だ。
「筋骨隆々としていて熊をくびり殺す巨女ではなかったのか」
「なんじゃそれは」
「いや、忘れてくれ」
俺の想像とはだいぶ違った姿だった。
「本当に農作業をしているのだな」
「むぅ……仁士郎、気を付けい」
感心する俺の袖を引っ張り、魅狐が一転して緊張した声を出した。
「どこからか邪な気配がするのじゃ……恐らくわらわを狙う刺客じゃろう」
「なに……どこだ!」
俺は刀の柄に手をかけて辺りに視線を飛ばす。
しかし作業をしている百姓ばかりで鬼の姿はどこにもなかった。
見渡す限り畑が広がっているだけだ。
見通しが良いため、鬼が隠れられそうなところもない。
「本当にいるのか?」
「かなり近くに迫ってきているはずなのじゃが……」
「あっ!」
と声を上げたのは、かたわらに立つ農夫だった。
「あそこ、な、なにか動いてる……」
農夫の視線は緋澄に向けられている。
作業をしている彼女の背後……その地面が、なにやらモコモコと隆起していた。
モグラにしては大きすぎる。
「いかん、走るのじゃ仁士郎……! わらわではなく緋澄を狙った刺客だったのじゃ!」
魅狐の焦った声が言い終わらぬうちに、俺は駆け出していた。
畑の中を突風となって駆ける。
人間だった頃とは比べものにならない脚力で、あっという間に鍬を持った娘に接近した。
彼女は何も気付いていない。
「逃げろっ!」
俺の声に娘が振り返る。
そのときだった。
モコモコと動いていた地面から、一匹の鬼が飛び出した。
「我が名は土鬼! 人姫緋澄よ、魎鉄様のために死ねえっ!」
一本角で両手に長い爪を生やした鬼が娘に飛びかかる。
「土竜伐殺爪!」
「おおおおっ!」
同時に俺も、走る勢いのまま躍りかかり、刀を抜き打った。
空中で俺と土鬼が交差する。
一撃で勝負はついていた。
土鬼は体を真っ二つに両断され、地面に落ちると同時に絶命したようだった。
「無事か? 怪我はないか?」
俺は刀を納めて、立ち尽くす緋澄へと駆け寄る。
彼女は鬼の返り血を浴び、立ったまま気絶していた。
◆
ざっと見る限り緋澄に怪我は無いようだった。
とはいえ気絶したまま立たせておくわけにもいかないので、ひとまず農夫の家へと運び込むことにした。
布団で寝ている彼女は、見た目で言えば人間とどこも変わらなかった。
角も生えていない。
年の頃は魅狐とそう変わらない十六か十七ほどだろうか。
艶やかで長い黒髪。
畑仕事をしていたわりに肌は透き通るように白い。
多少の土汚れと血糊が残っているが、少女らしい可憐さと女らしい色香を併せ持つ美しい顔立ちの娘だった。
「んん……」
と小さな声を漏らして緋澄がつぶらな目を開ける。
澄んだ緋色の瞳があらわになり、俺はつい見入ってしまっていた。
「あれ……私は……」
緋澄は状況が把握できていない様子で上半身を起こす。
かたわらに座る魅狐が満面の笑みを浮かべてみせた。
「久しぶりじゃな、緋澄よ」
俺には一瞬も見せたことがない顔だった。
「えっ……そんな、まさか……姉様……魅狐姉様!?」
緋澄が大きく目を見開いて息を呑む。
そして魅狐の白くて太い尻尾に手を伸ばし、もふもふと撫でまわした。
「ああ、この感触……間違いなく魅狐姉様です……!」
「どこで判断しとるんじゃ」
緋澄は次に魅狐の頭頂部に生えた三角形の耳をふにふにと弄ぶ。
「……姉様……ずっとお会いしたかったです……」
「触られながら言われてもあまり感動が伝わってこんのじゃ」
うっとりしながら耳を触り続ける緋澄。
魅狐は嫌がる素振りもなくされるがままにしている。
俺はただただ待っているしかない。
なんだこの時間は……。
しばらくしたあと、はっとした緋澄がようやく手を離した。
「ど、どうして姉様がここに……?」
遅い疑問だった。
足元のほうに座る俺にも気付いて、訝るような視線を向ける。
「こちらの方は……? そ、それに、私は畑にいたはずでは?」
「順を追って説明するとじゃな……こやつはわらわに仕えておる半妖の侍、仁士郎じゃ」
仕えたつもりはないが。
「おぬしは畑におったところを鬼に襲われかけたのじゃが、この仁士郎が撃退したおかげで無事に済んだというわけなのじゃ」
「そうでしたか……私、驚いた拍子に気を失ってしまう癖があるのです」
厄介な癖だな。
緋澄は居住まいを正し、俺に深々と頭を下げた。
「助けてくださりありがとうございました、仁士郎様。このご恩は忘れません」
そこまでかしこまられると逆に申し訳なくなってくる。
「いや……姫様が無事に済んでなによりです」
「はい。おかげさまで」
「しかしそんな立場の人が護衛も連れずに畑仕事とは、驚きました」
「先ほどみたいに鬼が来たとき巻き添えにしてしまうので、周りの人を遠ざけてるんです。それに……」
緋澄は気恥ずかしそうに目を伏せた。
「武士の方々よりも私のほうが強いですから……」
和やかさにうっかり忘れそうになるが、彼女は半分鬼の血を引いているのだ。
ならば普通の人間よりも強い力を有しているのだろう。
「私は他の人たちより長く働いても疲れません。一度に多くの物を運ぶことができます。そして、鬼や妖怪と戦う力もあります」
野暮ったい野間着姿からは戦う姿があまり想像できないが。
「なのでお城の中にいるより、外に出てこの能力を生かしたいと思ったんです。どうせ私は嫁ぎ先も無いでしょうし……少しでも領民の方々の役に立ちたいんです」
「立派な心掛けだと思います」
へつらっているわけではなく、俺は心からそう思っていた。
「……ありがとうございます」
緋澄は言いながら顔を伏せる。
それは照れ隠しのようでもあり……ほんのわずかだけ顔に浮かんだ翳りを誤魔化しているかのようでもあった。
「こやつに気を許すでないぞ、緋澄よ」
と、魅狐が冷ややかな声で茶々を入れる。
「女と見たら誰彼構わず手を付ける助兵衛妖怪じゃからな」
ひどい言い様だった。
「おまえは俺のことをそんなふうに思っていたのか。 ……誰彼構わずなんてことは決してないぞ。その、ああいったことも初めてだったしな……」
「助兵衛という部分はちっとも否定せんな、おぬし」
強く否定できないのは確かだった。
俺たちのやり取りを聞いていた緋澄が、微笑ましそうにくすりと笑みをこぼした。
「さて……わらわがおぬしに会いに来た理由は、言わずともわかるじゃろう?」
魅狐が神妙な面持ちで本題を切り出す。
それを受け、緋澄も同じように深刻な顔をした。
「はい……その話は町に戻りながら致しましょう。いつまでもこの御宅のご厄介になっているわけにもいきませんので」