黒炎の八尾 二
出立はあきらめて宿に泊まっていくことにしたのだが、それはそれで大変だった。
俺たちと同じくこの大雨によって足止めを余儀なくされた旅客が殺到し、どこの宿屋も大混雑となっていたのだ。
どうやら南のほうに城下町があるらしく、もともと往来の多い土地らしい。
なんとか宿を取ることは出来たが、相部屋につぐ相部屋。
二十畳ほどの部屋に俺たちを含めて十数人もの泊まり客が押し込められた。
大部屋でもこれだけ入るとさすがに窮屈さを感じる。
とはいえ外は大雨。
雨風をしのげる寝床を確保できただけでも良しとしておこう。
「男と一緒に寝るのか……」
魑潮が絶望的な口調で呟いた。
「こんな状況では男も女もないのじゃ」
魅狐が慰めるように答える。
たしかに男女関係なく放り込まれているが、夫婦らしき者たちや、小さな子を連れた家族もいる。
むしろ衆人環視と言っていい状況で良からぬことを企む男などいないだろう。
……と思っていたのだが。
なにやら部屋の隅に座り、俺たちをじっとりした目で見ている男がいるのに気が付いた。
浪人者らしい風貌。恐らくはひとり客。
正確に言うなら、俺たち、ではなく、彼女たちを舐め回すような視線で眺めていた。
ひいき目に見ても美人姉妹だ。
そのような気持ちが湧いてしまうのも同じ男としてはよくわかる。
ただあまり良い気分はしない。
その不埒な視線に魅狐も気付いていたようだった。
「目障りじゃな」
ぼそりと言ったかと思うと、その男へ向けて蚊を追い払うような動作をする。
すると次の瞬間、男はコテンと倒れ、大きないびきをかいて眠り出してしまった。
「何をしたんだ?」
「ふふふ……よっぽど疲れておったんじゃろ。あのぶんでは朝までぐっすりじゃろうなあ」
口元を袖で隠して忍び笑いをする魅狐。
相変わらず不思議な術を使うやつだ。
◆
食事はきちんと出してもらえたが、問題はそのあとだった。
部屋が一杯なら布団も一杯。
皆に行き届かせるためか、俺たち四人に対して二組の布団しか貸してもらえなかったのだ。
とはいえ他の客も同じような具合だから文句は言えない。
それにひとつの布団にふたりで寝ればいいだけなのだから、これはそれほど問題ではない。
真の問題は、その内訳をどうするかということだった。
「さて仁士郎よ。わらわと緋澄、どちらと寝るのじゃ?」
「仁士郎様が決めてくださってかまいません」
口調は穏やかだが、水面下でなにかがうごめいている気がしてならない。
「ああ……うむ、そうだな……」
俺としては、このふたりのうちから片方を選ぶという行為を極力避けていきたいと思っている。
姑息かもしれぬが、三人で良い関係を続けていくためには必要な気遣いだ。
しかし今ばかりは避けられない瞬間であった。
「わらわはどちらでもよいのじゃ。別に選ばれなかったとしても、ぜんぜんこれっぽっちも嫉妬したりせぬし」
「わたしもどちらでも結構です。ちーちゃんも、わたしでも姉様でも、どちらと寝てもいいですよね?」
「ああ。さっさと決めろ」
額に汗を浮かべている俺に、魑潮の氷のように冷たい目が刺さった。
「……よし。ここは公平にいこうではないか」
「公平?」
「魅狐と緋澄でそちらの布団に寝てもらって、俺は魑潮と寝る」
冗談に決まっているのだが、魑潮と魅狐に両脛を蹴られた。
◆
ロウソクの火が落とされると、月明かりもないため部屋の中は暗闇に包まれた。
さらに激しさを増した外の雨音に加え、多くの人間の高いびきや寝息が部屋中に響き渡っている。
ただでさえ寝苦しい状況だが、俺は別の意味での寝苦しさを味わっていた。
……狭い。
魑潮がひとつの布団に悠々とひとりで寝ている横で、俺と魅狐と緋澄は三人でひとつの布団に詰め込まれていた。
はみ出してしまわないために相当密着している。
柔らかくて温かくて良い匂いのする物体に体を挟まれているのは大変に気持ち良くて嬉しい状態ではあるのだが……。
このまま寝なければいけないというのはある意味苦行でもあった。
しかも先ほどから魅狐が俺の体をまさぐっている。
「……やめろ」
一応小声で注意するも、素直に聞くやつでないのは明白だった。
さらに首筋を舐めたり耳を甘噛みしたりとやりたい放題だった。
「周りに人がいるのだぞ。悪ふざけはよせ」
「どうせ暗がりで誰も見えぬ」
「そういう問題ではない」
「それにのう、ぬふふ、人目を忍んで致すからこそ興奮するのではないか」
あいにく俺はまだその域には達していない。
さらに魅狐は身を乗り出して顔を近づけてきた。
とどめとばかりに唇を一舐めされる。
頭の奥が痺れるようだった。
「い、いいかげんにしろ……」
「仁士郎……こうして布団の中で妻と肌を合わせておるというのに何の気分も湧いてこぬと申すのか?」
「いや、そういうことではなく……」
むしろ湧くから困っているのだが。
「ひとたび好きになったからと言って、そのまま永遠に好きでいるわけではないのじゃぞ? 相手に好きでいてもらえる努力をお互いにせねばならんが男女の仲なのじゃ」
急に説教じみたことを言い出す魅狐。
ただ、言っていることは一理ある。
「その努力が足らなかったばかりに離縁してしまう夫婦はごまんとおる。己だけは例外と思うのはうぬぼれなのじゃ」
それも一理ある。
「おぬしもそうなりたくなければ……どうすればよいか、わかるじゃろう?」
「言葉巧みに脅して体を迫ろうとは、どこの女衒だ」
この場合、俺を困らせて楽しんでいるだけで、本気でどうこうするつもりはあるまい。
最初の頃は何を考えているかわからない奴と思っていたが、今ではそれくらいわかるようになってきた。
「もう寝ろ」
相手にしないのが最善策だ。
放っておけば飽きて寝るだろう。
「むう……! 口ではそのようなことを言いおって、こちらのほうはぜんぜん寝る気はなさそうじゃがのう」
「妙なところを触るなっ……!」
魅狐のイタズラから逃れるために体を動かす。
するとどうだろう、どんどん反対側にいる緋澄に覆いかぶさる体勢になってしまう。
待て……これではまるで俺のほうが良からぬことを企んでいるみたいではないか。
「あ……いけません仁士郎様……皆様がいる前で、そ、そのようなことは……」
案の定、誤解されてしまった。
◆
翌朝。
泊まり客が起き出してくるに従い、部屋の中は騒然とし始めた。
「おい誰か俺の匕首を見なかったか?」
「私の三十両がない! 買い付けに使う大切な金なのに……!」
「織物がないわ!」
「俺の春画もねぇぞ! 誰が盗みやがったっ!」
どういうことだ、これは……?
盗っ人が猛々しくもこの大部屋を荒らしていったとでも言うのだろうか。
昨夜のうちに……ということになるのだが、俺はまったく気付かなかった。
……いや待て。
十数人もの人間が寝泊まりしていたのだ。
夜中に部屋を出入りしたり、荷物をいじったりしていた者も当然いただろう。
だが、出入りしていたのは本当にこの部屋の泊まり客だったのか。
いじっていた荷物というのは本当に自分の荷物だったのか。
当然そこまで把握していたわけではない。
不審なことを不審と思わず見逃していた可能性も大いにあるということだ。
一応俺も自分の荷を改めてみる。
ただ俺が盗まれて困るのは、このお祖父の形見でもある刀くらいのものだ。
なくなっていたらこれほど落ち着いてはいられない。
大事な路銀に関しても、いつものように布団の下に隠して寝たので無事だった。
魅狐たちも盗まれたものがないか確かめているが、そもそも、目をつけられるような値打ち物は持っていなかったはずだ。
見たところ緋澄の刀もきちんとある。
被害がなくひとまずの安堵をしかけたとき、
「な、ない……!」
と愕然とした声を発したのは、寝坊気味に起きてきた魑潮だった。
「な、なにがなくなったのじゃ?」
「……剣」
それはもしや、龍族の秘宝だという、あの……?




