黒炎の八尾 一
お祖父には香というひとり娘がいた。
十九のとき、道場に住み込みをしていた門下生と結婚した。
それが俺の父と母だ。
父は俺が産まれる寸前に行方をくらませて二度と帰ってこなかった。
便りひとつ来なかったので、所在どころか生死さえわからずじまいだった。
母は俺を産んですぐに体を壊し、そのまま亡くなってしまったらしい。
それゆえ俺は両親の顔を知らない。
物心ついたときからお祖父とふたりきりで暮らしていたのだ。
◆
街道を歩んでいたところ急な大雨に見舞われた。
不幸中の幸いか、宿場町が目と鼻の先にあったので濡れねずみになる前に飛び込むことができた。
店の軒先を借りて雨宿りをしていたが、一向に止む気配はない。
むしろ雨脚は強まっていく一方だ。
暇を持て余していた中、どういう流れだったか俺の親の話になったのだった。
以前軽く話した気はするが、詳しく語ったのは初めてだった。
いつか聞いてもらいたいと思っていたからちょうど良い機会だったのかもしれん。
「仁士郎様、寂しくありませんでしたか?」
緋澄が思いやるような目を向けてくれる。
白い小袖に桜色の羽織。
藤色の袴に刀を吊っている。
頭の高い位置で結った長い髪はカラスの濡れ羽色――今は文字通り雨に濡れてしまっていた。
「無性に寂しい気分になる日もあった。特にお祖父が死んで、いよいよ天涯孤独となったときはな」
彼女たちの前で強がっても仕方ないので正直に吐露した。
「だが今は平気だ」
これも強がりではない。
「家族というのは減ることもあるが、増やすこともできる。それを教えてもらったからな」
緋澄と魅狐の顔を順に見る。
改めて考えても妻がふたりいるというのは面妖だが。
あの頃を思えばずいぶん賑やかになったものではないか。
その向こうにいる魑潮は興味なさげに雨空を見上げているだけだった。
この気難しい娘は俺のことをどう思っているかわからないが、俺のほうは、大事な義妹として家族の一員に数えている。
「きっとこれからは増える一方です。もう仁士郎様に寂しい思いはさせません」
「嬉しいことを言ってくれるな」
「そのためには緋澄もいろいろと増やす努力をせねばならぬなぁ」
魅狐の含みのあるささやきに、緋澄は少しだけうつむいて小声になった。
「ええ……いずれは、わたしも妻として一生懸命がんばりたいと思います」
そのときが来たら俺も頑張るとしよう。
「しかしじゃ。その話を聞く限りでは、おぬしの父は今もどこかで生きておる可能性があるのではないか?」
「あっ、さすが姉様です。言われてみればその通りです!」
「……かもしれんな。だがさっきも言ったように俺は父の顔も名前も知らないからな。仮に今目の前を通り過ぎたとしても気付かないだろう」
そしてそれは向こうも同じはずだ。
一度も顔を見たことがない子のことなど気付きようがない。
「さがしてみませんか?」
妙案を思いついたように緋澄が手を叩く。
「いえ、もちろん今すぐという話ではなくて、いつかという話です。仁士郎様もお父上様にお会いしたいでしょう?」
俺としても、この十八年の人生の中でそういったことを思わなかったわけではない。
……しかしだ。
「会えるものなら会ってみたいという気持ちはあるが……一方で気おくれする部分もある」
「それはそうじゃろう。女房と稚児を捨てていったひどい男なのじゃ。顔も見たくなかろう」
魅狐は腕を組んで、自分のことのように憤りをあらわにした。
すでにこの世にいないのなら仕方がない。
だが生きていたとするなら、あえて俺に会いにこなかったということになる。
十八年ものあいだだ。
果たして向こうは俺に会いたいと思うだろうか。
「目の前にしたら、どのような顔をしていいかわからず、きっと俺は弱ってしまうだろうな」
「だとしても……どこかで生きておられるのでしたら、せめてお互いの無事を報せるだけでもなさったほうがいいと思います」
緋澄は真剣な表情で告げる。
「仁士郎様の前から姿を消したのも、なにか、やむにやまれぬ事情があったのかもしれませんし」
彼女たちの父――鬼の王であったひとはすでに亡くなっている。
どれだけ会いたいと願っても二度と会うことはできないのだ。
それを思えば、同じ空の下で生きているだけでも恵まれているほうなのかもしれない。
……いや実際は生きているのか死んでいるのかもわからないのだが。
「そうだな。では、会えるときがきたらおまえたちも付き添ってくれ。そうすれば少しは気が楽になる」
ふたりは即座に頷いてくれた。
「はい、もちろんです。私も妻としてきちんとお父上様にご挨拶しなければなりませんので」
「仁士郎に寂しい思いをさせた恨み言くらいは言ってやらねばならぬからのう」
頼もしい嫁たちだ。
「ただ……顔も名前もわからないのでは、やはり捜しようがありませんよね……。どうしましょう」
「いや、名前くらいわかるじゃろう? おじじに剣を習っておった弟子というのがわかっておるのじゃから」
「えっ、ですが仁士郎様、顔も名前もわからないと仰いましたよね?」
「ああ。どういうわけか、わからないのだ」
「うむ……? それは妙ではないか?」
幼き日の俺も魅狐と同じ疑問に思い至った。
しかし家の中に父の素性を示すものは何もなかった。
「お祖父に尋ねたこともあったが嫌そうな顔をするだけで結局教えてはもらえなかった」
子供の好奇心を消し飛ばすくらい、それは本当に嫌そうな顔だった。
「俺も幼いなりに気を使ってな、それ以降は父のことを聞けなくなってしまったのだ」
「待ってください。ということはつまり、仁士郎様にも名前を明かせないような、やむにやまれぬ特殊な事情があったということでは……!」
興奮する緋澄とは対照的に魅狐はどこまでも冷静だった。
「どんな事情じゃ?」
「それは、わたしには想像もつきませんけど……」
「ふん。大方、おじじも名を口にすることさえ憚られるような外道だったのじゃろう」
「仁士郎様のお父上様がそんなひどい人のはずありませんっ!」
「トンビが鷹を産むという言葉もあるのじゃ」
「いいえ、きっとご立派な方のはずです。なにか、よっぽどの、やむにやまれぬ事情が……!」
「それは聞き飽きたのじゃ」
「……むー」
「待て待て。結局のところ真相はわからないんだ。空想だけで口喧嘩をされても困るぞ」
非難したい魅狐の気持ちも、擁護したい緋澄の気持ちも、一通りを経てきた俺には両方わかる。
その上で、俺の中ではもういないものとして片付けていた話だったのだ。
「でしたら、なおのこと捜し出して真相を聞くべきです!」
「ああ。そのときまでこの結論はお預けとしておこう」
いつになるかはわからないが、それも悪くないという気分になってきた。
話してみるものだな。
そういえば、だが。
忘れ去った記憶をふたりが掘り起こしてくれたおかげでひとつ思い出したことがある。
父のことを尋ねたときのお祖父の表情。
今にして思えば、あれは嫌そうな顔というのとは少し違っていたかもしれない。
あえて言うならば……なにか苦悩していたような……そんな顔だった気もしてくる。
だが今となっては、お祖父の心のうちなどそれこそ空想するしかないことだ。
◆
それにしても雨はやまなかった。
ますます勢いを増している。
おまけに風も出てきた。
まだ昼下がりだというのに、このぶんでは終日この宿場町で足止めを食らう覚悟を決めた方がよさそうだ。
「魑潮よ、おぬしの力で晴れに出来ぬか?」
「無理だ。ああいうのはもっと年を食った龍にしか出来ない芸当だからな」
と、なにやら魅狐と魑潮が妙な会話をしているのが耳に入った。
「私はまだまだ若いし、なにより龍の血は半分しか流れてないから、力も半分しかない」
「ふむ、残念じゃなあ」
俺の怪訝そうな顔を見て取ったのか魅狐が説明してくれる。
「龍族は天候を操る力を持っているのじゃ」
「私に出来るのはせいぜい小雨を降らしたりやませたりするだけだ。こんな大雨にもなると手がつけられない」
小雨を降らせるだけでも大した能力だと思うのだが。
魑潮はなんでもないことのように言って、退屈そうにあくびを噛み殺した。




