魔風の色鬼 後
鬼……!
何故こんなそばに近づかれるまで気づかなかったのか。
「生き物である限り異性を求める本能には抗えぬ。わしの術は単純明快。その本能をくすぐり、ただただ己に素直な状態にしてやるだけのものじゃ」
色鬼と名乗った二本角の鬼は、薄笑いを浮かべて俺たちを見下ろしていた。
「が、ひとたび術に囚われれば決して抜け出すことはできぬ。ひたすら異性をむさぼるだけの獣と化し、やがて快楽の海にて溺れ死ぬ。故に『淫風獄死の術』」
「なんだとっ……!」
では緋澄がこうなってしまったのもその術によるものか。
「魎鉄様に背いたとはいえ同じ鬼族としての情け。せめて苦しまず、めくるめく悦楽の舟にて極楽浄土へ旅立ち召されよ」
まずいぞ、これは……!
とにかく緋澄の目を覚まさなければ……。
いた仕方ない、多少手荒になるが。
「許せよ――しっかりしろ!」
重たい腕をどうにか持ち上げ……緋澄の尻をひっぱたく。
ぱーんと快音が響いた。
「あふっ……」
緋澄は体を弾ませ、恍惚とした吐息をもらす。
そしてさらに体を密着させてきた。
「それ……とても……ぞくぞくします……」
しまった、逆効果だった!
秘められていた新たな扉を開いてしまったのかもしれん。
うかつなことは出来んぞ、これは……。
ならば。
「み、魅狐、寝ている場合ではないぞ! 起きろっ! すでに鬼に襲われている!」
「……むぅ?」
うたた寝をしていた魅狐がうっすらと目を開ける。
そして緋澄に組み敷かれている俺を見て――彼女も覆いかぶさってきた。
ぐあっ……!
「これこれ、緋澄よ、抜け駆けはいかんのじゃ。わらわも交ぜよ」
「んふふ……もちろんです。姉様も一緒にだんな様の子を産ませていただきましょう」
「ならばじゃ、どちらが先に子を授かるか勝負というのはどうじゃ?」
「おもしろいですね。受けて立ちます」
「ふ、ふたりとも、そんな場合ではないぞ……!」
まるで鬼の姿が見えていないかのようだ。
うっとりした四つの瞳は脇目も振らず俺の顔だけに注がれている。
「ふぉふぉふぉ。無駄じゃ無駄じゃ。そのほうら四人ともすでに我が術中。女のほうが日頃情欲を押し殺しておるぶん効果覿面じゃが、男もじきに効いてくる」
この術は本当にまずい……。
こいつの言う通り、俺もほとんど術中にあるといっていいだろう。
頭ではふたりを押しのけようとしているのに、俺の腕は、逆にふたりの体を抱きしめようとしている。
それを抑えるので精一杯なのだ。
少しでも気を抜くと意識が飲み込まれそうになってしまう。
打開策を考える余裕すらない。
「仁士郎、意地悪をするでない……早くいたせ……」
「だんな様のお好きなほうからで構いませんから……」
ふたりはのたうつ蛇のように汗ばんだ肌をおしつけてくる。
これは天国か、あるいは地獄か。
むせ返るほどの女くささに溺れそうになるのを、顔を背けて必死に耐えた。
「よ、よせ……頼むから正気に戻ってくれ……!」
色鬼は俺たちの痴態を好奇な目で眺めているだけだった。
もはや無防備同然。殺そうと思えばいつだって出来るだろうに。
手を下す必要さえないということか。
このまま俺が堕ちるのも時間の問題……そう言いたいのか。
たしかに、この甘美な誘惑に飛び込みたくてしょうがなくなっている。
だが、そんなことをしたら全員があの世行きだ。
頭の中でほんの少しだけ残っている冷静な部分が、懸命に警鐘を鳴らして俺を思い留まらせてくれていた。
「ふふふ、仕方ないのう……。仁士郎よ、普段は辛抱しておることがあるじゃろう? 今日は思う存分それをしてもよいぞ」
滅多にないくらいに甘やかしてくれる魅狐の声。
それだけで腹の下をくすぐられているような気分になる。
「な、なにをだ……?」
「おぬしのことはすべてわかっておる。本当はもっと思うままにしたいのじゃろう……わらわたちの足を」
うっ……。
「ももに頬ずりをして、ひざ裏の匂いを堪能して、ふくらはぎを舐め降りて、足の裏の味を確かめて、指のあいだに舌を出し入れしてもよい、と言っておるのじゃ」
うおおお……。
「しかもふたりおるから、それを四回も楽しめるのじゃぞ」
ぐおおおおお。
……もう駄目だ。
意識が朦朧としてきた。
もはや自分が立っているのか寝ているのかすらあやふやだ。
視界がぼやけて白い靄がかかってくる。
目に入るのは、魅狐と緋澄、愛するふたりの嫁だけ。
いや……そもそも……なぜ、このふたりをこんなにも拒絶せねばならないというのか……。
ねがってもないことではないか……。
「だんな様……わたしたちのこと、好きではなくなってしまったのですか……?」
「そ、そのようなことは、決して、あ、あるものか……」
「んふふ……では焦らしているのですね。……でも、もう限界なのです……。どうか、おねがいですから、わたしの口を吸って……」
「わらわのもじゃ」
ふたりが取り合うように顔を近付けてくる。
わかるぞ……。
この唇に触れてしまったらもう終わりだ。
二度と戻ってこれなくなる。
だが、それに抗うだけの力は俺には残されていなかった。
◆
「ずいぶん耐えたほうだが仕舞いじゃな。さて……果てるまでのあいだ、わしはこちらの生娘で遊ばせてもらうとしよう」
色鬼が、うずくまっている魑潮へとにじり寄る。
「よ、寄るな……!」
魑潮も抵抗を試みているようだが、うまく体を動かすことが出来ないらしい。
「ふぉふぉふぉ。口ではそのようなことを言っても、男が欲しゅうて欲しゅうてたまらない気分になっているのであろう?」
「黙れ……!」
「男を知らずに死んでいきたくはなかろう。案ずるな、わしは乱暴は好まぬ。己に正直になれば、そなたのほうから求めてくるようになる」
色鬼の作る影が魑潮の上に落ちる。
舐め回すような視線が体を這った。
「もう苦しまずともよい。心の声に従いさえすれば、女として最上の享楽の中で死んでゆけるのだぞ」
「そのふざけた口を……今すぐ、引き裂いてやる……!」
「ふぉふぉふぉ。自分で出来ぬのなら、どれ、わしが手伝ってやろう」
◆
はっとした。
何をやっているのだ俺は。
唇が触れ合う寸前――ふたりの肩を押さえて食い止める。
俺はこの魅狐と緋澄のふたりを、妻として、あらゆるものから守っていくと誓いを立てた。
そしてそれは、ふたりが大切にしているものをも含めて守るということだ。
大切な妹に魔の手が伸びようとしているのに、こんなまやかしの誘惑に負けてなどいられない!
だが……とっさに腕は動いたものの状況は変わっていない。
ふたりがかりで押さえつけられていて身動きが取れないのだ。
この状況を脱するには、やはり、このふたりにも正気に戻ってもらう他ない。
「魅狐! 緋澄! 目を覚ませ! 魑潮にも危機が迫っているのだぞ! 黙って見ていてよいのか!」
出来ることと言えばただ声を出すだけ。
「大事な妹を平気で見殺しにするような、そんなひどい女たちなら、俺は見損なうぞ!」
きっと届くはずだ。
鬼も目に入らないほど我を失っているのだとしても、ずっと俺の言葉には受け答えできていたのだから。
「だが俺の気に入った魅狐と緋澄はそんな女ではないはずだ! 魑潮を救うためにはおまえたちの協力が要る! このような術に負けるな!」
「……むぅっ……!」
そこで異変が起きた。
魅狐が顔をしかめて苦しみはじめる。
「むぅぅぅ……んんぅ……むっ!」
きゅっと閉じたまぶたが再び開いたとき――彼女の瞳にいつもの鋭い光が戻っていた。
「緋澄……やめぬかぁっ!」
そして緋澄に組みついて俺から引き剥がしてくれる。
「ああっ!」
物欲しそうに伸ばされた緋澄の手は、俺の着物をつかむ寸前で空を切った。
ふたりは揉み合うようにして地面を転がる。
「魅狐、目を覚ましてくれたか!」
その隙に俺は立ち上がった。
いまだ頭ははっきりせず、体は鉛をつけられたように重いが……。
大丈夫だ、動ける。
「緋澄はわらわが押さえておく! おぬしはさっさとそやつを斬りゃ!」
「任せろ!」
刀を抜き、振り返る。
色鬼は魑潮にすっかり覆い被さらんとしていた。
◆
「立て、色鬼!」
「言われずとも立っておるが……これは奇特な」
むくりと屹立した色鬼が俺に向き直る。
地面に仰向けにされた魑潮は……見たところまだ無事なようだ。
「我が術を跳ねのけようとは。ふぉふぉふぉ。そちらの女たちはもう抱き飽きたか?」
「正気を失わせて体の自由を奪い、悪戯に女の操を散らそうとは見下げ果てた蛮行! この勇薙仁士郎、座して見過ごすわけにはいかん」
「その万全でない体で何が出来ようと?」
「刀を振れる。それで充分だ」
「大人しくしておれば女の腕の中で死ねたというのに。愚かな男じゃ」
正対しても色鬼は余裕の態度を崩さなかった。
腕力にも自信があるのか、あるいは奥の手を残しているのか……。
「わしに近付けば近付くほど術の効果も強力になってゆく。わしがあと一歩踏み出せば、どうなろう? ……こうなる!」
言葉通りに色鬼が一歩近寄る。
その瞬間、色鬼の姿が霧散した。
代わりに人間の女が現れる。
目もくらむような裸形。
そして絶世の美女と言っていいだろう。
一瞬にして周りの景色さえ忘我の境に消えた。
今ここにいるのは俺とその女だけ。
「うふふふ……おいで」
艶やかな笑みを浮かべ、すべてを受け入れんと両腕を開く。
俺は迷わずその胸に飛び込み――切っ先を突き刺した。
「な……何故じゃ……!」
女がかき消え、血走った目を見開く色鬼の姿に戻る。
「おぬしの本能が訴える、理想通りの女のはず……!」
「それがか? 化ける相手を間違えたな」
刀を引き抜き、横薙ぎに一閃。
顔を強張らせたままの色鬼の首が宙に舞い、地面に落ちて血煙を飛び散らせた。
「いくら俺でも、他の女の誘惑になら心を動かされたりはせん」
血振りをして刀を納める。
色鬼が絶命したことで術の効果も消えたようだった。
◆
「魑潮、何もされなかったか?」
「さ、触るなっ!」
抱き起こしてやろうとしたところ、まるで害虫が止まったかのように勢いよく手を払われてしまった。
そこまで邪険に扱わなくてもいいではないか。
とも思ったが、あんな目に遭わされたあとでは無神経だったかもしれない。
「いや、すまない。無事ならいい」
魑潮はまだぐったりと横たわっていたが、じきに動けるようになるだろう。
踵を返そうとしたところ、
「……おい」
とぶっきらぼうに声をかけられた。
「……仁太郎」
「仁士郎だが」
「一応、礼儀として、礼は言っておく。……助かった」
「気にするな。俺もこの前おまえに助けられたからな。これでおあいこだ」
「ようやってくれたな、仁士郎! 見事な剣さばきだったのじゃ」
と労ってくれながら、魅狐が魑潮の介抱を回る。
振り向くと緋澄もすっかり術が解けたようだった。
「お、恐ろしい相手でしたね……」
乱れた着物をそそくさと直しながら声をうわずらせる。
先ほどの熱が残っているためか羞恥のためか、耳まで真っ赤になっていた。
自分が何をしていたかはっきり覚えているようだ。
「だんな様……い、いえ、仁士郎様へのわたしの気持ちを利用されてしまうだなんて……」
そのまま呼び続けてくれてもよかったのだが。
「まんまと術中にはまってしまって、情けないです」
「無理もない。俺も九割九分飲み込まれていたからな。危ういところだった」
もしかしたら今までで一番の窮地だったかもしれない。
「それにしても魅狐、よくあの術から抜け出すことができたな」
ぎりぎりで踏み止まっていた俺と違って、こいつは完全に術に飲み込まれていたように思う。
その状態になったらもう抜け出すことは出来ないというのが色鬼の弁だったが。
「ふむ……。おぼろげながら聞こえた内容によると、秘められた情欲を引きずり出して本能の虜としてしまう術のようであったが」
魅狐は少し思案をめぐらせたあと、愉快そうに含み笑いを浮かべた。
「ならばわらわには効果が薄かろう」
「どうしてだ?」
「わらわは日頃から本能に忠実に生きておるからのう。そのような術をかけられたとて飼い慣らすのはたやすいということじゃ」
つまり、痴女を痴女に変化させてもそれは平常通りということか。
たしかに緋澄に関しては乱心と言うしかなかったが、魅狐はしらふであんな言動をしていてもおかしくない。
……自分の妻としてそれはどうなのかという気持ちが一瞬だけ湧いたが……。
おかげで命拾いできたので良しとしておこう。
普段なら困らされるようなことでも、役に立つときがあるのだから捨てたものではない。
「ところで仁士郎よ、聞き捨てならぬことがあったのじゃが」
と、魅狐が抱きつくように身を寄せ、ささやきかけてくる。
魑潮はもういいのか。
「……わらわたちのことはもう抱き飽きたのか?」
「なっ、なにを言うっ……!」
「あの色鬼とやらが言っておったじゃろう」
相変わらず耳の良いやつだ。
「事実おぬしはあの術にはかからなかったのじゃ。おかげで皆助かったわけじゃが、女としては複雑な気分じゃなぁ」
拗ねたように口を尖らせる。
見上げる目線は、いつものからかうときの雰囲気があった。
「わらわたちには魅力が無いと言われておるようじゃ」
「そ、そんなはずないだろう。敵の妄言に惑わされるんじゃない」
「ならよいが。せめて証くらいは見せてもらわねばのう」
「証?」
「実は……先ほどの術のせいで体が熱くなったままなのじゃ」
小動物を前にした獣のように舌舐めずりをする女狐。
「これも夫としての役目じゃ。今宵は早めに布団に入っておくのじゃぞ? ぬふふ……」
「おまえにはもう少し、こう、男女の機微というのを学んでもらいたいな」
前言撤回だ。
やはり、こういう言動は少々考えものかもしれん。




