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魔風の色鬼 中

仁士郎じんしろう様、お聞きしたいことがあるのですが」

 えらく真剣な顔をして緋澄ひすみが訊ねてくる。


「どうした?」

「わたし、仁士郎様の妻にしていただきましたけども……」

「ああ、なってくれたな」

「妻というのは何をすればよいものなのでしょう?」


 朝食を済ませたあと早々にゆいの里を旅立った俺たち四人は、深い樹海の中をひたすら歩いていた。

 人里離れた奥地にあったため、来るのも大変だったが抜けるのも一苦労だ。


 魅狐みこはというと、前をスタスタと歩く魑潮ちしおになにやらちょっかいをかけにいっている。

 俺に対しては無愛想な顔しか向けぬ魑潮ちしおだが、姉に対しては自然と笑みを浮かべたりもしていた。


 よもぎ色の小袖に墨色の袴。

 一見すると緋澄ひすみと同じく女武芸者といった装いだが目を引く点がふたつある。

 髪が異人のように黄金色をしているのと、刀ではなく古びた石剣を腰に差しているところだ。


 鬼の王の跡目争いに当初は無関心な彼女だったが、一昨日の出来事がよほど心を動かしたらしい。

 その後の姉たちの説得もあって、俺たちの仲間に加わり共に魎鉄りょうてつと戦うことを決意してくれたのだった。


「今朝料理をしてくれただろう。肌着も洗ってくれているな」

 横を歩く緋澄ひすみへ視線を戻す。

 表情からしてその答えは不満のようだった。


「それは腰元の方でもやってくれます」

 庶民には腰元という発想はなかったが、一理ある。


「もっと、妻でなくては出来ないようなことをしたいのです」

「難題だな」


 ずっとお祖父じいとふたり暮らしで母の顔さえ知らぬ俺にはなおさらだ。


「世間の言うところでは、亭主が働きに出ているあいだ家を守るのが妻の役目のようだが」

「しかし今は、仁士郎様は働いておりませんし、家もありません」


 ……まごうことなき事実だが、なぜか耳の痛くなる言葉だった。

 早くも亭主としての責任感が芽生えてきたのだろうか。


「そうしますと妻の役目は見当たらなくなってしまいます。……わたしは仁士郎様のために何ができるのでしょうか」


 首をひねって悩む緋澄ひすみ

 相変わらず生真面目なやつだ。


「特に何もせず、今まで通りでいいぞ」

「ですが……」

「俺が思うに、夫婦になったからといって急になにかを改めてなくてもいいのではないか?」


 俺のためになにかをしてくれようという気持ちはありがたい。

 ただ緋澄ひすみは一生懸命になりすぎてしまうところがあるからな。

 気楽に構えているくらいでちょうどいいように思う。


「変えるべきところがあれば自然と変わってゆくものだろう。はやらずともいい」

「そういうものなのでしょうか」

「それに俺は、なにかをしてもらいたくておまえたちを嫁にしたわけでもないからな」

「では……どうしてお嫁さんにしてくださったんです?」


 それは疑問というより、なにかを期待している響きを含んだ問いかけだった。

 そしてそれに答えるには俺はかなりの恥を忍ばなければならない。


「……こういうことは心に秘めておいて、あまり口にするべきことではないと思っているのだが」

 さすがに気恥ずかしくなって声をひそめる。

「お互いの気持ちはわかってるのだから、それでいいだろう」


「わかっていてもちゃんと言葉にしていただきたいときがあります。……たとえば、今ですとか」

 澄んだ緋色の瞳が甘えるように見上げてくる。

 俺はこの眼差しから逃れる術をまだ会得していなかった。


「……平たく言うと、やはり、その、決まっているだろう……心底惚れているから、添い遂げたいと思ったのだ」


「ふふふ……知ってました」

 はにかんだように微笑む緋澄ひすみ

 この答えには満足してくれたようだった。


 いや、こうなったら毒を食らわば皿までだ……!

 俺は一度心に決めたことはとことんまでやり切る男だからな。

 知らんぞ。

 手始めに肩を抱き寄せてやる。


「わっ」

「俺ほどの幸せ者はいないだろう。こんなに可愛らしくて甲斐甲斐しい妻を持つことが出来たのだからな」

「そんな……」


緋澄ひすみと一緒にいると俺は和やかな気分になれる。こんな殺伐とした旅の中でも心を穏やかに保っていられるのは、おまえが安らぎをくれるからこそだ」

「仁士郎様……」


「もし緋澄ひすみがいなくなってしまったら俺の人生はひどく荒涼たるものになってしまうだろうな。そんな人生は考えられない。だからいつまでも俺のそばにいてくれなくては駄目だぞ」

「は、はい。それは、もちろんです……妻ですから」


 うつむいた横顔が茹でられた蛸のように赤くなっていく。

 言わせたのはおまえなのだからな。

 照れさせたら俺の勝ちだ。


「つまりな、無理になにかをせずとも、おまえは充分俺のためになっているのだ。それでいいではないか」

「はい……。そこまで言っていただけて、わたしのほうこそ幸せ者です」


 緋澄ひすみも俺のほうへ体を預け、なかば抱き合うような体勢になる。

 歩きにくいが……まぁ良しとしよう。


 ふと我に返ってみると相当恥ずかしいことを言っていた気もするが……。

 誰も聞いている者がいないので、まぁ良しとしよう。


「ぬぁぁっ! わらわが少し目を離した隙にそのような睦言むつごとを交わしておるでないのじゃーっ!」


 いや、いた。

 耳ざとく聞きつけたらしい魅狐みこが舞い戻ってきて駄々をこねはじめる。


「不公平じゃー! わらわにも言うべきなのじゃーっ!」

「また今度な」

「ぬぁぁっ!」


 前を歩く魑潮ちしおから呆れたようなため息が出るのが聞こえた。


 ◆


 魎鉄りょうてつを直接追うことは断念したため、元来通り、鬼族の本拠地が旅の目的地だ。


 魎鉄りょうてつの根城がそこにあるので、待ち構えていれば確実に出くわせる。

 そして次の王を決める儀とやらもそこで行われるらしい。

 まさしく決戦の地と言えよう。


「……腹が空いた」

 ようやく樹海を抜けて平原に出たところで、魑潮ちしおが子供のようにつぶやいた。


 太陽の位置からして昼過ぎといった頃合いか。

 歩き詰めだったので、俺の腹もちょうどいい具合に空いてきている。


「あそこで休むとするのじゃ」


 と魅狐みこが、だだっ広い野原に一本だけ生えた大きな松を指差した。


 ◆


 松の木の下に腰を下ろし、包みを開ける。

 中はかしわ餅。

 結の里を発つときに飯屋で買っておいたものだ。


 彼女たちを狙う鬼の刺客がいつ襲ってくるかわからないので、このようなときでも油断は禁物。

 とはいえ、ここは前後左右見渡すかぎりの平原だ。

 曲者が近づいてくればすぐに気付けるので多少は気が休まる。

 魅狐みこもそれを考慮してここを休憩場所を選んだのだろう。


「ちーちゃんも一緒に、こうして四人で旅が出来るようになって嬉しいです」

「すべてが落ち着いたら、次は魑潮ちしおの婿殿を探してやらねばいかんのう」


「うごっ!」


 魅狐みこが突然そのようなことを言ったので魑潮ちしおが餅を喉に詰まらせた。

 必死に竹の水筒から水を流し込んで、なんとか九死に一生を得る。


「そんなもんはいらんっ!」


 本人が男嫌いと言うくらいだから、いろいろな意味で難しい問題であろうな、それは。


「あっ、いいことを思いつきました!」

 緋澄ひすみがパチンと手を鳴らす。

「せっかくですからちーちゃんも仁士郎様のお嫁さんにしていただくのはどうでしょう? そうすればわたしたち――」


 今度は彼女のおでこがパチンと鳴った。


「ああっ、ちーちゃんが叩きましたっ!」

「おぞましいことを言うからだっ!」


 とりあえず俺は赤くなったおでこをよしよしと撫でてやる。

 こういうことを悪気なく言ってしまえるのが緋澄ひすみの良いところでもあり悪いところでもある。


 ……いや悪いところでしかないな。

 危ない、うっかり「あばたもえくぼ」という状態に陥るところであった。


「でもわたし、結婚をできて、今とても幸せなのです。こんな素敵な気持ちになれることがあるのですから、是非ちーちゃんにも経験してもらいたいという一心で……」

「そんなに良いものかねぇ」


 友人たちの嬉しそうな姿も見ているはずなのに、なおも胡乱げな眼差しを送る魑潮ちしお

 緋澄ひすみは淀みなく「はい」と頷き返した。


「とっても良いものです。心からおすすめできます。ねっ? 姉様」


「うむ。このような旅烏たびがらすでは暮らしが変わらぬので夫婦になった実感は薄いが、それでも心構えは大違いじゃな」

「ですよね。ふふふ」


 嬉しそうに笑みを浮かべるふたり。

 どうも成り行き任せにバタバタと夫婦になってしまった気もしていたが、結果的にはこれでよかったのだ。


 お祖父じいの呑み仲間だった白兵衛しろべえさんが、若いうちの勢いで結婚しときゃあよかった……といつもぼやいていたのが思い出される。

 きっとこれがその勢いというやつなのだろう。

 千載一遇の機を逃さずに済んだのは、そんな

白兵衛さんの切実な言葉が頭の片隅に残っていたからに違いない。


 遠く離れたこの地から感謝を送るぞ白兵衛さん。


 ◆


 腹が膨れたからか、なんだか頭がぼんやりしてきた。


 横を見ると魅狐みこが丸くなって寝息を立てている。

 まずいな……。俺まで昼寝をしてしまいそうだ。


 気を取り直すべく辺りを見回す。

 雲ひとつない晴天。見晴らしの良い野原。短い草がかすかに風で揺れている。

 怪しい影などは見当たらないので、少しくらいなら休んでいてもいいのだが……。


 これは気がゆるみすぎている。

 よくないとわかっているのにどうにも頭が働いてこなかった。


 心地良い微風が優しく肌をなでていく。

 風上に花畑でもあるのか、妙に甘ったるい匂いが香っていた。


「あの……仁士郎様……」

 緋澄ひすみのささやく声。

「さっきの話なのですけど……」


 さっき……?


「わたしの、妻としての役目……ひとつだけ、思いつきました」


 彼女にも睡魔が訪れているのか、うわ言のような喋り方だった。

 てっきり解決したと思っていたのにまだ考えていたとは。


「それは……仁士郎様の子を産み、育てることです」

「ずいぶん気が早いな」

「仁士郎様は欲しくありませんか……?」

「そうではないが……今まで考えたこともなかった」


 たしかに、夫婦となったからにはその次の段階もあろう。

 そうか、子供か……。

 俺は独り子だったから、兄弟がたくさんいたほうが賑やかで良さそうだな。


 目を閉じてそんな光景を思い浮かべてみる。

 俺がいて魅狐みこがいて緋澄ひすみがいて、たくさんの子供たちがいて……。

 思わずにやけてしまう光景だった。


「いずれは授かることができればいいな」

「いずれ、なんて嫌です。わたしは……今すぐ欲しいです」

「いや……今すぐというのは、さすがに難しいだろう……」


「でも、もう我慢できないのです……。今すぐ……わたしに授けてくださいっ!」


 言うが早いか、俺は飛びついてきた緋澄ひすみに押し倒されていた。


「おっ、おい……!」

「先ほどからそのことしか考えられないのです……!」

 すぐ目の前に彼女の熱っぽい顔が迫る。


「どうかわたしに産ませてください……だんな様の子を」

 とろけるように潤んだ瞳。

 半開きになった唇からあえぐような息遣いが漏れる。


「ま、待て、緋澄ひすみっ……! ど、どうしたというのだっ!」


 いくらなんでもこれは、明らかに様子がおかしい。

 たとえ酒に酔ったとしてもここまで乱心するやつではあるまい。


「わたしのほうは、もう、受け入れる準備ができておりますから……」


 緋澄ひすみは自ら着物の前をはだけさせ、サラシまでほどきはじめる。

 桜色に上気した肌。

 豊満な胸の膨らみまであらわになった。


「こ、このようなところで脱ぎ出すやつがあるかっ……!」


 ひとまず着物を直してやろうとするが――

 腕に力が入らない!

 まるで鎖に繋がれているかのように、体の自由がきかない……!


 ◆


「――ふぉふぉふぉ。この色鬼いろおにの『淫風獄死いんぷうごくしの術』……すでに相成った」

 

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