魔風の色鬼 前
とても幸福な夢の中にいた。
ある朝起きたらかわいい嫁がいて、すでに朝食の準備がなされていたのだ。
「おはようございます、だんな様」
春風のようなあたたかい声。
朝の日差しを浴びて、澄んだ緋色の瞳がきらきらと輝いているように見えた。
「お台所の隅を貸していただいて作ってきました」
彼女の手には皿。
形の良いおにぎりが盛られていた。
「夫婦になってはじめての朝ごはんですから。このようなもので恐縮ですけど、わたしの作ったものを食べていただきたかったので……」
照れ隠しをするように微笑む。
「わたし料理はまだぜんぜん出来ませんけども、これから学んでいきたいと思っています。これはその第一号です」
この愛くるしい微笑みを寝覚めに拝めるのは俺だけの特権と言えよう。
「わらわはみそ汁を作ったのじゃ」
と、もうひとりの嫁が湯気の立つ椀を運んでくる。
「板長に味見させたら絶賛しておった。大いに期待してよい出来じゃぞ」
銀色の髪。頭頂部にピンと立つ大きな狐耳。そしてふかふかのしっぽ。
浮世離れした風貌の彼女だが、たすき掛けをして前掛けをつけると一変して家庭的な雰囲気をまとうようになる。
そういう姿も良い。
「聞いてください、だんな様。姉様ったらずるいんです。花嫁修業はしていないと言っていたのにちゃんとお料理できるんですよ」
「この程度、できる内に入らぬ」
「わたしからしたら充分すごいです」
「むしろ緋澄、おぬしがみそ汁の作り方すら知らぬとは思わなかったのじゃ」
「うっ……」
「あやうくただの湯にみそをぶち込んだだけの汁を飲まされるところじゃったぞ仁士郎」
「だ、誰にだって知らないことはあります。でも今日学びましたから、同じ過ちはおかしません」
「先が思いやられるのう。このぶんでは、しょう油で煮ただけのものが煮物として出てきそうじゃ」
「えっ、違うのですか?」
「……」
……なぜかふたりも嫁がいた。
うむ、まぁ、そういう都合のいい夢もあるだろう。
しかし夢にしてはずいぶんはっきりしていて……なかなか覚めない。
逆にどんどん冴えてくる。
というかここは……俺の家ではないな……。
……旅籠か。
「さぁ、冷めぬうちに食べるのじゃ」
「ああ……むろん食べさせてもらうが、その前に顔くらい洗わせてくれ」
障子を開けると縁側。
すぐ目の前の庭に井戸がある。
冷たい水で顔を洗うと寝ぼけていた頭がすっきりした。
そうだ、思い出した。
これは夢ではないのだった。
◆
魍呀との戦いがあった翌日、まずは和修吉さんと摩那さんが婚儀を行なった。
魑潮は少し涙ぐんでいるように見えた。
そして次は俺たちの番。
妖怪の世界の祝言とはどういうものかと身構えたが、特に難しいことはなかった。
神主によるお祓いを受け、祝詞を聞き、神が宿っているという霊石に夫婦になることへの誓いを立て、盃事を行なった。
ひとつ面食らったのは、互いの血を混ぜた酒を呑まされたことだった。
指先を少しだけ切り、酒の注がれた盃に血を落とす。
俺と魅狐と緋澄、三人ぶんの血が混ざって赤く染まった酒を三人で回し呑みしたのだ。
ふたりのものとはいえ、さすがに血を呑むのは気後れしたが……。
心身ともに結びつくための儀と言われれば呑むしかあるまい。
かくして婚儀は終わり、俺たち三人は、この結の里に認められて夫婦になることができたのだった。
◆
互いの結婚を祝い合ったあと、和修吉さんたちは定住の地を求めて旅立っていった。
魑潮はついていかなかった。
それでは今生の別れになってしまうのではと危惧したが、彼女いわく、
「会いたくなったら捜せばいい」
ずいぶん気の長い話ではないか。
しかし魅狐いわく、
「龍族は千年以上生きると言われておるからのう。それも良い暇潰しくらいにしか思わんのじゃろ」
なるほど、種族が違えば考え方も違ってくるものだな。
俺たちはというと、魍呀との戦いで受けた傷もあってもう一泊していくことにした。
だが驚くべきことに、夜にはその傷がすっかり癒えていた。
半妖の肉体となって人間とは比べものにならないほどの治癒力を得たが、これはいくらなんでも早すぎる。
どうやら、婚儀で呑んだ酒による効果ではないかというのが魅狐の見立てだった。
霊験あらたかな神聖な酒により気力と体力が満ち溢れ、傷の治りが早くなったのだと。
ふたりの肌艶が良くなっている気がするのもその効果なのかもしれない。
そして翌朝――
夢見心地で目を覚ました俺は、顔を洗ってさっぱりし、宿の一室へと戻った。
◆
俺たち三人の前には、おにぎり、みそ汁、漬物、茶の並んだ膳が置かれている。
「いただきます」
緋澄の緊張の眼差しを一身に受けながら、おにぎりを一口いただいた。
軽く噛んでいるだけでほろりほろりと崩れてくる絶妙な握り具合。
ほのかな塩気が米の甘みを存分に引き立たせてくれる。
「うん、うまいな!」
予想外に大きな声が出た。
緋澄は大げさなと言いたげに、
「ただのおにぎりです」
と、くすぐったそうな表情を浮かべる。
しかし隠しきれない嬉しさがにじみ出ていた。
「いや、おべっかじゃなく本当だぞ」
むろん、何の変哲もない塩むすびだが、うまいものはうまい。
それ以外には言いようがない。
ぺろりと一個平らげ、さらにもうひとつと手を伸ばす。
「えへへ……ありがとうございます」
「わらわのはどうじゃ? どうじゃ?」
「ああ、ではこちらもいただこう」
魅狐にせっつかれてみそ汁をすする。
具はネギに大根に揚げか。
芳醇な香りが鼻を抜けていく。
みその分量が丁度良い。
またおにぎりを口に運びたくなる理想的なしょっぱさだ。
そして奥深いダシの風味が後味まで堪能させてくれる。
「おお……」
と、つい嘆息がもれる。
「……うまい」
「ふふ、そうじゃろう、そうじゃろう」
満足げに頷く魅狐。
意外と言っては失礼だが、これほど料理ができるとは思わなかった。
「毎日この朝飯でもいいくらいだ」
「まっ、これくらいであればいつでも作ってやるのじゃ」
俺の反応を見届けたところで、ふたりも自分たちの作った料理に手を付けはじめた。
「わたしもこんなおみそ汁を作れるようになりたいです」
「ほう、ではどちらがうまいみそ汁を作れるか勝負するのはどうじゃ? 判定は仁士郎がすればよい」
「そういう目標があったほうが早く身につくかもしれませんね。では、いずれ受けて立ちます」
「ただの湯にみそをぶち込んだだけの汁には一生負けんがの」
「そ、それはもう忘れてくださいっ!」
賑やかで、のどかな朝のひととき。
こんな暮らしが送れるのならきっと言うことはないだろう。
まだ夢を見ているのではと錯覚するほど心地良い時間だった。
「しかしふたりとも、ずいぶん早起きをしたのではないか?」
「今朝はおぬしが遅かったのじゃ」
「そうですね。少しだけお寝坊さんだったかもしれませんね」
寝坊と言われるほど遅くはなかったはずだが、普段よりぐっすり寝ていたのは確かだろう。
寝起きは悪くないはずなのに寝ぼけて妙なことを思ったりしてしまったからな。
「まぁ無理もあるまい。おぬし昨夜は大儀だったであろう」
魅狐がムフフと含み笑いをする。
「なにせふたりぶんの働きをせねばならなかったのじゃからな。嫁をふたりも持つ苦労が身に染みたじゃろうて」
「ぐほっ!」
と茶を含んでいた緋澄が豪快にむせた。
「ね、姉様っ、そんな堂々と、そのような話……!」
「わらわたちしかおらぬのじゃから別によかろう」
漬物をかじりながら平然と言う。
俺は緋澄に同意だった。
「魅狐……つねづね思っていたが、おまえの言動は俺には刺激が強いときがあるぞ」
もう少し恥じらいというものをだな……。
「わらわに言わせれば人間というのはまどろっこしすぎるのじゃ。もっと言いたいことを言い、やりたいことをやればよい。他人の目を気にしすぎるとも言えるの」
おまえは気にしなさすぎだ。
とはいえ、ここのところは頑張って大人しくしてくれているほうか。
以前のように人前で抱きついたり、卑猥なことをささやいたり、口づけをせがんだりもしないからな。
……改めて考えると無茶苦茶なやつだな、こいつ……。
歩み寄りの努力は認めるが。
「いいえ姉様、以前と同じと思ってはダメです」
普段は聞き流しがちな緋澄だが、今日は違った。
真面目な口調で諭しはじめる。
「妻であるわたしたちが恥ずかしい振る舞いをしたら、だんな様まで恥ずかしい目で見られてしまいますから。これまで以上に言動には気をつけるべきなのです」
俺のためにそこまで考えてくれているとは……。
いつからそんなしっかり者になったのだ。
「……ところで緋澄、なんじゃその呼び方は」
自分が責められそうと見るや、強引に話の矛先を変える魅狐。
こいつにはこういうところがある。
「あっ、これは、その……えへへ」
そしてまんまとそれに乗ってしまう緋澄だった。
しっかり者のおまえはどこへいった。
ただ俺も起きたときから気になっていたのでそのままにしておく。
「やはり夫婦になりましたから、こういう呼び方のほうがよろしいかと思いまして……。お、おかしいですか?」
恥ずかしげな上目遣い。
俺は即座に首を横に振った。
「いや、おかしくはないぞ。むしろ良い……とても良いぞ!」
「それならよかったです」
「もっと呼んでくれ!」
「はい、だんな様」
良い……。
俺がこんなふうに呼ばれる日が来ようとは……。
「よし今度は甘えるような感じで」
「はい……だんな様ぁ」
嗚呼……。
良い……。
「よ、よし、次は」
「その呼び方禁止じゃあっ!」
魅狐が急に不機嫌になって邪魔してきた。
「な、何故だっ!」
「呼ばれるたびにでれでれと鼻の下を伸ばしおって……! 見るに耐えぬ! 外でもそのザマではわらわとて一緒にいて恥ずかしくなってくるのじゃ!」
鼻の下を伸ばしていた……?
それは……伸びきっていたかもしれない。
「あ、実はわたしも、人前で呼ぶのはまだ恥ずかしい気がしてきまして……。やっぱり今までどおりの呼び方に戻してもいいでしょうか?」
「な、なに……?」
正直に言うと呼んでもらいたい。
しかし呼ばれるたびにだらしない顔を晒してしまうとしたら困りものだ。
「それは、やはり、緋澄の呼びたいように呼ぶのが一番だが……」
非常に残念だが、無理強いするものでもあるまい。
きっとまだ俺がその呼び名にふさわしい男ではないということだ。
いつか違和感なくそう呼んでもらえる日まで精進していくしかない。
……非常に残念だが。
「ではそのようにさせていただきますね、仁士郎様」
非常に残念だが……!




