王の血脈 九
「仁士郎様っ、いったいどうされたのですかっ!? だ、大丈夫なのですかっ!?」
魑潮とともに結の里まで戻ったところ、緋澄の悲鳴のような声に出迎えられた。
着物はぼろぼろ、体中ひっかき傷や噛み跡だらけ、おまけに返り血まみれな俺の姿を見れば無理もあるまいが。
「見た目より傷は浅い。安心しろ」
「とてもできませんけども……」
「な、なにがあったのじゃ……。魎鉄めは来なかったのじゃろう?」
魅狐も駆け寄ってきて、気遣わしげに俺の体を見やる。
今は説明する時間も惜しかった。
「姉様、話はあとです。はやく仁士郎様の手当てをしてあげませんと……!」
「手当てもあとでいい! ふたりとも、急いで荷物をまとめてくれ。今すぐここを発つ」
「えっ?」
「決まっているだろう。魎鉄を追う……今ならまだ間に合うかもしれない!」
と、ふたりももちろんそのつもりでいると思っていたのだが……露骨に難色を示されてしまった。
「ま、待ってください。そのお体ではいくらなんでも無茶です」
傷など大したことはないと言っているのに。
「こんな機会を逃す手はない。俺は奴を討つためだけにこうして旅をしてきたのだ。それが手の届くところにいる……おまえたちだって目的は同じはずだろう!」
「それはそうなのですけど……今は休まれたほうが……」
「まごまごしている時ではないぞ!」
緋澄の肩が小さく跳ねる。
「仁士郎、落ち着くのじゃ」
魅狐が責めるような目を向けてきた。
「今からあやつを追ったとて一朝一夕には追いつけぬじゃろう。となれば、わらわたちの婚儀はどうなるのじゃ?」
「そんなものはあとでいいだろう!」
「そっ……そ、そんなものじゃとぉ……!」
一瞬にして魅狐の眉がつり上がり、沸騰したように紅潮した。
はっとなる。いま大変な失言をしたのではないか、俺は。
大きな雷が落ちることを覚悟したが……意外にも魅狐は、自分を落ち着けるように深く長い息を吐いた。
「おぬし……自分で気づいておらぬようなので言うてやるが、相当頭に血がのぼって、正気を失っておる」
「正気を失っている……俺がか?」
「今のおぬしにはついてゆけぬ。そんなに行きたいのであれば、わらわたちを捨ててひとりで行くがよいわっ!」
唇を引き締めて、握った拳を震わせる魅狐。
そんな姉と俺とを不安げな視線で交互に見る緋澄。
冷水をひっかけられた気分であった。
「俺ひとりでか……」
不意に右手が重く感じた。
刀……?
「……それは寂しそうだ」
俺は――刀を鞘に納めた。
なんたることだ。
俺はずっと刀を抜いたままだったのだ。
そんなことにも気づかないほど不覚に陥っていたとは。
吸い込んだ夜風の冷たさが体に染み入る。
彼女たちはこんな中を俺が戻るまで待ってくれていたというのに……。
「……たしか、宿には内風呂がついていたな」
「えっ?」
「今から一緒に入ってくれるというのなら俺は思い留まるかもしれない。その誘惑は抗いがたい」
「わ……わかりました、入りますっ!」
困惑しながらも即答してくれる緋澄だった。
「よし言ったな。では気が変わらないうちに入りに行くとしよう」
「あっ、ということは思い留まってくださったのですねっ! ……ああぁ……しかし、そのためとはいえ、思わず大変なことに頷いてしまいましたっ……!」
「魅狐も入るだろう?」
「どうやら目が覚めたようじゃな」
俺の誘いは無視されてしまったものの、魅狐の口調が少しだけ柔らかくなった。
「ああ……おまえの言うとおりだ。先ほどから……あるいは魎鉄と出くわしたときから、俺は一人相撲をしていたのかもしれんな」
そして魍呀との戦いで極度の興奮状態になったままここへ来てしまった。
それでつい……。
いや、言い訳はすまい。
「心ないことを言ってしまった。すまなかったな、ふたりとも」
「いいえ。わたしは気にしていないので大丈夫です」
「うむ。わかればよい。……真に受けて本当にひとりで行かれてしまったらどうしたものかとハラハラしておったがのう」
魅狐はようやく表情をゆるめる。
「ほんとうです」
そして緋澄と顔を見合わせ、どちらからともなく安堵の息を吐いた。
「でも我を失ってしまうのも無理ありません」
緋澄は穏やかにかぶりを振る。
「魎鉄兄様は、仁士郎様のおじい様の仇……。それだけおじい様が大切な存在ということなのですから」
すべてを許して包み込んでくれるような優しさが心地良い。
血だらけでなければ思わず抱き寄せていたところだ。
血と言えば……なにやら体中がひりひりしてきた。
頭が冷えて正常に痛みを感じるようになったのだろうか。
……どんどん痛みが増してくる。
もしや俺が思っていた以上に重傷なのでは……。
獣といえど侮れんものだ。
こんな満身創痍で冷静さを欠いた俺が魎鉄に挑んだところで結果は惨憺たるものだったに違いない。
なんと浅はかだったのだろう。
止めてもらえてよかったと改めて痛感する。
「魅狐。緋澄。これからも、俺に至らないところがあったら遠慮なく叱ってくれ」
「はい。わたしも至らないところばかりですから、お互いに補い合っていけばうまくゆくと思います」
「夫の尻を叩くのも妻の役目じゃからな。存分にひっぱたいてやるのじゃ」
「妻……そうですよね。明日からは、わたしたち、そうなるのですよね……うふふっ」
うっとりするような表情を浮かべる緋澄。
が、すぐ現実に戻ってくる。
「ああっ、どうしましょう。浮かれていて考えもしませんでしたけど、わたし、花嫁修業をなにもしていませんっ!」
「わらわもまったくしておらぬから安心せい」
「とてもできませんけども……」
思い返せばいろいろあった一日だった。
いろいろあったが……ひとまず無事に明日を迎えられそうだ。
「……ふう」
と、黙ってなりゆきを眺めていた魑潮が、小さく息を吐いてその場を歩き去った。
「あ、ちーちゃん……」
呼び止めようとした緋澄を逆に俺が差し止める。
「今はそっとしておいたほうがいい」
「仁士郎……なにか知っておるのか?」
◆
どさくさに紛れて混浴する言質は取ったものの、この傷の具合では風呂はあきらめるしかなさそうだ。
まぁ後日の楽しみに取っておこう。
「魍呀兄様もここへ……?」
「それでこの怪我とは。わらわたちが一緒であればここまでにはならなかったろうにのう」
そうかもしれぬし、彼女たちまで同じくらいの傷を負う羽目になっていたかもしれぬ。
「ともあれ、でかしたぞ仁士郎よ。よくぞひとりであやつを討ち取ったものじゃ!」
宿に戻って手当てをしてもらっているあいだ、里の外であったことを話していた。
「緋澄の町で襲われた者たちもこれで浮かばれることじゃろう。よかったのう、日澄や」
「ええ……そうですね。仁士郎様、ありがとうございます」
喜色満面な魅狐とは違い、緋澄の表情は複雑な色を浮かべていた。
その理由はわかる。
彼女の仏のような慈悲の心は不倶戴天の敵さえ包んでしまうほど広く大きいものなのだ。
「ですがそれはそれとして、やはり兄妹ですから、亡くなられたことに対しては手を合わせておきたいと思います」
と、緋澄はさっそく両手の平を合わせて恭しく黙祷をささげた。
「底抜けに優しいやつじゃな。自分とて半死半生の目に遭わされたというのに」
魅狐が感心半分呆れ半分といった具合につぶやく。
「あのような大罪の悪党、さらし首にした上で小便をひっかけてやってもよいくらいなのじゃ」
鬼か、おまえは。
いや半分は鬼だが。
「それと魑潮のことだが……」
魎鉄に反旗を翻したということは、俺たちの仲間となって、旅に同行してくれるということでいいのだろうか。
本人の気持ちが落ち着いたらきちんと話をしたいところだが。
「うむ……心配じゃな。ああいう性格のやつじゃが、きっと心を痛めておろう」
ちなみに緋澄はまだ黙祷を続けている。
「俺もそう思う。もっと気を遣ってやれればよかったのだが……」
情けなくも俺にはその余裕がなかった。
そっとしておくというのも正解だったかどうか。
魅狐と緋澄がそばにいて慰めてやったほうがいいのではないか、と今でも悩まずにはいられない。
「わらわたち側についてくれるというのは嬉しいがのう。純粋には喜べぬ話がくっついてきたものじゃ」
「魎鉄が龍族の里を踏み荒らしたと……その話、まことだと思うか?」
なにか目的があってのことならともかく、まるで戯れのように。
俺の頭ではまるで理解できない行ないだ。
「あやつならやりかねぬ。……が、その場合、わらわたちの行く末は暗雲立ち込めたると言ってよいじゃろう」
魅狐は苦々しく顔をしかめた。
「龍族は大層強い力を有した種族と聞いておる。恐らく鬼族よりもはるか格上。それらと正面から争い、蹴散らしせしめたとなるとじゃ……」
ちなみに緋澄はまだ黙祷を続けている。
「魎鉄……わらわはあの男を安く見積もりすぎていたのかもしれぬ」




