妖化の仁士郎 中
山を下りて街道を歩いている頃にはすっかり日が沈んでしまっていた。
星の瞬く夜空には綺麗な三日月が浮かんでいる。
「満月でもないのにずいぶんと明るい夜だな……」
普段であれば何も見えないほどの暗闇に包まれているはずだ。
だが、まるでそこら中で松明を炊いているかのように明るく思える。
足元の小石ひとつひとつすらはっきり見て取れた。
「妖と化したことで夜目が利くようになったのじゃろう」
魅狐はなんでもないというふうに答えた。
「そういうものか……」
「目だけでなく耳や鼻も人間の頃より働くようになっているはずじゃ」
たしかに、腕力や体力は比べものにならないほど向上している。
ならば体の他の機能も強化されていて不思議はない。
しかし妖怪と言えども歩き詰めでは腹も減るし疲れもする。
俺と魅狐は、川沿いにぽつんと立った旅籠に宿を取ることにした。
「一部屋頼めますか。それから出来ればすぐ、飯と酒をふたりぶん持ってきて頂きたい」
「運が良ござんすね、お侍様。ちょうど一部屋だけ空いておりますよ」
接客に出たのはやけに上機嫌なおやじだった。
「ほほう。ずいぶん繁盛しておる旅籠なのじゃな」
「へへ、なに、旅芸人の一座が立ち寄ってくださって他の部屋をすべて埋めてしまっただけで。普段は閑古鳥が鳴いておりますよ、奥方様」
「誰が奥方じゃ……! 次にそのような呼び方をしおったら障子という障子を破いて回るぞ?」
子供か、おまえは。
魅狐の冷ややかな声に、おやじは笑顔のまま表情を凍りつかせた。
「そ、それはご無礼を……」
おやじは魅狐の姿を見ても別段驚かない。
やはり幻術とやらで狐の耳や尻尾の無い普通の女に見えているのだろうか。
もしかしたら俺もこれまで気付かぬうちに妖と接していたのかもしれない。
「では、こちらへ」
若い飯盛女に案内されて二階の奥の部屋に通される。
階下からは賑やかな宴会の声が漏れ聞こえていた。
先ほど聞いた旅芸人の一座とやらだろう。
魅狐が燭台に手をかざす。
すると、何もしていないのに一瞬でロウソクに火が灯された。
薄暗かった部屋がほのかな明かりに照らされる。
「それも妖術か?」
驚かされてばかりだ。
「仁士郎よ、ひとつ確認しておかなければならぬことがあるんじゃが……」
魅狐は俺の問いを無視して、なにやら不満げな眼差しを向けてきた。
「よもや、わらわにもこの部屋でおぬしと一緒に寝ろと言うのではあるまいな?」
「そのつもりだが」
「なんて無神経なやつなのじゃ……!」
そこで俺は彼女が怒っている理由に思いいたる。
小さい頃、拾ってきた犬と一緒に寝ようとして、結局外に逃げて行かれたことを思い出したからだ。
「ああ……やはり布団で寝るより草の上で寝るほうが落ち着くのか? それなら庭先にちょうどいい植え込みがあったぞ」
「わらわを野生動物と同じにするでないわっ!」
魅狐は子供のように地団駄を踏み鳴らした。
下が宴会で盛り上がっていなければ即刻苦情が飛んできたことだろう。
どうやら見当違いなことを言ってしまったようだった。
「じゃあ何が嫌なのだ?」
「おぬし……男女七歳にして席を同じゅうせずという言葉を知らんようじゃな」
「おまえは化け狐だろう」
「せめて妖狐と言うのじゃ!」
人間に近い見た目ではあるが、獣の耳と尾が、彼女が妖怪であることを如実に示している。
そんなやつと色気のある場面に発展するはずもない。
まぁ顔だけで言えば見惚れてしまうような美女ではあるのだが。
「心配するな、おまえのことは女と思っていない」
「それはそれで腹立たしいのじゃ……。わらわだけ意識していてまるでうつけのようではないか」
魅狐は頬を膨らませる。
面倒なやつだ。
「どちらにしろこの部屋しか空いてないらしい。一晩くらい我慢してくれ」
「むぅ、仕方ないのう……。植え込みで寝るよりマシと考えて耐えてやるのじゃ」
と、最終的には渋々と言った様子で了承してくれた。
「……くれぐれも妙な気など起こすでないぞ、仁士郎よ」
ほどなくして先ほどの飯盛女が膳と熱燗を運んでくる。
へそを曲げていた魅狐だったが、煮魚を頬張って一転至福そうな顔を浮かべていた。
「ほっほう、よく味が染みていてなかなかに美味なのじゃな」
「狐はお揚げ以外も食うのだな」
「仁士郎……わらわを次に狐呼ばわりしたら、その髪の毛すべて燃やしてやるのじゃ」
恐ろしい仕返しだ。
「……肝に銘じておこう」
◆
魅狐は案外酒豪なようだった。
「いやなことを忘れるには酒に限るのじゃ……」
などと呟きながら恐ろしい勢いでぐいぐいと呑み進めている。
「……魎鉄はどこにいるんだ?」
彼女が酔い潰れる前にと、俺は必要なことを聞いておくことにした。
「うむ……恐らくは鬼どもの総本山、鬼ヶ島に居を構えておるじゃろうな……」
徳利が空になったのだろう、魅狐は横になってうとうととし始めた。
「次の王を決める儀もそこで執り行われるのじゃ」
「遠いのか?」
「少なくとも一日二日で行ける距離ではないのう」
「そうか……」
「しかし、わらわたちふたりで乗り込んでも返り討ちに遭うのが関の山じゃ。こちらも少しは戦力を増やしておかなくてはの」
「おまえに味方してくれる鬼や妖怪はいないのか?」
「今はおらんのじゃ」
「今は……?」
「うむ……」
魅狐は体を起こして座り直す。
とろりとした目で、ゆらめくロウソクの炎をじっと眺めた。
「わらわは狐の里で暮らしておった。しかしこの後継者争いが始まったとき……魎鉄が攻め込んできて、里を滅ぼしていきおったのじゃ」
「魎鉄……!」
魅狐は抑揚のない口調で話している。
しかしそれは衝撃的な出来事だったはずだ。
それまで暮らしていた里を滅ぼされた……?
しかも自分の兄に。
「わらわは十人ほどのお供と一緒に逃してもらったのじゃが、そやつらも度重なる刺客の襲撃で、すべて殺されてしまっての……」
酒のせいで本音が出ているのか。
飄々としていて摑みどころのない魅狐だが、今はつい抱きしめてやりたくなるほどの憂いを瞳の中にただよわせていた。
「いよいよわらわ一人になり……途方に暮れていたところで、死にかけていたおぬしと出会ったというわけなのじゃ」
そんな憂いをかき消すように、出会ったときと同じ、蠱惑的な笑みを浮かべてみせる。
彼女なりの強がりなのだろうと思った。
「なので今の仲間はおぬしだけなのじゃ。……正直なところ、力を貸してくれると言ってくれて、心底ほっとしていたのじゃよ」
「魎鉄は、おまえにとっても仇ということか」
「そうじゃな。里の皆の無念を晴らすためにも、やつを王にはしたくないのじゃ」
「俺のほうは……あいにく、人間の知り合いしかいない」
自分の身で痛感したが、人間が鬼と渡り合うのはむずかしい。
無論お祖父のように鬼と戦う人間もいるにはいる。
しかし結局は敗れ、殺されてしまった。
俺のような思いを他の人にさせるわけにはいかない。
仲間にするには鬼か妖、あるいは、それと同じくらいの力を持った者が相応しいだろう。
「ひとり……心当たりがなくはないのじゃがな」
「仲間になってくれそうな者か。それはどんな奴だ?」
「うむ、それは……」
と言いかけたところで、魅狐は不意に険しい顔をした。
瞳には鋭い怜悧さを取り戻している。
「……仁士郎や。あれほど盛り上がっていたのが、ずいぶん静かになったものじゃな?」
言われてからようやく俺も気が付いた。
下の階から聞こえていた宴会の声がまったくしなくなっていたのだ。
いつからだったのだろう。
耳を澄ませてみても、話し声ひとつ、足音ひとつ聞こえない。
旅籠全体がぞっとするほどの静寂に包まれていた。
どこか遠くで鳴いている虫の声さえ聞こえてくるほどに。
この雰囲気は明らかにおかしい……。
「少し様子を見てくる」
俺は刀を手にして立ち上がる。
そのときだった。
大量の植物の蔓が、ふすまをぶち破って部屋の中になだれ込んできた。
「なにっ……!」
さながら緑色の蛇の大群。
無数の蔓は自ら意志を持っているかのように、俺と魅狐へと絡みついてきた。
手で振りほどこうとしてもなかなか振り払えない。
「なんだこれはっ!」
「妖術なのじゃ!」
「おまえを狙う者の仕業なのか?」
「うぐっ……!」
と魅狐の苦鳴に振り向くと、天井から伸びた蔓が首に巻きついて宙吊りにされていた。
「魅狐!」
俺は刀を抜いて足元に絡まってくる蔓を斬り裂く。
そして跳躍し、魅狐の首を吊っている蔓も斬ってやった。
魅狐が畳に落ちて尻餅をつく。
「はぁ……た、助かったのじゃ……」
植物の蔓は次々に殺到してくる。
一、二回斬り払った程度ではキリがない。
あっという間に床や壁が緑で埋め尽くされていた。
「この蔓……生命力を吸い取るようじゃ。長く触れていては危険なのじゃ!」
「ひとまず外に出るぞ!」
「うむっ!」