王の血脈 六
どうにかふたりを説得して結の里に留まらせ――
俺は申し渡した通り池のほとりで魎鉄を待っていた。
里の南に位置する三角池。
来る途中に休憩をした場所だ。
これだけ離れていれば戦いの影響が里に及ぶこともないだろう。
夜闇に包まれた樹海は奇妙なほど静かだった。
鳥や獣の声はおろか虫の声すら聞こえてこない。
湖面は墨を流したように黒く染まっている。
頭上は雲のない星空。月は中天にさしかかる。
いよいよこのときがきた……。
お祖父の形見である刀に手を添え、精神を研ぎ澄ます。
必要なのは臆さぬこと。
そして己を信じることだ。
魎鉄の首を取る。
仇討ちを果たす。
魅狐と緋澄を守る。
彼女たちと添い遂げる。
その輝かしい未来のために、ここですべての決着をつけるのだ。
和修吉さんと摩那さんも俺たちに付き合って婚儀を明日に延期してくれた。
その気遣いにも報いなくてはならない。
「いつまで待っても魎鉄は来ないぞ」
と、静寂の中に女の声が響いた。
金色の髪をした人影が闇の中から滲み出てくる。
「魑潮……どういうことだ?」
現れたのは彼女ひとりだけ。
もしやと思ったが魅狐と緋澄の姿はなかった。
「知らぬ。私は言伝を頼まれただけだ。魎鉄は今しがた里を出て、こちらではなく明後日の方向へ飛んで行った、と」
「なんだと……」
里を出てきたとき、魅狐と緋澄は入り口まで見送りに来て、その場で帰りを待つと言っていた。
そこで魎鉄とすれ違ったのかもしれない。
「すでに用事も済ませたようだ。もう戻ってくることはないだろうな」
「だとしたら何故ここに来ない……? 俺は奴に果し合いを申し込み、奴はそれに応じたはずだ!」
果し合いとは互いの命と誇りをかけた尊いものだ。
だというのに平然と反故にするとは。
「そもそも素直に人の言うことを聞くようなやつじゃないからな。その約束というのも怪しいものだ」
恐れをなして逃げたというわけでは当然ないだろう。
きっと奴の中では、俺との口約束など取るに足らぬことだったのだ。
路傍の石も同じ。
最初から気に留めてさえいなかったのかもしれない。
腹の中がふつふつと煮え立ってくるようだった。
「言伝はそれだけだ。姉上たちは律儀におまえの言い付けを守って釘付けになっているからな。おかげで私が使いに出される羽目になった」
面倒くさそうにため息をつく魑潮。
不満げではあるが夜中にこんなところまで来てくれるあたり、彼女も案外律儀な性格なのかもしれない。
「そうか……手間をかけたな。言付け痛み入る」
腹立たしいが、もう来ないというのなら待っていても仕方がない。
気持ちを切り替えるべきだ。
来ないのなら、こちらから向かえばいい。
せっかく手の届くところまで迫っているのだ。
むざむざ逃がすような真似はしたくない。
「すまないが魑潮、もう一度言伝を頼まれてくれ。俺は魎鉄を追いかけるから、ふたりにはそのまま里で待っていてほしいと」
「おまえの頼みなんか聞くか。自分で伝えに行け」
くっ、このようなときに……。
「まぁ、どちらにしろ、あいつをなんとかしてから考えるといい」
魑潮の視線が鋭さを帯びて周囲を見回した。
◆
突風に吹かれるように――大量の足音が夜の静けさを打ち破った。
樹々の間から小さな影が次々と飛び出してくる。
何十、いや、何百。
あっというまに俺と魑潮の周りを獣の群れが取り囲んでいた。
「狼……!」
だが襲ってくることはなく、ただただ遠巻きから睨んでいるだけだった。
さながら俺たちを逃がさないための、生ける檻。
この統制の取れた動きはとても野生の獣とは思えない。
ひとつ思い当たることがあった。
狼の群れを兵隊のように率いて来訪する者……。
その予想は的中した。
「久しぶりだなぁ、半妖の用心棒!」
地の底から響いてくるような低い声。
と共に、狼の大軍勢の奥から大鬼が姿を現した。
「てめぇのツラは一日たりとも忘れたことがなかったぜ!」
「魍呀……!」
見上げるほどの巨大な体。
焼けた鉄のような赤銅色の肌。
血に飢えた灰色の瞳。
夜空に向かって伸びる三本の角。
そして……かつての戦いで俺が切り落とした隻腕。
魅狐たち五兄弟の次兄。
鬼と獣の血を引く――獣王子魍呀!
「なぜ貴様がここに……!」
「兄者が幾十回目の婚儀をなさるってんで祝いにお供してきたのさ。まぁ今度の花嫁どもが何日保つかは知れたことだが……それよりもだ!」
魍呀は牙を剥き出しにして笑う。
「めでてぇことは重なるもんだなぁ! こうしてっ!てめぇにぶった斬られたこの右腕の借りを返せるんだからよぉっ!」
「魎鉄はどうした!」
「はっ! 思い上がった野郎だ。てめぇが勝手に取り決めたことに兄者が従うとでも思ったのか!」
夜闇に哄笑が響く。
なぜだか周りの狼たちにまであざ笑われれている気がした。
「魎鉄の兄者が従うのは己の心のみ! 決して他人には従わねぇ! 流されねぇ! 絆されもしねぇ! それでこそ兄者! 王に相応しい御人よ!」
魍呀は自慢げに胸を張る。
ただ自分勝手なだけだ、それは。
「てめぇごときの相手はオレで充分! そしててめぇを始末したあとはあの出来損ないの妹どもだ!」
結の里のほうへ小太刀のような爪が向けられる。
「兄者のお気に入りだから里には手が出せねぇがな。てめぇの首をちらつかせてやりゃあ、あのふたりだってたまらず外に出てくる。そこで血祭りよ!」
よりにもよって、今、こいつと再び会おうとは!
月に叢雲花に風などという言葉があったか……。
物事はとかくすんなりとゆかぬものだ。
因縁浅はからぬこいつを放って魎鉄を追うことはできない。
足止めを食らうのは腹立たしいが、あるいは逆に考えれば、この両者をひと息に葬る絶好の機会であるとも言える。
四の五の言っている時間さえ惜しい。
「魍呀……もはやおまえと話すことなど何ひとつとしてない。次に相見えたときはおまえの首をもらうときと決めている」
「話が早ぇじゃねぇか」
「だが、その前に魑潮は逃せ。この戦いには関わりがない」
彼女は今のところ魎鉄と魍呀には反目していない。
やつらとて危害を加える気はなかろう。
「そうさせてもらえると助かるな」
黙って聞いていた魑潮が飽きたように口を開いた。
俺のそばにいたことで一緒に狼たちの包囲網に捕まってしまい、戻るに戻れなかったのだ。
「そりゃ構わねぇが」
と言いかけて、
「ああ……そうだそうだ、忘れてたぜ」
魍呀はうっかりしていたとばかりに頭をかいた。
「兄者からおめぇに渡すよう預かってたもんがあるんだった。そいつを受け取ってから帰ってくれや」
群れの中から一匹の狼がのそのそと歩いてきて、くわえていたものを俺たちの足元に置く。
そしてすぐさま、また群れの中へと戻っていった。
地面に置かれたのは一振りの石剣。
かなり古ぼけてはいるが、緻密で美しい彫刻が施されており、傍目にも大層立派なものだとわかる。
「こ、これは……馬鹿なっ!」
魑潮は愕然と目を見開いた。
小刀のようなその石剣を握った手がわなわなと震え出す。
初めて見る狼狽ぶりだった。
「貴様っ……魍呀貴様! なぜ貴様がこれを……どうやってこれを手に入れたっ!」
「おめぇの想像してる通りだよ」
今にも嚙みつかんばかりに食いかかる末妹とは対照的に、魍呀は愉しむような笑みを浮かべてみせた。




