王の血脈 三
「ふふっ、大変でしたね」
剣術道場でのことを思い出して緋澄が笑みをこぼした。
あのあと。
俺たちの手合わせを見て触発された門下生たちが次々と挑んできて、本当の道場破りのような騒ぎになってしまったのだ。
全員打ち倒しはしたが、もちろん道場の看板を取るようなことはしていない。
最後には俺と緋澄も稽古にまぜてもらい、皆で良い汗を流してから別れたのだった。
ちなみに魅狐は俺との一本勝負以外には木刀に触ろうともしなかった。
「だが新鮮な気持ちで良い稽古ができた」
そして日が暮れてきたので、呑み屋に入って今に至るというわけである。
良い稽古のあとは酒も一段と美味い。
「また道場を見かけたら飛び入りで参加させてもらおうか」
「はい。いろんな方と手合わせをするのはとても勉強になります」
「しかし惜しかったのじゃ。おぬしから見事一本取ってわらわの言いなりにしてようと思ったのじゃがなぁ」
酒の入ったお猪口を傾けながら魅狐がぼやく。
ちなみに勝負の内容的にはまったく惜しくなかった。
「あのようなことをしなくてもだ。俺にしてほしいことがあれば遠慮せずに言ってもいいのだぞ」
わりと言いたいことを言っているように見える魅狐だが、実は遠慮をしている部分があるのかもしれない。
そうであるなら気兼ねなくなんでも言ってもらいたいし、出来ることならしてやりたいと思う。
夫婦になるというのならなおさらだ。
「ならば仁士郎よ。これを口移しで呑ませてくれぬか?」
と、お猪口を俺の口元へと押し付けてきた。
……前言撤回。
「普通に呑め」
「ぬっ……! 遠慮せずに言えと言うたばかりじゃろっ! 武士に二言があってよいのかっ!」
声を荒げるほどやってほしいことか?
「いや、言ってもいいとは言ったが、必ず聞いてやるとは言っていないぞ」
それに、そんな斜め上のことを言われるとは思っていなかった。
「あきらめてくれ」
「いやじゃいやじゃ。おぬしの唾液を肴に酒が呑みたいのじゃっ!」
「大声で気色の悪いことを言うな」
「むぅ……実はのぉ、このあいだおぬしの首に噛みついたときにのぉ」
魅狐が甘えた声で寄りかかってくる。
妖術で操られていたときの話か。
「おぬしの血を飲んでしまって以降、どうにもおぬしの生き血が欲しくてたまらなくなるときがあるのじゃ」
妖怪か、おまえは。
妖怪だった。
いつか食い殺されるのではないか俺は。
「とはいえ血を流させるのは忍びないのでな、唾液で我慢してやろうと言っておるのじゃ。他の体液でも良いのじゃがこの場で出させるわけにもいかぬしのぉ、でへへ」
いや単に変態者なだけかもしれない。
俺が対処に困っていると、魅狐は拗ねるように腕を締めつけてきた。
「緋澄には口移しで呑ませておいてわらわには出来ぬと申すのか? そんなの不公平なのじゃ」
「私そんなことしてもらってませんけど……」
横から緋澄が反論する。
魅狐は意外そうに小首をかしげた。
「むう……? おぬしは覚えておらぬか」
「えっ?」
「魍呀のやつに深傷を負わされたおぬしに仁士郎が御神酒を口移しで呑ませてやったから一命を取り留めることができたのじゃぞ」
「えぇっ!」
緋澄は目を丸くして俺の顔を見た。
「ほ、本当なのですか、それっ!?」
「ああ……そんなこともあったな。意識がない状態だったから口移しで無理矢理呑ませることにしたんだ」
あのときは本当に死んでしまいそうな状態だった。
しばらく寝込んでいたとはいえ、元気になってくれてよかったと心から思う。
「く、口移しということは、その、私の口と仁士郎様の口が触れ合ったということですか……?」
「自然とそうなるな」
「そ、そんな……」
緋澄はガックリとうなだれた。
そんな反応をされると傷つくぞ、俺は。
「……私、あのときが初めての口付けだと思っていたのですけど……」
互いに気持ちを打ち明けたあの夜のことだろう。
「それよりずっと前に……しかも私の知らないうちにそんなことをされていたなんて……ひどいです……」
「しかしだ。治療のために止むを得ずしたことだし、結局俺が相手なのだから大した問題ではないだろう」
他の男に唇を奪われていたのならまだしもだ。
それほど気にすることでもないと思うのだが。
違うのか?
「気持ちの上では大きな問題ですっ!」
違うようだった。
これが女心というものか。
「……今後はもう隠し事をしては駄目ですからね?」
「別に隠していたわけではないが……」
「もし他にもあったら今のうちにすべて言っておいてください。なぜなら、私たちは、その……夫婦になるのですから……」
自分で言っておきながら頬を染める。
叫んだり照れたり忙しいやつだった。
「私、仁士郎様のことでしたらなんでも知りたいですし、私のこともすべて知っていてもらいたいですから」
「ああ、わかった。だが隠し事と言うほどのことなどないぞ。魅狐だってないだろう?」
「そうじゃなぁ……あるとすれば……」
魅狐は記憶を探るように視線を宙に泳がせる。
それがある一点でぴたりと止まった。
「緋澄より先にわらわと寝たことくらいじゃな」
それがあったか。
「えぇぇっ! ど、どどどういうことですか、それっ!」
「なに、結局このような関係に収まったのじゃから小さな問題じゃろ」
「気持ちの上では大きな問題ですっ!」
それは俺もそう思う。
「だ、だって、私の目を盗んでそのようなことをしていただなんて、そんな……」
「いや誤解があるようだが、おまえに出会う前のことだ。目を盗んでとか、そういう話ではない」
「会う前……?」
「宿にふたりきりで泊まったことがあってな。そのときに、一度だけ、自然とそのような雰囲気になったのだ」
「えっ……しかし、そのとき姉様と仁士郎様は恋仲ではなかったのですよね……? どうしてそのようなことに?」
痛いところを突くやつだ。
「恋仲でなくとも、若い男女がふたりで夜を過ごしていると自然とそうなることもある」
「好きでない人ともですか……?」
純真な眼差しで見つめられ、獣欲に負けただけの俺は思わず目をそらした。
「わらわはそのときから仁士郎のことを悪からず思っていたがのう」
と、魅狐が意外なことを言った。
「わらわのことをケガもいとわず守ってくれた男気、果敢に鬼に立ち向かった勇姿……ひそかにときめいておったので、布団に潜り込まれたときは胸が高鳴ったのじゃ」
そうだったのか……?
まったくそんな気配は感じなかったが。
「いくら利用してやろうと思っておっても全然その気のない男に肌を許したりはせぬ。わらわも乙女じゃったからの」
しかし待てよ。
「あのことについておまえにいろいろと厳しく責められた気もするが……」
「すべて照れ隠しだったのじゃ。しかしのう、布団から足をチラと出してやっただけでまんまと欲情するとは、わらわの思うつぼであったぞ」
魅狐は悪びれる様子もなく微笑んだ。
……恐ろしい生き物だな、女というのは。
「そういう大事なことはちゃんと言ってもらいたかったです……」
緋澄は今にも泣きそうに眉をハの字にした。
「すまぬとは思っていたがのう。おぬしが早々に仁士郎を好きと言い出したので言うに言えなくなってしまったのじゃ」
そういう微妙な時期に言ってしまえば緋澄が傷付くのは明白だ。
魅狐とて意地悪をしていたわけではなく、彼女のためを思って黙っていたのだろう。
「それはそうですね……。もし聞いていたら複雑な気持ちになっていたかもしれません……」
緋澄もそのあたりのことはちゃんと理解してくれているようである。
「……わかりました。こうしてきちんと打ち明けてくれたので許します」
納得するようにうんうんと頷いて、ようやく表情を軟化させた。
「きっと明日のうちには結の里に着くでしょうし。これでなにも隠し事がなく、晴れて三人で夫婦になれますね」
「そう言うならばじゃ緋澄よ。おぬしこそ仁士郎に隠していることがあるのではないか?」
お返しとばかりに魅狐が悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「えっ、私はないと思いますけど……」
対して緋澄はきょとんとする
「ほほう?」
しかし魅狐は自信ありげな態度だった。
「ならば、夜な夜な布団の中で仁士郎さまぁ仁士郎さまぁと甘ったるい声を漏らしながら自分の体をさすっていることも言ってしまってよいのじゃな?」
もう言ってるが。
「なっ……! なっ、ななっ、な……なあぁっ……!」
口をぱくぱくさせる緋澄の顔が火を吹きそうなほど真っ赤になった。
「隣で寝てるわらわが気付かぬわけあるまい」
「あああぁぁーーーっ!」
そしてこの世の終わりのような声を上げながら、顔をぶつける勢いで机に突っ伏した。
それは隠し事というより秘め事と言うべきものではなかろうか。
「私……もうお嫁に行けません……」
「来てくれねば困るぞ……」
◆
恥ずかしさをまぎらわすようにどんどん酒を呑んだ緋澄は、あっというまに酔い潰れてしまった。
「夜はまだ長いというのにもったいないやつじゃな」
「あまりいじめてやるなよ」
「反応が可愛いのでついついからかいたくなってしまうのじゃ」
それもわからなくはないがな。
微笑む魅狐がぴったりと身を寄せ、机の下で指を絡ませてくる。
夜の呑み屋だ、他の席でも仲睦まじく寄り添う男女の姿がある。
こういう場なら俺も無粋なことは言うまい。
「むふふ、おかげで今宵はおぬしを独り占めできそうじゃ」
と、魅狐が俺の頬をぺろぺろと舐め出した。
犬か、おまえは……。
いや狐も似たようなものだが。
さすがにこんな変態的なことをしている男女は周りにはいない。
「そうじゃ、互いの体を触りあって先に声を上げたほうが負けという遊戯でもせぬか?」
その楽しそうな遊戯は後でするとしてだ。
「魅狐……大事な話をしていいか」
緋澄が酔い潰れてしまったのは想定外だが、彼女は彼女で改めて話をしよう。
横にずれて体を離し、バクバクした心臓をどうにか落ち着ける。
魅狐は不満げに口を尖らせた。
「この先、魎鉄と戦うこともあるだろう」
「それが目的で旅をしておるのじゃから当然あろうな」
「もしその戦いで俺が死んだときは……」
「縁起でもないことを言うでないっ!」
魅狐が真剣な口調で叱る。
しかしこれだけは伝えておかなくてはならないことだった。
夫婦になると口で言うのは簡単だが、現実問題として責任が伴う。
仇討ちが失敗したとき、俺ひとりが死んで終わる話ではなくなるのだから。
「万が一にもそうなったときはだ。大人しく降参して、やつが次の王になることを認めてくれ」
「な、なんじゃと……!」
「そうすれば、少なくともおまえたちが命を狙われる理由はなくなるはずだ」
「そのようなことはお断りじゃ」
しかし魅狐は断固たる態度で首を横に振った。
「前の王……わらわたちの父君は、他の種族との共存共栄を掲げておった。種族の違う妻を五人迎え入れたのもそんな御政道の一環じゃ」
鬼、獣、妖、人、龍……。
奇妙な家族構成だと思っていたが政略結婚という意味合いも含まれていたのか。
「しかし魎鉄は唯我独尊を絵に描いたようなやつじゃ。自分のことしか考えず、傍若無人に振る舞い、逆らう者は誰あろうと殺す。共存共栄なぞもっての他じゃろう」
魅狐はため息まじりに続ける。
妹である彼女が住まう里を攻め滅ぼしたというあたり、まさしくそういうやつなのだろう。
「あやつが王となった暁には、今は大人しくしておる他の鬼たちも大手を振って同じような振る舞いをし出すじゃろう。そうなればこの世は地獄なのじゃ」
鬼の力は恐ろしく強い。
無秩序に暴れ出したら人間などひとたまりもないだろう。
それを防ぐためにも魅狐は次なる鬼の王になろうとしている。
「そんな世の中を見るくらいならばおぬしと一緒に死んだほうがマシじゃ。きっと緋澄も同じ思いじゃろうて」
「だが、そうであっても、俺はおまえたちには生きていてもらいたいと思う」
「これだけは譲れぬ」
魅狐の金色の瞳が俺を射抜いた。
「おぬしの死ぬときがわらわたちの死ぬときじゃ。それくらいの覚悟も持てずに何が夫婦じゃ」
「魅狐……」
「わらわたちを生き長らえさせたくば、まずはおぬしが生きることを第一に考えるがよい。……魎鉄を討ったとて、おぬしのいない世界なぞ地獄も同じなのじゃからな」
そして再び身を寄せてきて、すがりつくように俺の胸に顔をうずめた。
「どうもおぬしは自分の命を軽く見積もっておる節があるからのう……。そこだけは直してほしいところなのじゃ」
「……そうだな。三人で生きていく。無論、一番に考えているのはそのことだ」
彼女の頭を抱いてふかふかの狐耳を撫でる。
だが……いよいよとなれば、俺は彼女たちのために自分の命だって投げ打つだろう。
安く見積もっているつもりはない。
俺にとってこのふたりはそれくらいの価値がある存在だからだ。
「せっかくの酒席じゃ。そのように辛気臭いことよりももっと楽しいことを考えたほうが酒が美味いぞ」
「楽しいことか」
「たとえばじゃなぁ……わらわと緋澄になんでも言うことを聞かせられる権利をどのように使うか、とかのう……」
負けた者がそういう罰を受けるという決まりだったな。
俺としてはそういう不純な動機で稽古をしていたわけではないので、あまり本気で受け取ってはいなかったが。
まぁ使い道は追い追い考えるとしよう。
緋澄がこんな状態では今日はもうお開きだろうからな。
「わらわが言い出した罰じゃ。たとえ助兵衛な命令を下されようとも絶対に従わなくてはならぬ……。ふへへ、困ったことになってしまったものじゃ」
喜んでないか、おまえ。




